【短編小説】おやすみなさい
「おやすみなさい」
今日もあなたに同じ言葉を贈ります。
あなたは私が見守っていないと眠れない人だから。
窓から差し込む陽光は、暖かく、柔らかく二人を包んでいた。窓の外は涼しくて、遠くの田園風景は黄金色に輝いている。
真っ白な布団に横たわる夫の顔を愛おしそうに見つめながら、彼女はその胸を優しくポンポンとリズムを取るように叩いている。
結婚して共に白髪が生えるまで、50年。一緒に過ごせる日は、毎日眠りにつく夫にかけた言葉。
「おやすみなさい」
昔話をするように、彼女は夫に話しかける。静かに、柔らかく、優しい声色で。
夫の眠りを妨げる事のないよう、細心の注意を払って。
「あなたはまだ女学生だった私を見つけてくれましたね」
戦後の混沌とした世の中が、朝鮮戦争を起点とした好景気に沸いていた頃に、彼女は生まれた。その数年前に生を受けた夫は、出会った時にはすでに働いていた。
出会いはごくごくありふれたものだった。
雨の日、駅の階段で足を滑らせて転んだ彼女に、営業で走り回っていた会社員が声をかけたのだ。
「大丈夫ですか?」
差し伸べられた手を握り、起こしてもらう。
転んだところを見られた恥ずかしさと、男性の手を初めて握った恥ずかしさで、彼女は顔が熱くなるのを感じていた。
「きっと真っ赤な顔をしてたでしょうね。
まさかあの出会いからずっと…私があなたを起こす方になるなんて、あの時は思いもよらなかった」
恥ずかしさのあまり、彼女は会社員の顔を見ることが出来なかった。だから彼女は知らなかったのだ。その会社員の顔もまた、彼女に負けないくらい赤く染まっていたことなど。
ある日頬の片側を赤く腫らした会社員と再会した。
「お茶に誘われて、ついて行って…。
短い時間だったけど、ゆっくりお話しましたね」
ブラックコーヒーを飲む会社員は、コーヒーを口に含むたびに顔をしかめていた。口の中が切れているらしい。
どうかしたの?と尋ねると、
「お見合いを断ったら、親父にぶたれたんだよ」
と返された。他人事のように彼女は「へえ」と相づちを打っていたが…。
「実は君に一目惚れしてしまって!僕と結婚してください!」
………え?
戸惑い。驚き。照れ。はじらい。そして混乱。
「今、何と言われました?」
我ながら間の抜けた返事をしたものだと、未だに恥ずかしくなる。
「私に一目惚れしたからと、お見合いを断って。
両親の大反対にあいながらも、あなたは私を守ってくださった」
両親のどんな辛辣な言葉も、彼が受け止めて結婚の許可を得るにいたった。
次は彼女の家の番だった。
彼女の父親は戦争で右の手首から先を失っていた。
その右手の先端で、父は彼を殴りつけた。
ああ…。また同じ頬を切ってしまった。
彼はしばらく会社で、頬を指さして笑われたらしい。
しかしそれが意外にも営業先で好評だったらしい。
会社員が女子高生の家で、父親に殴られながらも、彼女の在学中に結婚の許しを勝ち取ったのだ。
彼は営業の腕を見込まれ、信頼を勝ち取り、どんどん成績を上げていった。
結婚した二人は小さな家を建てて、静かに過ごした。
夫はどれだけ遅くなっても、必ず帰宅し、彼女の作った夕食を食べた。
食べ終わった食器はピカピカに洗われていた。そしてテーブルには必ず、その日のメニューの感想が手紙として添えられていた。
それだけならただの幸せな夫婦だっただろう。大変なのはその後だった。
「あなたは私が寝てるのを必ず起こすんです」
彼女の恨み言は、しかし穏やかだった。
どんなに深く寝ていても、どんなに疲れていても、夜中でも、明け方でも、何時であっても彼女は彼に起こされた。
彼女が寝かしつけてくれないと、眠れないのだと。
そして毎日、毎日子どもたちの次に、夫の寝かしつけをする羽目になったのだった。
「おやすみなさい」
寝落ちする寸前の夫に毎日変わらないその一言を送ると、夫は穏やかな笑顔を浮かべて眠りに落ちていった。
どれだけ忙しかった事でしょう。私たちの生活のために、どれだけ辛い涙を飲み込んできてくれたでしょう。
肩を震わせて泣くあなたに、理由も聞かず黙って背中をなでた夜もありました。
夜中にうなされて、歯ぎしりをしていた夜もありました。
それでも…。あなたは私が頭を撫でると、穏やかな顔をして、眠りにつきましたね。
「おやすみなさい」
その一言で悪夢を見ないで済むと、朝起こした時に、そう言ってくれました。
知ってますか?私だって眠かったんですよ?
「おやすみなさい」
おやすみなさい。子供のようなあなた。
「おやすみなさい」
おやすみなさい。辛いことを、辛いと言えないあなた。
「おやすみなさい」
おやすみなさい。どんなに疲れていても、私に「ありがとう」の言葉だけは絶やさなかったあなた。
「見てくださいよ、この目尻のシワ」
あなたがたくさん笑わせるから、こんなにも目尻にシワが刻まれてしまった。
「見てくださいよ、この眉間」
それでも、怒ったり悲しい思いをしないで済んだから、眉間のシワは刻まれなかった。
「看護師さんが褒めてくれたんですよ。
素敵なシワの入り方だって。
素敵な旦那さんで羨ましいって」
彼女は肩を震わせた。
白いベッド。白い布団。その上で眠る夫の顔もまた、白い。
「とうとう最後まで、私があなたを寝かしつける番でしたね」
涙が握りしめた夫の手に落ちる。
静かに眠る夫は、穏やかな笑顔を浮かべていた。
最後の最後まで、愛する妻の寝かしつけで、彼は穏やかに眠ることが出来たのだった。
ずるいですよ。一度くらい、私に「おやすみなさい」って声をかけてくれても良かったんじゃないですか?
ずるいですよ。最後くらい…私が寝かしつけられる側になりたかった。
あなたの声が聞きたい。
「おやすみなさい」
その一言が聞きたい。
あなたの最後の眠りに、今日もいつもと同じように、こう言います。
「おやすみなさい」