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坂地獄の一日【自転車と歩んだ4000日】
ロードバイクを買った頃の御堂は、仕事でよくミスをした。と、言うよりはミスですらない貰い事故でよく叱られた。
酷かったのは上司からの頼みで残業していたのを、社長が見咎めたときのこと。
「お前が残って何になるんだ!無駄なコストを発生させて何様だ!」
めちゃくちゃ怒鳴られた。
社長に憧れて入った職場だった。社長のためならどんなに辛くても自分の持てる力全てを尽くして、職場に貢献しようと思っていた。
しかし社長からは「何もできない御堂くん」呼ばわり。ちなみにその発言は、職場のボーリング大会でのことだった。御堂は体を動かすこと全般が苦手なのだ。
チームごとのボーリングの合計点数でランキングし、その後のバーベキューのコースがランク分けされるシステム。御堂のテーブルはビリだから鶏肉だけとなった。
飲み会の最中は「御堂くんのせいでこんな肉ばっかりになって、ゴメンな」と社長が御堂の肩を叩きながらみんなに頭を下げる。
そのシステムを企画した本人が。
その半年後の忘年会でも事件が起こる。社長企画の心理テストをだしに、御堂はずっといじられた。
社長が平社員の肩を叩きながら、こう言うのだ。
「外の空気が吸いたいんだな…今までお疲れさん」
この言葉は忘年会の残り時間はもちろん、会が終わったあと、店の表でもずっと続いた。
御堂は精神のバランスを失った。眠ろうと思うと、あの日の光景を思い出すのだ。
「何もできないん御堂くん」
目を閉じたら蘇るのだ。2時間近く経営者から肩を叩かれながら言われた「今までお疲れ様」の言葉が。
胸が張り裂けて眠れない。仕事場では膝も手も震えた。唯一勉強だけは得意だったけど、それを周りに伝える言葉さえ霞がかかって出てこなくなった。
自己肯定感など欠片もなくなり、御堂は転職活動を行った。そして辞意を表明した瞬間に、社長の態度は一変した。
土下座で謝られたのだ。
上司との面談と、社長の謝罪は何度も繰り返された。
憧れだった社長は、瞬間湯沸かし器でパワハラを理解できない人だった。だけど敬愛していた。
数ヶ月にわたる話し合いの結果、御堂は仕事場に残る決意をする。
それでも事あるごとに膝は震えた。手の震えを抑えながら働く日々だった。仕事中に理由もなく涙がこぼれるときもあった。
マスクが必須の仕事場なので、誰にもバレずに済んだのだが。
御堂の地獄の日々を支えたのは、自転車だった。
自転車で坂を登る。その時の胸の苦しさが、仕事の辛さを忘れさせてくれた。
自転車で坂を登る。その頂に立つと、何も出来ない御堂ではなくなる。
その坂には登ることができたのだから。速いとか遅いとかではない。登り切ることができた。それが坂を走ったときの、唯一の結果だ。
坂を登ればその先に自分の人生が見つかるような気がして、御堂は坂を貪り続けた。
そしてショップからイベントに誘われることになる。
坂地獄。
恐ろしくも耽美な名を冠したそのイベントは、文字通り坂ばかりを走るイベントだ。
平均斜度7%超えの峠を三つ。それ以外を足せば合計七つの峠を越えて、130kmを走り抜ける荒唐無稽なイベント。
当時の御堂の精神状態で乗り越えられるはずのないイベントだった。
逃げたい。だけど、これを走りきれたら前に進めるかも知れない。
「行きます!」
胸を張ってそう答えた。
坂地獄当日に向けて練習の日々が始まった。思いつく限りの長い坂道を登りにいく。
その中にはトラウマとなっているあの坂も含まれていた。
初心者の頃に挑戦して逃げ帰ってきた山道。
そこで心が折れた。登り切るだけで必死だったのだ。あとの平坦が走りきれない。
膝も痛くて、帰る頃には限界を迎えていた。
あの規模の坂が3つもあるのか?
ムリだよ。僕なんかにできるはずがない。ショップに頭を下げて、出場を辞退する旨を伝えた。
「ダメです!連れていきます!」
普段穏やかな店内が張り詰めた空気になった。ショップの人たちは御堂の事情を知っていたのだ。
知っていて厳しいイベントに誘ってくれていた。御堂の立ち直れるチャンスとして。
そして迎えた当日。朝のショップ前に並んでいたのは、イベント常連者の中でも早いと言われる猛者たちだった。普段からイベントの中でも強度が高い時に、先頭争いをしている人たちだ。
御堂はその猛者たちと一緒に走ることすら出来ない下位ランク。波乱の幕開けだった。
予感は的中する。
「今日の趣旨は走り切る!ですからね〜。ゆっくり行きますよ、ゆっくり」
店主の声を合図に坂との狂宴が始まった。ゆっくりとウォーミングアップ気分で談笑しながら走り出す。
御堂に話す余裕などはなく、付いていくのがやっとだった…。
走り切れるのか?不安がよぎる。
最初の大きな峠をなんとかビリで登りきった御堂を、仲間たちが迎えてくれる。
みんな御堂の遅さを知っている。今回はショップ側のサポートカーが追走してくれていて、いつでもリタイア可能だからこそ、御堂が参加を決意したことも。
おそらくあの時のメンバーに、御堂の完走を想像していた者はいなかっただろう。当の本人も含めて、誰も御堂を信じていなかったのだ。
いや…信じてくれている人はいた。いたのだ。だがそれを御堂が実感したのはもう少し後のことになる。
休憩を終えて坂を下る。その先には次の坂が待っている。まだ舞台は前半の折り返しにすら到達していないのだ。
しかしここで事件が起こる。ペダルと足を固定する金具がハマらなくなっていた。
重心移動で車体を安定させながら曲がる自転車の下りで足が固定されていない。尋常じゃない恐怖の中、坂を下る。
「頑張れ〜!」
サポートカーから聞こえるのは店主の娘たちの声。お店のアイドルたちが応援してくれている。弱音は吐けない!
事故なく下れた!しかし…。今度は平坦で金具が滑ってペダルが回らない。
仕方なく立ち止まり、なんとかペダルと足が固定できるようになった。
途中で自主休憩をとっていた仲間以外はもう誰も見えなくなっていた。
追いかけて、追いつきたくて必死でペダルを回す。重力に逆らい、心臓に鞭打って、一心にペダルを回す。
2つ目の大きな坂は比較的走りやすく、最初の坂よりも大きな峠のはずなのに、体感的には早く登ることができた。
休憩している仲間たちと再び会えた。ほっとするのと同時に、休憩をとっていた仲間が後ろから追いついてきた。
「置いていったろ〜」
恨み言のように声をかけられ、そこで気がついたのだ。あれは休憩じゃなくて、へばっていたのだと。
バテて動けなくなる人が出た場所を、御堂は走り切ることができたのだと。
心にうっすら火が灯る。まだ僕は終わった人間ではないのかもしれない。
そのかすかな火が御堂の心を震わせた。
「御堂さんの下り、めっちゃ速かったですよ!登りもちゃんと登れてるし、足ついてないでしょ?
御堂さんは自分を過小評価し過ぎなんですよ!」
サポートカーから御堂を見ていた店主の奥さんが、そう声をかけてくれた。
「ダメなんかじゃないです」
その言葉に御堂は傷が埋まるのを感じた。
僕はダメじゃない?
2つ目の大きな坂を下るとしばらくは平坦を走ることになった。昼食場所までの長い道のりを、早い人達に必死に食らいついていく。平坦ということは、道に選択肢があるということ。山道とは違い、すれ違えば二度と会えないかもしれない。
御堂は走った。しゃにむに走った。
そして昼食場所についた時、御堂はこの走行会が始まってから、初めて誰かと一緒に目的地に達したのだった。
ようやくたどりついた折り返し地点。最後の大きな坂を前に、小さな峠をふたつ越える。
その道程で再び事件が起きた。急にタイヤの接地感が失われたのだ。
立ち止まって確認して、御堂は特大のため息をついた。
パンクだ。しかも前後同時に。
異変に気づいた店主が応急処置をしてくれたものの、再び仲間たちは誰も見えなくなった。
「僕が牽きます!」
店主が前を走り、空気抵抗を減らしてくれる。
しかし悲劇は繰り返す。またパンク…。
何度もパンクをすると穴が空くのはタイヤだけではない。心にも穴が空く。
心から急速に抜けていくもの。まだ行ける…そう思う気持ちまでもが抜けていく。
そして心に灯った小さな炎まで吹き消されそうになる。
「直りました!追いつきますよ!」
さっきの峠で負傷した店主がものすごいスピードでパンクを修理してくれる。
まだ走れる。まだ走らなきゃ…いけない。折れかけの心がもたらす葛藤。結論を出す暇もなく走り始める。
もう他の仲間には次の休憩所まで追いつけないかもしれない。いや、追いつけないだろう。
次の休憩所は一番大きな山を越えた向こう。坂地獄なのに結局坂を誰かと登りきることはなかった。絶望だけのライド。それでも前で向かい風を全部受け止めて、御堂を運ぶ店主。
やるしかない…。御堂は諦めとも決意ともしれない覚悟をペダルに宿して前に進んだ。
みっつめの大きな坂までは遠かった。そこはこの日のメインステージだ。
真夏でも30℃を切る標高まで駆け上がる峠。しかも初めて登る規模の坂。心が震える。武者震いなんかじゃない。怖いのだ。
ここまで自分より早い人達に前を走ってもらえて、風の抵抗は最低限で温存してきた。それでも登りきれるかわからない。
坂ではまだ誰とも一緒に走っていない。坂を登るのは自分ひとりの力だ。
「何も出来ない御堂くん」
その言葉が足をすくませる。しかしペダルの回転は無情にもその時を連れてくる。
峠の入り口だ。分岐を右に曲がり、木々に囲まれた道路を視界に収める。行くしかない。
御堂は峠へと足を踏み入れた。
深い緑に囲まれた薄暗い道のりを、限界に近い体に鞭打ってゆっくりと進む。ゆっくりとしか進めない。もう力が残っていない。
だけどなぜだろう。心に灯った小さな火は、炎と化していく。楽しみだとでも言うのか?こんな辛い事が?
ひとつカーブを抜けるたびに孤独をかみしめる。坂道は自分の力だより。自分のペースで上がるしかない。店主はすでに見えなくなるほど遠い。
坂道は重力に逆らい進む道。すなわち、地球すら今の御堂には味方してくれない。
孤独。孤独とともに自分自身の心とも戦わなきゃいけない。
サポートカーもかなり前にいる。今、リタイアは出来ないのだ。
今これ以上心が折れたら本気で終わる。持ってくれよ、タイヤと体。
いくつか数えることすら億劫になるほどカーブを曲がる。そして御堂は意外な光景に出会ったのだった。
人がいる。見覚えのあるジャージと自転車。あの人は!
ショップ常連の中でも、一緒に走った相手をちぎり続けて悪魔と呼ばれている人だ。
その背中に追いついた。追いつけた。
御堂でも…トップクラスに速い人に追いつくことができたのだ。
長距離でかつ、ずっと山の中。それは悪魔さんには苦手なステージだったのかも知れない。だけど、平地では一瞬で彼方まで走り去っていた悪魔に、山では追いつけた。
可能性の炎が御堂の心を焚きつけた。
まだやれる?ふざけんな!
僕だって戦えるステージはあるんだ!まだ…なんて言うな!僕はやれる!だろ!
死んでいた心に命が吹き込まれていく。
御堂はこの日の無理だとしか思えない挑戦で、生きて行く力を取り戻した。
長い長い坂道もいつか終わりが来る。ついにたどりついた頂上には誰もいない。みんなこの坂を下りきった先のコンビニにいる。
御堂は下り坂を見つめた。
もう気持ちは軽くなっていた。
パン!下りの途中でその音を聞くまでは。
なんとかコンビニまでたどり着いた御堂は再びボロボロになっていた。3度目のパンクによって、リタイアの危機が訪れていたのだ。
だけどもうリタイアでもいい気がしていた。あの山には登ることができたんだ。
悔しいけど、足も痛いし、よく頑張ったと思う。御堂は諦めの気持ちをもってリタイア宣言を出した。
「させませんよ!」
サポートカーから取り出されるホイール。最悪の場合を想定して、予備を持ってきたらしい。素早く換装されるホイール。
最後のステージを走る切符は、ショップによって与えられた。
足はもう限界。回復系サプリももう胃が受け付けなくなっている。
それでも走る。走る。走る。
県境を越えた先にゴールがある。県境の山を越えた先に。
それでもすでに限界を迎えた体。心も折れてくる。辛い。辛い。辛い。辛い!
意味もなく流れてくる涙。なぜ泣いているのか御堂にはわからなかった。
どうしてこんなにも辛いんだ。どうしてこんなにも悔しいんだ。どうして…。
「社長のバカ野郎!!」
特大の雄叫びがこだました。
ちくしょう!僕だって頑張ってるんだ。
ちくしょう!結果だって出している!
ちくしょう!結果の出ない時だけたまたま傍にいて、それで何も出来ないとか怒鳴りだして。
ちくしょう!ボウリングができないからのんだよ!
ちくしょう!ちくしょう!ちくしょう…。
心の中の苦さも悔しさも情けなさも吐き出し切った頃。自分たちの住む町が見えた。
もう足を動かす元気はない。下り坂に身を任せて、惰性で坂を下るのみ。
そしてついにゴールにたどり着く。
そこには完走という結果をだし、喜びに打ち震える仲間たちがいた。
仲間たちも辛かったのだ。お互いに健闘を称え合っている。
その輪に御堂も迎えられた。
いつかこの人たちと走れるようになりたい。そう思える素敵な仲間たち。
その仲間たちに迎えられ、肩を叩かれる。
称賛の肩叩きはとても心地よかった。
この日、自分すら信じていなかった完走。
しかし御堂を信じてくれていた人がいた。何があっても諦めさせてくれなかったショップ店主。
御堂はそれから順調に心を回復させていった。
最後まで諦めさせずに見守ってくれた人がいた。
そして乗り越えた試練が、この挑戦が、怒鳴り声をものともしない強さをくれた。
御堂はこの日、何も出来ない。御堂ではなくなったのだ。
この日、御堂は130kmの山道を走りきったのだから。
#挑戦してよかった