森の生活 ☆144
26日の土曜、ある市民の集いに参加してきた。もしかして、地域に良さそうなコミュニティがあれば参加しようかと、模索中なのだ。
と言っても何かをしたいという明確な目標がある訳でもなく、ただ模索しているだけ、或いは種撒きしている段階なのである。
ソーシャルワーカー目指して勉強している所だが、今はソーシャル インクルージョン(社会的包摂)の考え方が重要なのだという。
これは、分かり易く言えばお互いに助け合い、支え合うイメージなのであるが、私の今の現状はそのような事とはまったく無縁で孤独だと言って良い。
いや、私は孤独でいることが悪い事だとは、ぜんぜん思っていない。私はむしろ孤独を好む性質だし、仕事をしていれば否が応でも人付き合いせねば支障が起こるのだから、それだけでも十分なような気もする。
けれど、ソーシャル インクルージョンというお題目が、実際にどのようにこの社会に作用しているのか、或いはぜんぜん機能していないのか、現状を覗ける機会があれば見て実感したいし、多少なりともお手伝い出来る事があるならボランティアで参加するのもやぶさかではないのである。
去年の今頃、私は借金を返す一助として、せっせとアルバイトをしていた。それを思えば少しは時間に余裕がある。
一方、私はnoteの記事で、ときどき子供の頃を振り返っているけれども、元来が昆虫少年なのであった。
小学校の時、近所の子供たちとメンコや草野球、缶蹴り遊びもしたけれども、1人で野原や森に入って昆虫を探して過ごしていた。1人で過ごしていても何ら苦痛を感じない。
本を読んだり、映画や観劇や落語を楽しんで、noteの記事を書いて、読んで、温泉に行き、ときどきは旅にも出るかも知れないが、それだけで何の不足も感じない気もする。
柳田國男に『山の人生』という著書があるが、ソローにも『森の生活 ウォールデン』という名著があって、若い頃読んでこころ惹かれた事があった。
ソローは森で自給自足の生活を2年送った。その資金は現代の価値に換算して、年に10万円くらいだったようで、質素にシンプルに幸福に暮らせたらしい。
アメリカの物質主義的な暮らしに馴染めず、パーティなど人の多く集まる場に参加しても却って孤独を感じるようなタイプだったようだ。
森で、静かに、深い思索をする毎日こそがソローにとっては本当の生活だったのである。
私はもともとこういうのに憧れる性質なのであった。原始仏教が好きで、仏陀もそのような生活を送っていたはずなのである。
ソーシャル インクルージョンという考え方は必要であり理想的な世界なのかも知れないが、「社会連帯」とか掲げられると、何だか掛け声だけ勇ましくて、空々しく感じたりもする。
昔見た中国映画で、共産党がそんなスローガンを掲げていたけれども、現実はぜんぜんそうはなっていなかったのである。
ただ、ソローのように隠遁生活するのは容易い。おそらく、私には容易いのである。
もう少し種蒔を続けて、何の芽が出るか確かめたくもある。
今週の土曜にも、その市民の集いに参加してみる予定なのである。