初心者御堂、沼にハマる【自転車と歩んだ4000日】

 自転車に乗る事を楽しいと感じた人間はどうなるのか…。
 
 この話は、健康診断で血糖値が引っ掛かり、命のレッドゾーンに片足を突っ込んだ御堂彰が、自転車に乗り始め、少しずつその世界に両足を突っ込んでいく、底なし沼の物語。自叙伝を小説として描いたものである。

 自転車通勤を初めて一ヶ月。御堂彰は順調に走行距離を伸ばしていた。
 ライトは買ってから自転車通勤を始めるまでの間に、通販で揃えた。

 自転車通勤をもっとスムーズに、もっと楽にこなすためには早く走れる足が必要だった。通勤のため以外にも、御堂は自転車に乗るようになっていた。
 休みのたびに今日は北、今日は南とコースを考える。飽きるほど車で通り尽くした道が、自転車で走るとコースになった。
 車では気づかずに通り過ぎていた、道端の花。風のにおい。青い空から太陽が恩着せがましく照らしてくれる温もり。
 今まで自分を囲んでいた鉄板が取り払われるだけで、とんでもない解放感を感じる事が出来た。
「風を切って走るって最高!ところで僕はどれだけのペースで走ってるんだ?」
 自分のスピードを客観的に知りたくて、御堂は初めてサイクルコンピューターに手を出した。
 最初は速度だけが測定できるモデルを買う。なぜか?用語が全くわからなかったからだ。ケイデンスなんて言葉は知らない。心拍の管理なんて想像も出来ない。ただスピードだけを見ていた。

 いざスピードを見るようになると、自分と
戦うようになる。サイクルコンピューターは現在の速度だけじゃない。同じライドの平均速度も表示してくれる。平均よりも速いのか、遅いのか。それすら常時表示された。平均の自分に負けるわけにはいかない。
 こうして御堂は今より早くなることを目標にするようになった。

 サイクルコンピューターは他にも走行距離を教えてくれた。走れる距離に挑戦したくなり、彼は限界チャレンジを考えるようになる。
 ロードマップとにらめっこして、考えたコースは全長60km。自転車に乗れば何と言うことも無い近距離だ。
 しかし運動習慣のまるでなかった御堂彰31歳にとって、それは間違いなく挑戦だった。
 来たるべき日に向けて、彼は有給申請を職場にだし、それは承認されたのだ。もう逃げられない。

 Xデーに向けて準備が始まった。足りないものをリスト化する。
 自転車乗りは走りながら水分補給をするらしい。
 自転車用のボトルを買った御堂は、自転車にボトルを取り付けるためのケージも買った。その名も「ボトルケージ」そのまんまやないかい!
 
 通勤も兼ねて、ズボンの裾バンドも買った。季節は秋も終わりを告げていた、11月。上着も買い揃える。
 そしてついに彼はあれに手を出した。ヘルメットである。
 着用努力義務なんて言葉すらなかった時代だったが、安全上つける必要性は感じていた。しかし…。
 あのスポーティーな形状のものを頭に着けた瞬間から、ベテランと同じ走りを求められると勘違いしていた御堂にとって、ヘルメットを着ける事はかなり勇気が必要だった。
 被ってみる。右向いて、左を向いて、鏡にスマイル。うん、悪くない。
 えへえへと笑いながらヘルメットをレジに持っていく。
 うへへ、これでベテランさんの仲間入りだあ。と、乗り始めて一ヶ月で妄想してみる。
 間違った認識だ。初心者こそ乗り慣れていない自転車での転倒リスクは高いのだから、ヘルメットをつけるべきなのだ。
 ベテランになってペースが車並みになると、そもそもヘルメットを付けていても、事故を起こせば天国に直行なのだから。
 ヘルメットに関しては、エピソードがたくさんあるため、また別の機会に(宣伝)。

 メガネは元々ド近眼なので、サングラスを必要だとは考えなかった。リュックは登山用を購入。
 完璧だ…。後は当日を待つのみ。

 この時のライドも話ひとつ分書けそうなので割愛する。結論だけ言えば惨敗だった。
 目標としていた距離には届いたが、残念ながら目的地にはたどり着けなかったのだ。
 最後の坂道でギブアップしてしまった。膝が保たなかった。

 御堂の頭をよぎるのは、本やネットで嫌と言うほど見せられた言葉達。
 ギアの歯数。変速段数。ロードバイク。などなど。
 足の負担を少なくするためには、負荷に応じて細かい変速が必要になる。御堂のギアは後ろが7枚。
 同じ自転車で1段階高いグレードになると、後ろ8枚。
 ネットでギアを調べていく。今のクロスバイクで使えるギアとしては最大10枚のギアが存在するらしい。
 そして自転車店に出向く。すでに彼の頭には「体で解決できない問題は機材で解決」と、機材スポーツ特有の考え方が刷り込まれていた。
 黄色いジャージの自転車漫画でも言っていた。
「レースに負けたら機材を疑え」
 そう…負けた御堂は機材を変える以外に、現状を打破する方法を持たないのだった。

 いやいや…まずは鍛えろよ。
 未来の御堂からの叱咤など、この時代の彼には届かない。大丈夫だよ、御堂。君はちゃんと100km以上走れるようになるよ。自転車を趣味にする以上は、100kmまでなら誰でも走れるようになるよ。
 鍛えればね!

 仕事帰りに自転車店に寄ってみる。ちゃんとスポーツ車を取り扱っている店だ。
 そしてギアの話を聞いてみる。
「10速は着けられませんよ。ホイールのハブが対応してないので、付けられるようにするにはハブごと交換になります」
 ちなみにこれも説明不足。顧客は今、坂を登るためのギアを探している。歯数の問題なら、今のギアで十分なのか…歯数が変わるならチェーンの長さに問題が生じるので、チェーンも換えないといけないとか、7速対応の変速機を、10速対応の変速機に換えないといけないとか…。
 そしてそれら全部を解決するために必要な費用は…。すでに彼の愛車オルディナE3の購入価格よりも高額なのだ。

 こんなことなら、最初から高いグレードを買うべきだった。
 自転車は乗れたら何でも良かった。サスペンションがついていれば段差も安心だと思った。
 しかし坂に登るには自転車が重い。ギアは取り替えられないし、そのためには高額な出費を覚悟しないといけない。サスペンションも力が逃げてしまうので邪魔らしい。

 いっそ自転車を買い換えるべきか…。
 そして御堂はロードバイクに興味を持った。

 おめでとう御堂。生活習慣病に片足を突っ込んだ君は、今両足をどっぷり突っ込んでしまったんだよ。
 自転車と言う「機材の沼」に。

 ようこそ御堂。君は還らずの森に踏み込んでしまったんだよ。
 ほら、あの日以来13年。君は自転車に貯金を吸い付くされながら、今も…。
 自転車の密林の中で、底なしの機材沼から抜け出せないままなんだから。 

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