自分で道を切り開く意味―松永K三蔵『バリ山行』感想―

【芥川賞受賞作『バリ山行』の感想文。
産経新聞のビブリオエッセーにも採用されたが、応募原稿と、産経の担当者が手直しした決定稿とは細かな違いがあり、どういう表現を直して、また付け加えたりしたら良い文章になるか、他者の視点を取り入れてもらえるので文章を推敲する上で参考になった。
明日、久しぶりに六甲山最高峰へボッチ山行するつもり。もちろん『バリ山行』をリュックに詰めて。山中の人けのない場所で本を読むのがめっちゃ好きなのよね】 

 <応募時の原文>
 山に登るとき、いつも登山道から外れないか不安になる。私がソロでよく行く六甲山系は身近な低山だが、道迷いのリスクは勿論ある。登山アプリで常に位置確認をして、ルートを見失わないように注意している。
 だから私にとって、「バリエーションルート(バリ)」という発想は衝撃的だった。地図にも載っていないような難易度の高い道なき道を、自分の目で見極め、自分の足で切り開いていく。危険な行為だ。
 バリ山行を楽しむのが、建物の修繕工事会社に勤める妻鹿。彼は仕事の腕は確かだが職場では腫物扱い。「自分の仕事をやるだけ」と周囲の目を気にしない。社内行事で登山趣味に目覚めた波多は、妻鹿の身の振り方に興味を持ち、仕事で助けられたのを機にバリについていく。正規ルートを敢えて外れ、藪を漕ぎ、蔦を裂き、植物の棘に刺され、時にはロッククライミングのようなロープ下降も遂行する。死の危機に瀕した波多に対し妻鹿は言う。「問答無用で生きるか死ぬか。まさに本物だよ」。波多は反発した。本物の危機として向き合うべきは山ではなく生活だろうと。業績悪化が続く会社で、バリのように我が道を行く妻鹿は、人員整理の筆頭格と噂されていた。
 私は周りに流されない妻鹿の生きざまに共感するが、もし彼が同僚だったとしたら正直やりづらい。妻鹿がバリに執着する本音は彼の口から語られないが、後に彼と同じ道をゆく波多の思いから、十分に想像できる。山の中に分け入って読みたくなる小説だった。次に六甲山系に登るときは携行したい。休憩スポットで藪の向こうを眺めながら、彼らのような生きる道にじっくり思いを馳せたいのだ。

<掲載時>

https://www.sankei.com/article/20240828-FCHODREKCVMNLO5BU55MYPXSAE/

 
 


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集