山本淳子『紫式部ひとり語り』を読んで
現実の人生を受け入れ、もののあはれを知る
この書は、作者の紫式部「私」が語るという文体で書かれている。山本氏自身が「ひとり語り」は冒険というのも頷ける。山本氏が研究者として『紫式部日記』『紫式部集』『源氏物語』などを読み込み、式部の出自や時代背景など研究的な視点で資料補強がされており、史書『大鏡』や日記『小右記』『御堂関白記』、『古今和歌集』『千載和歌集』を駆使し、系図も示し出自を自慢げに語らせるなどの方法である。紫式部が自分を語るという設定で書きながら、「自分語り」設定それ自体を疑うことができないようになっている。それが限界であると同時に魅力である。物語を書くという「空想力」と、女房勤めの心得を書残すという「実際的記録作成」の二つのテーマがある。
物語は「語り」であり、また「騙り」でもある。作者本人が作中の「私」であるというのはそう単純な事ではない。
紫式部が、「日記」をわが娘の女房勤めのために手引書として書いたとしても、そこには自分の失敗談を初めとして同僚女房への批判もあれば、公卿たち男性の女房たちへの仕打ちの酷薄さも書かれている。それを書くのは勤めのためだけではないはずだ。公表するのが前提なら、『枕草子』が中宮定子の後宮の評判を永遠ならしめるためだったように、藤原摂関家と中宮彰子を顕彰するためだったろう。中心は、物語作者としての自負である。
源氏物語研究では、モデル探しを準拠説と言って貶める傾向があり、藤原氏の政治や実際上の出来事を源氏の物語の中に引き入れて論じることは避けられてきた。そのため研究は本文読みの詳細に、極端になっている。山本淳子氏の研究は準拠を怖れず政治面もいれているがバランスが良いので式部の語りとして読むことができる。実際は紫式部を取り巻く政争と取引も含めて、もっと醜悪な人間の裏があるはず。
読み込むのがつらくなるほどの歴史的事実で固めて、千年前の物語作者を現代の作家のように想像させ、古語の世界が突然、近代的な個の悩み、告白、そして自分の発見などという馴染みの文学テーマに引き寄せられる。紫式部の悩みは人間存在の本質に迫るものであったが故に、不朽の名作『源氏物語』作者となり得たとし、その伝記を描き出したのだ。
「宣孝の死を受けて、私の内面は大きく変わった。私は『世』という抵抗できぬ現実を痛感した。また、自分がその前で立ち尽くす無力な現実存在、『身』であることを実感した。そして生きることに絶望した。それは私にとって、自分に与えられた『世』つまり人生が、到底受け入れがたいものだったからだ。」「ところが」「気づいた。寂しい事だが、私はどこかでこの人生を受け入れた」「私の中には『心』という部分もあった」(90頁)
「数ならぬ心に身をば任せねど身に従ふは心なりけり」現実は思い通りにはならないけれど、分かったことは、辛い現実にもなじむのが心なのだと。人生を受け入れても、心は現実にとらわれないという境地、そのように内心の自由を得たと書かれている。
古語では「世」とは男女の関係、「身」は身分、「心」は仏心のことであると教室で習ったが、その意味ではこの歌は解けない。世を現実とし、身とは存在のこと、心は意識のうごきとしてこそ、理解が深まるとこの書で教えられた。
西行法師に「心から心に物を思わせて身を苦しむるわが身なりけり」の歌がある。仏教の修行というものが根底にあるのだが、紫式部から百年たって、「心」は意識、「身」は存在、存在の苦しみを歌った西行の歌に出会える。今でも、「心」と「身」の分裂に苦悩し、自分とは何か、生きるとはどういうことかと問うことは、ものを考え書くときに伏流水のように流れている。
江戸期の本居宣長は源氏物語に「人の情のあるよう」を読み、物語の本意は「物のあはれ」にあると述べた。(『紫文要領』)それを昭和52年の小林秀雄は「心が行為のうちに解消し難い時、心は心を見るように促される」、「心と行為のへだたりが意識である」この意識を「物のあはれを知るということ」だと解いた。(『本居宣長』)
『源氏物語』「蛍の巻」に有名な物語論がある。光源氏が「作り物語」を熱心に読む玉鬘を「女というものはそんなつくり話が好きだねー」と、からかうと、玉鬘は、物語は「まことのこととこそ」と、つぶやいて、やり返す。物語にこそ真実の人生があるとの主張で、これは式部の「下心を示す」と宣長は言い、小林秀雄も式部を無双の名手だと賞する。
身ではなくて心で生きる、現実よりもずっと完璧な世界が作れると、『紫式部ひとり語り』は式部の心を確かに感じさせるように書いているのがよい。源氏物語愛読者にこの書をすすめたい。