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季語「初春」を詠んだ句から一句


初春や家に譲りの太刀はかん   向井去来


 去来の生きた時代、
太刀が象徴や装飾品になっていることが
よく伝わってくる句だ。
江戸時代も中期になると、
もうすでに百五十年やそこいら
戦というものがない時代が続いている。 
次第に刀も実戦的なものから
身分や権威の象徴と変わっていく。

 持たなければならない決まりならできるだけ軽くと、
刀の作りも細身で反りの入ったものになってきた。
 また象徴的な持ちものとして拵えも装飾性を強めてきた。
これが幕末になると、殺伐とした世を反映するように、
また実戦的な刀が重要視されるようになる。
刀のあり様は時代を反映しているのだ。

「太刀をはく」は帯刀することで、
 この句では去来は武士の出であることへの誇り、
普段は帯刀しない家伝来の太刀を
正月の正装として帯びることに誇りと共に
正月を寿ぐ気持ちを込めている。
 しかし、去来の生い立ちを考えると、
その誇り一辺倒でないように感じるのだ。

 去来は一六五一年に生まれ、一七〇四年に亡くなっている。
長崎で儒医、向井元升の次男として生まれ、
去来が八歳の時、向井家は京都へ移住した。
 その後、福岡の叔父の家に養われ武芸に励み仕官を志すが、
十年の後、志かなわず京都へ戻ったのだ。
 京都に戻った後、家業を手伝う一方で、
天文や暦数の知識を身に付けていた去来は、
その知識によって摂政親王家の家に出入りしていたという。

 俳人としての去来は、松尾芭蕉の弟子として知られる。
芭蕉との出会いは、榎本其角を通じて門下となったことによる。
去来の力量は次第に認められ、芭蕉の信任も厚かった。
 二人に共通するのは武士として生きることを志し挫折した点。
相通じるものがあったように思える。

 この句には士官を志しながらも俳諧師として生きた彼の
武士を血筋とする誇らしさと同時に、
若い日の挫折への思いが込められているように感じる。
 朗らかに正月を祝う気持ちを詠う句に
隠された屈託を感じるのは思い過ぎであろうか。
文:黒川俊郎丸亀丸

追記
去来の墓に詣でたことがある。
去来は京都嵯峨野に「落柿庵」という
芭蕉も滞在したことのある庵を持っていた。
「落柿庵」は今に残り、
その近くの杉林に囲まれた場所に
「去来」とだけ彫られた小さな自然石の墓であった。
 
 後に高浜虚子がこの墓を詠んだ句がある。
「凡そ天下に去来程の小さき墓に参りけり」
十七文字より九文字も多い異例の字余りの句だ。
そこに虚子のこの墓から受けた感動大きさが伝わり、
俳句という詩の懐の広さを感じる。



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