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どうやら「半熟玉子」は西洋伝来調理法らしい

 長い間、物価の優等生と言われていた卵が、遂に値上がりしたとニュースになった。優等生の理由は、長い間他の物価が上昇しても同じような価格を維持してきたことにある。それが2023年には小売価格で倍になったといった話が伝わってくる。
 とはいえ価格も平均的な卵というものと、特別な卵というものがあって、飼育環境や餌を工夫された卵はもともと高い。高いだけあって「この卵なんて旨いんだ」と感嘆するような卵もある。大きさ、黄身と白身の調和、割ったときの張り、味の濃さなど、卵好きの僕にはたまらない卵に出合うこともある。
 
 それにしても、こうした旨い卵、日本在来種の流れを汲む鶏が自然飼育に近い方法で飼育されている場合が多い。そうすると、かの時代の者たちは、さぞかし旨い卵を食べていたことになる。
 遡って江戸時代の卵事情が気になるが、江戸時代になると卵料理の調理法が五十種類くらいは記録に残っているそうだ。
 江戸時代も後期には、卵を採るための養鶏も行われ、都市部には卵専門の問屋もあった。広い敷地があって養鶏に向いていたため、下級武士の副業として養鶏が盛んな場所もあったという話も残っている。

 ところで気になるのが「卵かけご飯」である。これは江戸時代からあったのか。生卵を直に食べてはいなかったようだとする説がある。
 「玉子販」という料理があり、これは釜で炊き上がったご飯に溶いた卵をかけ蓋を閉めて蒸したのち、醤油と薬味をかけて食べるというものだった。ちょっと峠の釜飯の釜でやってみたくなる(笑)。
 ただ、この調理法れっきとした料理なので、料理とも言えない「卵かけご飯」は外されている可能性も高い。

 生卵のかけご飯が食べられるようになったのは、明治時代になってからとされ、最初に食った人物がいて雑誌の記事になって記録に残る。塩、唐辛子で食べたそうだ。
 ただ、この話別段、そうなんだという話でいいとは思うが、河豚まで食べていた日本人が明治になるまで、生卵に手を出さなかったという話の方が疑問。鋤焼きに生卵もごく自然に組み合わさったしね(笑)。
 
 ところで、しっかり加熱されたゆで卵はあったが、「半熟卵」という概念がなかったという話には真実味がある。この話は『明治風物誌』と52年前に発行された柴田宵曲という俳人にして文筆家の書いた本にあった。
 「半熟玉子」という小文である。この文章で柴田宵曲は、もっと古い書籍を参考にして、日本では明治になってもだいぶ後になるまで「半熟玉子」を知らなかったと述べている。
 いくつかの書籍から逸話を拾い出しているが。播州の彦蔵たちの永力丸が遭難してアメリカ船に救助された折に出された食事の話が一つ。     
 彦蔵の『漂流紀』にある「卵が半生であったが遠慮して文句を言わず食ったら、後でその方が旨いことを知った」という内容の記述。
 その後は明治時代になって「半熟玉子」の旨さを知った知識人が地方で、「半熟玉子」を注文する話である。どちらも明治も後期の話だ。
 一つ目の逸話は、地方で半熟玉子が分からない煮売り屋に色々説明して、やっと通じたようなので出来てくるのを待っていると、しっかり固茹での卵が出来上がってくる。
 亭主を咎めると「もしや半ゆだりだと失礼でございますから」と返される話。
 もう一つの逸話は、これも地方も宿屋で「半熟玉子」を注文するが、そこの女中にうまく話が通じない。ともかく茹でることは伝わったので、半分茹でるとしっかり伝えて待つと、籠に入った卵が持ってこられる。
 手にした一つを割ってみると生玉子だった。「半熟と言ったのに何で生なんだ」と次を割ると今度は固茹で卵。それを見て女中が「半分煮て参じました」と言うのである。 
 こっちの方は、「注文のためのやり取りとその結果が面白いことは面白いのだが、そこまでして、所かまわず半熟玉子を食べたがるな」と注文に付き合っている方に同情がいく(笑)。
 しかし、こうして「半熟玉子」は日本中に広がったんだろうね。

※タイトル画像はMarukimaruの自作ですが「しちゃうおじさん」プロデュースの「みんフォトプロジェクト」経由で自由にお使いいただけます。背景色のバリエーションも揃っています。その他にもMarukimaru作品が「みんフォトプロジェクト」にギャラリー展示されいます。




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