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ピーター・ディキンスン全作レビュー(予定地)part3 内に死を孕む社会 『英雄の誇り』

あらすじ

ピーター・ディキンスン 1971(原著は1969)『英雄の誇り』 早川書房

 長らくサボっておりましたが、3作目『英雄の誇り』をレビューしていきます。ピブル警視ものの2作目。1作目である『ガラス箱の蟻』とともに2作連続で英国推理作家協会賞を受賞した作品です。それではまずはあらすじから。

第1回『ガラス箱の蟻』はこちらから

https://note.com/cute_holly580/n/n43b61226983e

第2回『過去にもどされた国』はこちらから

https://note.com/cute_holly580/n/n77d681672f70

 英国貴族の家柄、クレヴァリング家のラルフとリチャードの双子は、第二次世界大戦でとある奇襲作戦を成功に導いたことから国内では英雄と目されていました。
 現在のクレヴァリング家はヘリングズ(検索しても出てこないので架空の街なんですかね)という田舎で十九世紀の英国を再現したテーマパークのような観光施設を経営しています。そこでは拳銃での決闘や追い剥ぎが捕物に遭って、処刑されたりといったことが体験できるわけです。ちなみに双子の弟の方のリチャードが研究しているライオンが飼われていたりします。十九世紀のイギリスとライオンというのはなかなかミスマッチだと思うのですが。
 経営を主に担っているのはラルフの娘のアンシアの夫、ハーヴェイなのですが、ラルフとリチャードの双子は古き良き英国を体現するかつての英雄として象徴的役割を今も果たしています。
 そんな中、戦争時のラルフの部下の艇長であったという経歴を持ち、今日では召使を務めるディーキンという人物が自死します。通常は地元の警察が処理するのですが、クレヴァリング家の意向でロンドンからピブルが派遣されます。

 冒頭でラルフは地元の警察には新聞社と繋がっているような輩がいるため、そうした息のかかってない人物にこの件を取り扱ってほしかったと説明しますが、ピブルは納得しません。
 ピブルはディーキンの死について犯人を探すというよりは、まず家全体で一丸となって何かを隠そうとしている気配を感じ取り、クレヴァリング家やテーマパークのスタッフを取り調べながらそれを暴こうとします。この辺りの展開はディキンスンっぽいですね。

 連続で英国推理作家協会賞を獲った『ガラス箱の蟻』と『英雄の誇り』。私は『ガラス箱の蟻』派なのですが、そこで起こる犯罪の背景は別として、様相の独創性という点では『英雄の誇り』の方が何枚も上手でしょう。しかし読者に推理の余地があるとか、伏線の妙という意味では『ガラス箱の蟻』に軍配が上がるように思うように思います。まあディキンスン作品間の優劣を本格としての出来が左右するかと言われると微妙なところですが(本格以外の要素が大きいので)。

 正直なところ、今回『英雄の誇り』を読んでみて書きたいことがこの作品個別に書きたいことがこれといって思いつきませんでした。これは作品の出来とは関係ないように思います。今回はディキンスン作品全体に関するようなことを言及してお茶を濁すことにしたいです。

内に死を孕む社会

『英雄の誇り』の解説では「内に死を孕む社会」という言葉が「」付きで出され、ディキンスン独自のテーマとして指摘されています。第1回で引用した『毒の神託』の摩耶解説でもこの言葉は使われていたなと思って見てみれば、やはり「」付きで出され、これが彼のテーマらしいと書かれていました。
 多分どこかで本人がそういう文章を書いたということなのでしょうが、出所が分かりません。

 それはそれとして『ガラス箱の蟻』と『英雄の誇り』を読み比べるとなんとなく共通点というか、ディキンスンの趣味のようなものが見えてきます。それを挙げてみようという話です。それが「内に死を孕む社会」かはわからないけれど(多分似たようなところにある問題だとは思っています)。

 まずはざっと『ガラス箱の蟻』のクー族についておさらいしましょう。クー族は元々ニューギニアの民族でしたが、第二次世界大戦時に日本軍の襲撃を受け、ほとんどが全滅。その後一族の生き残った者はロンドンから来た牧師の遺児であり、クー族の一員として認められるイヴの手引でロンドンで生活をします。

 第一に、役割は違うが第二次世界大戦という歴史を引きずっています。殺した方と殺された方は別だが、それは死にまつわる歴史と言っていいでしょう。

 第二に、かつての自分たちに執着しているという点が挙げられます。クー族たちはロンドンに移り住んでからはテレビも見るし、学齢期の子供はロンドンの学校に行くし、郵便局で働く若者もいます。伝統的な儀礼のようなものも行っていますが、かつての生活とは随分違うでしょう。必ずしも一枚岩なわけではありませんが、それを快く思わない、かつての自分たちに戻るべきだと考えるメンバーがいるのです。
 クレヴァリング家の方は大戦時の英雄であることで知られる家であり、現在の19世紀イギリステーマパーク家業にもそのイメージを利用しています。

 第三に、ある種の偽物であるということ(何かもっと上手い言い方がありそうなんですが)です。クレヴァリング家の方について言えば、テーマパークは彼らが作ったものであり、当たり前ですがどれだけ丁寧に再現したとして、人も住んでないし19世紀のイギリスそのものではないことは言うまでもありません。スタッフ達が娘婿のハーヴェイにより、昔風の言葉を使われるよう指導されているのもその一つです。
 クー族の方について言えば、先述したように彼らの生活はロンドンに来て以後大きく変容しています。もちろん文化とは互いに影響を受け合い、与え合いながら変化していくのが当然であり、少なくとも最早クー族は彼らしかいないのだからこれが今のクー族の文化とも言えるでしょう。文化人類学者でもあるイヴが、現在のクー族のあり方を研究対象としているというのもそうした物の見方があることを示唆しているように思います。
 一方であえて本質主義的に言えば、クー族の伝統的な文化はすでに失われかけていると見ることも可能でしょう。

 私が言いたかったのは、歴史に執着していることやある種の偽物であることが、死にかけた、近い将来滅びるであろう社会の暗示として取り入れられているのかもしれないということです。

 次回は多分ピブル警視もの3作目『封印の島』で更新します。
 書いてるうちにネタバレを踏まえて書きたいことがちょっと出来たので以下ネタバレありです。












軽くネタバレを踏まえて

 第1回で紹介したように麻耶雄嵩はディキンスン作品に見られる特徴として、共栄の幻想があることを指摘しています。これは『ガラス箱の蟻』を読む限り実に的を射ているなと感じたのですが、この『英雄の誇り』にも同じことが言えます。

 舞台であるクレヴァリング家に関して言えば共栄の幻想など指して抱いてないように思うのですが、ここで共栄の幻想を抱いているのはイギリスという国です。

 イギリスの古き良き生活を再現したテーマパーク、それを象徴する英雄がラルフとリチャードなわけですが、彼らの実態や最後が作中でも言及されているように、少なくともハーヴェイにとってはそれまでのものをすべてぶち壊しかねない醜聞でした。

 締めが思いつかないので変なところで終わりますが、今回はこの辺で。

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