親ガチャという言葉はなぜ広まったか
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親ガチャという言葉がある。子供の人生がどんな親を持つかによって大きく変わる様子をガチャにたとえた言葉である。親に虐待をされた人などが「自分は親ガチャに外れた」と言ったり、裕福な家庭に生まれ不自由ない人生を歩んでいる(ようにみえる)人を「親ガチャ当たり」と形容したりするのに使われる。子供の人生が親によって左右されるのは言うまでもなく事実である。しかしこの言葉には違和感を覚える。なぜなら自分という一人の人が存在している時点で、親が誰かというのは確定しており決してランダムではないからだ。親ガチャという言葉の背景には、親が誰かが決まっていない状態が想定されているのである。そしてこの状態はある哲学者、ロールズが提唱した原初状態と同じであると私は考える。原初状態とは「人々が自分の置かれた状況(自分の社会的立場、性格、財産など)を全く分かっていない状態」のことを指し、ロールズはこの原初状態において決められた社会的規則こそが公平であると主張した。親ガチャというのはまさに原初状態の想定、つまり自分の親が誰であるか知らないという状況の想定を行っている。しかし親ガチャという言葉がかなり大衆化しているのに対し、原初状態という概念はあまり有名ではない。ではなぜ親ガチャという原初状態に似た概念が市民権を得たのだろうか。私が思うにこれは、「人はみな生まれた時から平等である」という人権の思想と現実の乖離によって起きた現象である。人権は小学校で教えられる概念であり、「人はみな生まれた時から平等」だという思想は非常に一般的なものである。しかし格差が拡大するにつれ、生まれた家庭による差に多くの注目が集まるようになった。生まれながらの平等という理想と現実のギャップを埋めるために考え出されたのが、親が誰か分っていない状態、つまり原初状態における平等である。人の生まれながらの不平等が顕在化したために、生まれた時点ではなく原初状態における平等が考えられるようになったのだ。人はみな平等だという思想と、生まれた家庭による格差という現実の両方を取り込んだ親ガチャという概念は格差の拡大を防ぐための、形式的ではない積極的平等に向けた議論において大きな役割を果たすかもしれない。