Ms. Excuse me
半年前にマンハッタンに引っ越した。
その頃、ほぼ毎日街で出会う女性がいた。
私は、心の中で彼女を
「Ms. Excuse me」
と呼んでいた。
彼女は、いつも同じ横断歩道の信号のところにいた。
そして、道ゆく人に声をかけるのである。
「Excuse me?」
と。
私も一度話しかけられた。
「?」と思って目線を向けると、
彼女はスーッと後ろに下がって行くのである。
どうしたのかしら、と思いつつ、また正直少し驚きつつ、そのまま私は通りすぎた。
その日から、ほぼ毎日彼女を見かけた。
そして、毎回いつも彼女は通り過ぎる人に
「Excuse me?」
と声をかけては、
「どうしたの?」と反応される度にまた後ろに
下がって行くのである。
パッと見は決してそこまで異常な感じがする女性でもなかった。
服装も普通、スニーカーも普通、特に何か狂気を感じるわけでもないのだが、
彼女は道ゆく人に「Excuse me?」と声をかけ続ける。
毎日そんな彼女を見るたびに、私はなぜそういうことをし続けるのか?と
思い始め、そして感じることがあった。
きっと彼女は、
「Excuse me?」
と助けを求めるような言葉をかけて、そして誰かが反応してくれることで、
心の何かが満たされているのではないか、
ということだった。
なぜ彼女がそういうことをし続けたのか、本当のことは彼女しか知らない。
もしかしたら、彼女にもわからないことなのかもしれない。
でも、きっと道ゆく人にその言葉を発したい、という衝動は確かに彼女の中にあったのだろう。
確かにそんな風に声をかけられるのは驚くが、
彼女がそのような行動を取れることは
彼女にとっては、とても良いことなのではないか
と赤の他人の私だが、思ったことも事実だった。
今の世の中、本当に生きにくい。
SNSやAIが発達し、静かに自分の本当の願いや幸せ、また内なるものを
見つめることは難しい。
また他者との比較が、本来人間が自分の内なる展望からするだけならまだしも、
大量の情報の中で生じてしまうと、もう自分がなんなんだかわからなくなることは多いし、その状況にすら気づけず、情報に感性を踊らされてしまうことも多々あるように感じる。
その中で、もしかしたらだけど、多少精神を病んでいたのかもしれない
Ms. Excuse meは、その言葉を人に発するたびに
何かを確かに心で感じていられたのであれば
行動の形としては奇異ではあるが、とても素敵なことだと私は思ったのである。
人の数だけ、人生があり、その瞬間の物語がある。
幸せの感じ方も、十人十色。
キラキラした姿や、ハイブランドのジュエリーを身につけた写真をSNSにあげることが人類共通の絶対的幸福なわけない。
この夏に私は3週間ほど急用で日本に帰国していた。
マンハッタンに戻って同じ道を通った時には
Ms. Excuse meはいなかった。
その日以来、二度と彼女をみることはなかった。
今日も、もしかしたら他の場所で道行く人に
「Excuse me?」と声をかけているのかもしれない。
私は今日も、二度と会うことのないであろう
Ms. Excuse meが、どこかで彼女のささやかな行動で心の満たしを得られるよう願ってしまっている。
こんなこと考えてしまう私って、おかしいのかしら、とも思いつつ。
そして、このnoteを書いて私は気がついた。
彼女の姿に思いを巡らせることで自分にも置き換えて
「幸せを感じられる瞬間」とは、
そして自分の「衝動」とは、
ということを自己投影しながら模索していたことを。