幸せに ㊷
幸せというと思い出す詩である。
これは明治時代に日本でたいへん流行った詩で、教科書に載っていたという。私も小、中いずれかの国語の授業で習った覚えがある。
今は分かるだろうか?
一応、超訳すると、
【山の彼方の、ずっと向こうに行けば、幸せがあると誰かが言っていたから、私は人と探に行ったけれども、見つからなくて涙ぐんで帰って来ました。けれど、山の彼方の更にずっと向こうには、「幸せがきっとある」と誰かが云うのです】
かな?
何故これが流行ったのやら?
今読むと古くさい詩だが、明治の頃は新しかったらしい。
つまり、当時の日本人は「幸せ」なんて抽象的なものを詩にするのは珍しかったそうだ。
けれど、この気分は「南無阿弥陀仏」のとかなり近い。
つまり、阿弥陀如来は西方に、極楽浄土を開いて待っていて下さる。そこには、どうやったら行けるのか?
「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極悪人ですら、そこへ行けるらしい。ずっと遠くとは、死んでのち行ける世界なのだ。
これは日本人に受けた、浄土宗、浄土真宗に入る人がたくさんいた。教えが分かりやすいしね。
だから、遠くの方に何か好ましい世界がある幻想を抱く人が多かったのではないだろうか??
私も、最初に行った外国はインドだった。浄土宗は信じてないが(家も真言宗だし)、ブッタに心惹かれていたから、彼が悟りを開いた国をどうしても見てみたかった。
ガンジス川で沐浴もしたし、ブッタが初めて説法を説いた地、サルーナートへも行った。
ベナラーシー(ベナレス)から人力のリキシャー(人力車そのもの)で1時間くらいだった。
途中、スコールがあって、水捌けの悪い土地らしく、すぐに冠水した。
これって、宗教心というより、「山のあなた」的行動じゃないかと思う。
行ったからと言って、別にどうという事もないのだ(かなり楽しかったから涙ぐんだりはしなかったが)。
そう、山のあなたまで行ったら、それだけで良いじゃないか?気がすむのだから。
人間だれしも幸福になりたい願望を持っているものだろうが、だからと言って、あんまり先走って努力し過ぎてはいけないそうだ。
例えば将来のために良い大学に入る為に、現在の生活を犠牲にし過ぎると、ダメになってしまう事があるそうだ。
ていど問題だけれど、あくまで大切なのは現在であり、目の前に広がるこの世界なのである。
あんまり将来の事ばかり、遠くの方ばかり見ていては幸せを逃してしまうかも知れない。