コミュ症の文豪とゴロツキ娘 第三話
まりあが帰った後私は暫し黙想に耽った。
恋愛という男女の上に横たわる一大問題について遂に明瞭なる答えを出せないまま今日に至っている。
むしろ昨今の思索において恋愛という問題の占める割合は著しく減退してゆき、曾ての自分が情動によって動く人間相互の営みを理知の刃によって解体し、万人に通用する真理を求めようとした過去を、経験の乏しい青二才の戯れ言であると冷ややかな目で見ていることに気づいた。
私は多くの恋愛小説を読み多くの芸術殊に音楽に聴いてきたが畢竟「恋愛とは一時の気の迷いである」という陳腐な結末を予期しないものはなかった。
恋愛に於ける美しい感情の働きとそれが沈静したのちのアンニュイとを同時に見通すことが出来ることが現代的知識人の性(さが)であるし、情にほだされにくいということを決して冷淡であることイコールだとは思っていない。
あるとき常太郎に「君、余り色気が無さすぎるとかえって毒だぜ。第一小説を書くなら多くの女性を観察しなくっちゃあいけない」と無理矢理スナックだかキャバクラだかへ連れ込まれたことがある。
そこで当世風のギャルと年増が交互に来て酒など飲まないのに無理に勧められた上、詰まらない話に愛想笑いを浮かべ、歌いたくもない歌を無理強いされ大変閉口した。
常太郎は得意のようであったたが。
後で聞いたらカラオケを歌うと歌い賃を取れるそうだ。馬鹿気た話である。
また昨今の恋愛物、ドラマや映画、小説を見ていても主人公を悲惨な状況に置かれなければ成立し得ないものが多くあるように思われる。
つまり道ならぬ恋乃至悲惨な状況が恋愛物の必須の条件であったのならば、豊かになった現代社会に於いて真の恋愛などというものは成立し得ないということである。
恋愛に於ける美しい感情も素晴らしいものに違いないが、こうも刺激に弱く人間嫌いな私にとっては何より静かな落ち着いた情調の元に日を暮らしてゆくことが至上命題である。
その静かな落ち着いた生活すら、些細な出来事で崩れ勝になる私にとって恋愛の二文字は大いなる障壁である。
そんな私の元へ突如現れたまりあは、過去の遺物ともいうべき恋愛問題をほじくり返して、私の眼前へ並べたてもう一度その目で確かめろと脅してくる。
しかし今さら一対何をしろというのであろうか。
語るべき言葉などあるはずもない。
或いはまりあは私と雪子さんの間に小説になり得る材料を見つけようと本気で考えているのだろうか?
怪しからんと怒るよりも、その好奇心行動力に一種の畏怖すら覚えてしまう。
まりあは私と何もかもが正反対である。
もしもまりあが誰かと恋愛をしたならば?
それは大変興味深い小説となるかもしれぬ。
或いは私の敗北主義的な惰弱な精神を揺さぶり得るかもしれない。そんなことを考えながら眠りに就いた。
それから二、三日は何事もなく過ぎた。
私はまりあに雪子さんとの会見の斡旋をしたことを後悔し始めた。
あの時は勢いと多少の好奇心で許諾してしまったのだが、あのゴロツキ娘が何を仕出かすか分かったものではないということに気付き急に心配になってきた。
しかしまりあとは住所も電話番号も知らないので連絡の取りようがない。
そんな風に心配していたら三日目の午後、蓉子さんがお世話の当番となって来たのでまりあの消息を聞いてみた。
「え?まりあちゃんですか?実はこの三日ほど大学にも来てなくて。活発な子だからまたお友達と登山にでも行ったんじゃないかと思ってたけど」
まりあは突然ふらっと居なくなることが度々あるらしい。
最近は登山部の連中と山に登ったりしているようだ。
「心配なら電話で聞いてみましょうか?」
「ええ。よろしく頼みます」
そしてバッグからスマホを取り出すと蓉子さんは電話を掛けてくれた。予想に反してすぐに出たようだ。
「あ、もしもしまりあちゃん?今どこにいるの?え、京都?源五郎叔父さんが大変心配してらしたわよ。え?ええ。まあ」
「蓉子さん代わって貰えませんか?」
「あ、はい。まりあちゃん、叔父さんと代わるわよ」
「もしもし夏目です」
「あ、おっちゃんか~。あたしね。今京都だよ」
「そこで何をしてる?」
「何してるって到頭雪子さんの居場所突き止めたのさ。それが妙でさあ。立派な洋館なんだけどね。人の気配がしないっつうか。今、安ホテルに泊まって探偵の真似事してんのさ」
「変な真似は止すんだ。雪子さんに迷惑が掛かるようにしちゃあいけない」
「何、心配すんなって。小川常太郎さんからさ。大学時代の雪子さんが哲学を研究してるってことを聞いてさ。雪子さんの大学時代の研究についてちょっとお伺いしたいんですって聞いてみっから」
「ま、待て。やはりこの前の件は無しにしてくれ……」
全てを言い終わる前にまりあは電話を切ってしまった。
「……どうしたんです?まりあちゃん」
「う~んどうも京都のホテルに泊まってるみたいです」
「まあ、どういう訳で?」
「私が悪いんです。恋バナをしろとせがまれて昔付き合った女性の事を話してしまった。まあ彼女は他の男に嫁いだんだが、まりあはその理由を聞きに、常太郎に住所を聞いて京都まで行ってしまった」
「それは困りましたねえ」
「ええ、相手の迷惑にならなければいいんだが……」
「まりあちゃん、こうと決めたら突っ走っちゃうから。どうするんです?」
「蓉子さん、僕は常太郎に雪子さんの住所を聞いて京都に行ってみることにします。支度するのを手伝ってくれませんか?」
「ええ、勿論です」
「それともしまりあと電話が繋がったら、私が行くまで何もしないでくれと言ってやって下さい」
「はい、分かりました」
その晩常太郎に電話して聞いてみると慥かに四日前、まりあから電話があって雪子さんの住所を教えろと言われ、定期的に送られてくる同窓会の冊子を頼りに住所を調べて教えてやったそうである。
私は常太郎から雪子さんの住所を聞くと、翌日の新幹線の時刻表を調べて寝た。
翌日、蓉子さんに教えられたまりあの番号に電話を掛けると意外にもすぐに出た。
どういう手を使ったか分からないが、あれからまりあは雪子さんと接触し、私の在籍していたN大学の学生であると偽り、哲学について詳しい話を聞くという名目で喫茶店で会ってしまったらしい。
詳しい話は会ってからするというのでとにかく京都へ行ってまりあと落ち合うことにした。
聞くと金がない無いので金を貸して呉という。
とにかく私はタクシーで東京駅に向かい、京都行きの切符を買った。幸い自由席は空いていた。
数年ぶりの新幹線にまごつきながら、夕刻京都駅に着いた。
スマホでまりあに電話すると今パチンコをしてると言い、近くのコーヒーショップで落ち合う事になった。
スマホの地図を頼りに、駅から三十分ほど歩いてコーヒーショップに着いた。
一番奥のテーブルに行くと、呑気にトーストを咥えながら長い黒髪を弄ってるまりあがいた。
開口一番金を貸して呉と言われ、癪だが早く喋らせる為に財布からニ、三枚万札を呉れて遣った。
まりあと雪子さんはこの辺の喫茶店で話をしたらしい。
話した内容を聞くと最初哲学の話をしながらさりげなく大学時代の話に持っていき、一緒に研究していた遠野源五郎の事について話が及んだらしい。
そしてあろうことか「私は遠野源五郎の弟子で、彼に哲学を学んでいるまりあと申します。彼は根暗で学生時代の失恋を未だに根に持っているそうです。未だに学生時代の恋人であった雪子さんのことが忘れられず、弟子である私を使って小川常太郎さんから住所を伺い、何故遠野源五郎を捨てたのか訳を伺って来いと申しますので遥々東京からお話を伺いに参りました」と語ったのだそうだ。
得意になって大法螺を吹聴するまりあに私は赫怒した。
そしてまりあに頼んだことを深く後悔した。
が、この際下手な術策を弄して気を揉むよりも、いっそ大法螺を吹いて貰った方がその弁明をするという名分が立つと気がついた。相手が気分を害して断ったならそれまでのことである。
まりあに聞くと雪子さんは「相変わらず面白い方ね」と笑っていたそうなので胸を撫で下ろした。
まりあは勝手に「おっちゃん、調子に乗って夏目漱石の没後弟子って勝手に名乗って、夏目源五郎ってペンネームにしてんだよ。受けるでしょ。……って言ったんだよ」とさも面白そうに話すものだから、私は思いきり拳骨を食らわせてやろうとしたがするりと逃げられた。
とまれ雪子さんは笑いながら「遠野君とはかれこれ十年も会ってないから一度お目に掛かって話してみたいわ」と言ったそうである。
まりあは私を追って遠野は今にこちらに来ますのでそのとき連絡を差し上げますと、雪子さんの電話番号を聞いたそうである。
私はまりあに遠野が京都に来たので会見を願いたいと、雪子さんに連絡するように頼んだ。
そして駅前の安ホテルにチェックインし、コンビニで買ったカップ麺と握り飯を食べて眠りに就いた。
もし会ったのならば、まりあの大法螺についてなんと謝罪しよう……。手土産は何が適当かしらなどと考えながら……。
翌日の昼、ホテルの部屋で読書をしているとまりあから電話か
が掛かってきた。
雪子さんに電話をしたら私と会ってもいいと言ったそうである。但し今日明日は立て込んでいるので、明後日の午後三時、まりあと会った喫茶店で話しましょうとの事だった。
ご主人には旧友と会うと言ってあるので気遣いは無用とのこと。まりあに付いて来られると厄介なので、来るなと言ったら京都市内を観光するので金を呉れと言うので、止む終えずまりあの口座にコンビニのATMから三万振り込むことにした。
まりあに騙されているようで余り気持ちのいいものではないが、今回限り致し方あるまい。
雪子さんを探し出して呉れた探偵代と交通費ということにすれば、寧ろ安いかもしれない。
それから二日間、昼間図書館に行って読書し夕方ホテルに帰って思索に耽った。
とても京都観光する気にはなれなかった。
私は雪子さんに会いたいのか会いたくないのか、どっちともつかない妙な心持ちを抱えながら深い水底へ沈んだ。
こうして過去を振り返ると、輝かしい青春の記録の最後のページだけが、無惨にも破り捨てられているような気がする。
尤もこれは青春の蹉跌として多くの者が経験する一般的なことなのかもしれないが……。
【続く】
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