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52ヘルツのクジラと呪いと祈り

「52ヘルツのクジラって知ってます?」
昔聞かれたことがある。だから、歌っても仲間の誰にも届かない、広い海でひとりぼっちのクジラの存在は知っていた。
恐ろしいほどの静寂と暗闇の中で、そのクジラは誰にも見つけてもらえずに歌っている、らしい。

単行本が出た頃から読みたいと思い続け、文庫化されたことを横目に通り過ぎているうちに映画化が決まった。
杉咲花さんが主演。これはもう見る他ないと思った。
ちょうど忙しい頃合いかつ体調を崩してしまい、観に行けたのは終了2日前だった。
結局原作は未読のままだった。




物語は「仲間の誰にも届かない声で歌うクジラ」と、「誰にも届かない声で助けを呼ぶひと」を重ね合わせて進んでいく。
クジラ「たち」と書かれているだけあって、複数人の「52ヘルツのクジラ」が誰にも届かないはずの声を上げている。

貴瑚が母親から「お父さんじゃなくてあんたが死ねばいい」と言われた時。
続く言葉は全て水の中で聞いているかのようにくぐもっていた。
貴瑚は52ヘルツのクジラの1人として、水中に潜るように自分の心を閉ざしたのだ。
わたしは幸運にも同じ言葉を投げかけられたことはないが、自分を守るために外界をシャットアウトした時の感覚はなんとなくわかる。
脳の奥が麻痺して、それ以上何も感じないようにしている。

アンさんがキナコを待ち伏せしていた時。
新しい人生を一緒に歩みたいという気持ちをひっそりと忍ばせてあの日名付けたその名前を、キナコ自身が否定した。
アンさんが自身の事情を告白しなかったのは否定されるのが怖かったのはもちろんあるだろうけど、受け入れ「させる」かもしれないのが怖かったのだろうと勝手に思った。
「愛情」を人質に縛り付けられていたキナコに対して、自分はそうしたくなかったんだろうな、と思った。
貴瑚が「わたしは貴瑚だよ」と言い放つシーンのあのビル風みたいな音は、アンさんの、52ヘルツのクジラの、声だったのだと思う。


風がうねる夜に抜け出した52を探しにいく時。
あの時アンさんの声を聴き逃したことを、貴瑚はずっと悔やんでいたし、この先も悔やんでいくのだろうと思う。
それとは同時に、だからこそ52の声が聞こえたんだ、とも思って苦しかった。
52は貴瑚が救って、キナコを救ったのだ。


呪いが何度も描かれていたのも、苦しかった。
屋外で膝を抱えている貴瑚を呼び戻して言い放った母親の「だいすきだから」に、はっきりとああこれは呪いだな、と思った。
こんなに幼い我が子に向けて、だいすきだから、という耳触りの良い呪いの言葉で暴力を正当化しようとするそのことに腹が立って、だけどわかってしまう自分がいることにも気づいて嫌になった。

身体的な暴力ではなくとも、「あなたのために言っている」という建前のもと、キツイ言葉で、表情で、詰ったことがあった。
伝えた内容は今でも間違っていたと思ってはいないが、明確に苛立ちをぶつけたのも、そしてそれをおためごかしの言葉で包んだことも、自分自身ははっきりとわかっている。
卑怯だ。

だから、貴瑚が主税から離れられなかったのも無理はないと思った。
主税(すごい名前)は初めて出てきた時から、すごく気持ちの悪い人間として描かれている。
セリフは漫画みたいだし、素敵では片付けられない強引さだし、ずっと自分の気持ちしか考えていない。

貴瑚も違和感を抱きながら、それでも「愛されている」という状態から抜け出すのが怖かったのだろう。
主税の裏切りを知りながらも、鳥籠の中みたいなあの部屋にとどまることを選んだのは彼女だった。
母親にかけられた呪いが、ずっと彼女を蝕んでいる。

それから、アンさんが主税によって母親にアウティングされた時。
あの茫然とした立ち姿が忘れられない。
あの叫び声をおもいだすたびに涙が出てくる。

だけどそれよりも母親の「女の子には戻れない?」の言葉で、生きるのを諦めてしまったあの表情が、本当に心にきた。
展開は知らなくても、ああ、アンさんは死んでしまうのだ、と思った。
話の流れで読めるとは思うが、あの時の志尊淳さんの表情は、できればもう観たくない。
それほどに凄まじかった。


ここまで書いてふと、52ヘルツのクジラの声は本当に他のクジラに聞こえないのか気になった。
他のクジラは10〜39ヘルツの声で歌うらしいが、可聴域はもっと広い。

じゃあ届くのでは?と思ったが、動物のいわば「言語」は人間の言語とは違う。
わたしたちは50音を組み合わせて単語やら文章を作っているが、動物たちには多分ない。
だから高さとか、長さとか、そういうもの全てをひっくるめて彼らの「言語」となり得ている、のだと思う。多分。
そう考えると10〜39ヘルツの範囲で歌わないと「言語」として届かない、だから誰にも聞かれることはない、そういうことなのかもしれない、と解釈することにした。


でも音としては聞こえるのだとしたら、運良く気づく誰かもいてほしい。
クジラじゃなくて、他の生き物でもいい。
この世に完全な孤独はないと信じたい。

だって貴瑚にはアンさんと美晴がいたのだ。
アンさんと美晴はすごい。
特にアンさんは初対面なのにあんなに親身に手伝ってくれるのがすごい。
友達故に貴瑚の置かれた状況とそこから逃げようとしない貴瑚にもどかしさを感じる美晴とは対照的に、アンさんはまず最初に今までを労って肯定してくれた。
貴瑚にとって初めて肯定された経験だったのかもしれない。
居酒屋での貴瑚は目線も合わさず虚だったのに、「お母さんにお父さんじゃなくてあんたが死ねばよかったって言われた」この言葉を他人に伝えることで、言われたことを自覚してしまう。
急に支離滅裂になるからうっかりつられて泣いてしまった。

同じ種族のクジラには聞こえなくても他の種である人間には聞こえたのだ。
可聴域はばらばらで私たちが聞くことができる声もばらばら。
世界のどこかで52ヘルツのクジラを見つけるクジラがもしかしたらもうすでに存在していて、2匹だけの共通言語なのかもしれない。
お互いだけにわかる、魂のつがいにもう出会えているのかもしれない。
そうであってほしい、これはわたしのための祈りでもある。



ここまでを下書きに書いたまま、1年以上が経過している。
書きたいことがありすぎてまとまらなかったまま、消すのも勿体無くてそのままにしていた。

西暦の4番目の数字が変わって数日、Twitterで52ヘルツのクジラは2匹いると報告があった、という記事を目にした。
誰にも届かない声で歌うクジラはいなかったのかもしれない。
わたしたちは勝手に孤独を妄想して感傷に浸っていただけなのかもしれない。
それでも嬉しい。
せめてもの記念に、まとまらないままでもアップしようと思った。

孤独でいることは思ったよりも難しいほどに、世界は広いらしい。
わたしはそれが嬉しい。

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