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089. ものづくりを育てた肥沃な土壌

 こうして見てみると、明治時代の初期に、西洋の合理性や科学技術・工学に大きく差をつけられた状態で国を開いた日本が、「独創性はないが、見事に仕上げる巧みさがある」という素養をベースにものづくり大国に成長できた理由が、なんとなく見えてきます。庶民レベルの知的な好奇心の高さについては、海外からきた多くの人間も感心していました。
封建制度で遅れていたと思われる江戸時代が、実は、開国してみれば、
・異文化・新しい文明に対応できるように庶民の識字率が高くなっていた、
・好奇心旺盛で、学ぶ学習意欲を持っていた、
つまりは大きな変化にも対応できる肥沃な土壌をしっかりと培養していた時代であったということに気付きます。
 一般的に私たちが理解している江戸時代は、一部の為政者を除いて、領民に「知らしむべからず、寄らしむべし」という極めて閉鎖的な社会を維持していた時代であったように教えられてきました。
建前上でいえば、学んで知恵をつけることは、権利の主張につながりますので、それを喜ぶ領主はそう多くはない、ということも言えます。なので、一部の英明な人材を除いて、領民が知恵をつけて啓蒙されていくことに、幕府や各藩の領主はむしろ反対の立場をとってきた、と教えられてきたように思いますが、しかし、実情は、必ずしもそうではなかったということです。
武士が支配する社会で、農工商の子供たちが、識字率世界一と言われるような密度で教育を受ける環境と仕組みを、政策的に作り上げてきたとすれば、これは逆に閉鎖的ではない、見事なオープンな政策と言わざるを得ませんが、実際には、庶民からの要望で、自然発生的に寺の僧や、あるいは職を失った浪人などを活用することで教育が行われてきたというのが、実情でしょう。
必ずしも庶民に有利な社会環境がつくられていたとはいえない中で、何とか自らに良い状況を作り出してきたという歴史は、与えられた状況の中で、しぶとく生き、楽しんでいく、日本人の生き方の特徴を示しています。
寺子屋という機会を利用して、庶民がいわばボトムアップ的に生活に学びを取り入れていったわけですが、その根底には、向上心、好奇心があったはずです。
しかも、農家の子弟は学ぶことで経済的な利益を得るわけではありません。江戸時代から、学ぶことを通して自身を向上させる、そんな指向を持っていたとすれば、日本人はたぶん、世界的にもあまり例がない、特異な存在ではないかと思います。塾やカルチャーセンターが花盛りなのもうなづけます。
生涯教育というのは、1965年にユネスコが提案した新しい概念です。
しかしそれ以前から、日本では伝統的に寺子屋という教育の仕組みがありました。その結果としての庶民の識字率が同時代の欧米と比べても非常に高かった。それがその後の国の発展を可能にした要因ではないかとして、ユネスコなどでも高く評価され、日本のユネスコ協会連盟発祥で、世界識字教育運動の1つとしてユネスコ世界寺子屋運動(World Terakoya Movement)が1989年から続けられています 。
(https://www.unesco.or.jp/activities/terakoya/)

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