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吾輩は幽霊である 第二話


 「次は北十字、北十字~。」
いくら時が経ったかとんと分からぬ。
いつの間にか北十字という駅についたようだ。
汽車は二十分ほど停車するらしい。
乗客は三々五々降りたり乗ったりしているようだ。
ふと青白い外の景色を眺めておると緑の服を着た一人の物売りが近付いてきた。

 「海砂糖~海砂糖はいらんかね~。そこの旦那御一つ如何です?」
余は海砂糖なるものを未だに食したことがなかったので一体なんだねと聞くと「ここいらの名物でさあ。味はね。嬉し涙の味がします。」
 余は子規を真似て何事も経験と鞄からお札を一枚取り出し物売りにやった。
「へい、毎度。生憎お釣りを切らしておりますが。」
「ならそれで買えるだけで結構。」
「へい、なら十ばかりも差し上げましょう。」
 そう言って余に珍妙な菓子の入った袋を渡した。
見ると金平糖のような形をしておるが大分でかいようだ。
さっそく食してみた。
甘いのかしょっぱいのかとんと分からぬ味である。
しかし、暫くするとどういう訳か余の精神に不思議な変化が起こった。
 嬉しいとも悲しいともなんとも形容の出来ぬ摩訶不思議な心持ちになったのである。
成程、海砂糖とは味覚だけではなく人の心を変化させる食べ物であるようだ。
妙な心持でいるとぽろりと涙が零れ落ちた。
はて、嬉し涙か悲し涙か。
車窓から先程の物売りがまだ突っ立って余を見ている。
これは不覚、男子の涙を見られるとは。
「どうもこれは変な味だね。一体どうやって作るんだい。」
「へい、旦那。海砂糖はね。人間の流した涙が滔々と流れるせつな河ってえのがありまして、それが集まって出来た涙の海。その水を煮出して天日で干して固めたのが海砂糖でさあ。」
成程。悲し涙がやや多いとみえる。
「ところで旦那、さっきから伺おうと思ってやしたが、夏目さんじゃ御座いませんかね?」
如何にもと答えると、
「やはりそうでしたか。正岡さんの言う通りの美男子だ。実は三日ほど前、正岡って旦那がこの駅に来ましてね。海砂糖を十ばかり食べて更に土産を五十個ほど見繕い、御代は夏目のツケにしてくれっていうもんですから待ってたんです。手紙も預かってやした。」
ここにも子規が来てツケで食ったのか。
全くけしからん奴め。
手紙にはこう書いてあった。
「 拝啓 夏目漱石殿
小生北十字駅ニテ海砂糖トイウ珍妙ナル菓子ヲ物売ニ勧メラレ、食ベタク相成リ候
小生御存知手元不如意ニツキ夏目漱石居士ノツケ払ヒト致タク存ジ候
コノ菓子食セバ心持タチマチ一大変化ヲキタシ小説俳句新体詩短歌川柳都々逸等作物ノ製造ニ大イニ奇与スルモト存ジ奉リ候、冥土ノ土産ニ五十バカリ購ナウ事ト相成候
 敬具  子規 」

例の如く手紙の最後に


 海砂糖冥土ノ土産ナリシカナ

と添えられていた。
 余は物売りに鞄から掴めるだけお札を掴んで釣りはいらんと渡した。
 そういえば何で余の鞄の中にかくも潤沢なお金があるか、よく考えてみると思い当たるふしがある。
 「猫」でも書いたのだが、生前妻に生命保険に入れ入れと煩くせがまれ、死んでしまってから貰っても仕様がないと断っていたが最後は到頭根負けして入ってしまった。
 毎月三円五十銭も取られて何の意味があるかと思っていたのであるが、まさか死後金が入り用になったとき自動的に湧いてくるとは大したもんだ。
保険でもなんでも入ってみるもんだと感心した。

  
 それから発車五分前のベルが鳴り慌ただしく乗客が駆け込んできた。
人に有らざる者も大勢乗って来たようだ。
 その内の一人の人間は余の真向かいに座った。
蓑笠を頬被りし腰に魚籠を下げた広重の画に出てきそうなじいさんである。
 じいさんはおもむろに腰にぶら下げたキセルを取り出すと「失敬」と言って煙草を吸い出した。
 その時丁度盛大な汽笛が鳴って汽車が動き出した。
一体どこに行くのか知らぬ余はそのじいさんに聞いてみた。
「へえ、この汽車の次の停車場はプリオシン海岸でごぜえます。」
「成程。じいさんは一体何しに行くんだね?」
「わしはこの通り漁師を生業にしてますので。主に星を釣って暮らしております。」
「へえこいつは驚いた。星が売れるのかい。」
「売れますとも。特に白金だの蒼鉛石だの飛行石だのに混じってヒヒイロカネっちゅう星屑は高こう売れます。」
「へえそんなものかね。」
「ええ、文明の発達した星じゃ空飛ぶ円盤の材料になるみてえで。」
「成程。文明の発達した星は地球ばかりじゃないようだな。」
 余は生前二年程英国に留学し、生涯最も不愉快な月日を過ごしたのであるが 、東洋と西洋の違いぐらいで懊悩するなど井の中の蛙であった。およそ人間は狭い地球でいがみあい寸土を巡って戦をしているがそういう輩は皆宇宙に出てみるがいい。
自らの卑小さに恥じ入るであろう。
星釣って暮らすじいさんぐらい呑気にならなくっちゃあ駄目だ。
「してじいさん、幾つだい?」
「へえ、取って三十七で御座います。」
「冗談言っちゃいけない。そんなに若かないだろう。」
「いえ、三百三十七で御座います。」
「道理で。今の人じゃないと思ったよ。」
この星釣りのじいさんは画にもなる詩にもなる。
ここに画工がいれば格好の好材なのだか生憎絵筆を持たぬ。
さて、詩にすればなんとなるか。

 銀河海太公望在悠然星釣三百有余年忘人世憂有無

これではただ言葉を並べただけだ。

 星釣って暮らす余生に憂いなし

これではあまりに俗である。

 人の世を忘れ余生は星を売る

 格好な題材を前に呻吟しているとまた例の汽笛がなって次の海岸の駅へ着いたことを知らせる。
じいさんは余に軽く会釈すると「どうぞお持ち下せえ。」と魚籠の中から虹色に光る星の欠を呉た。
「これを道中の御守りとなさいませ。」
中々親切なじいさんである。
余も返礼として持っていた海砂糖を三つばかり呉てやった。
「これは結構なものを。では道中お達者で…」
深々とお辞儀をして別れて行った。
 はて、次はどこに行くのかしらん。

【続く】



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