013.横浜市開港記念会館
≪3.生糸貿易をささえた横浜の洋館・建造物013/本町通り周辺≫
⇒改装のため、2024年4月まで休館中
*旧町会所(商工会議所)。タウンホールの前身で、会議室がたくさんあり、いまでも現役で使用されています。横浜三塔物語(キング、クイーン、ジャックの3つの塔を1日で回ると願いが叶うという言い伝え)のうちの「ジャックの塔」として知られ、横浜のランドマークのようになっています。
■岡倉天心が生まれた地「町会所(まちがいしょ)」
大正6年(1917年)、 横浜開港50周年を記念して建てられた建物で、横浜のランドマーク的な建物として知られています。道路に面して建つ塔はキング、クイーン、ジャックの塔で知られる横浜三塔物語のなかでも人気の高い「ジャックの塔」です。
建てられて100年がたちますが、昭和63年(1988年)に、破損していた屋根が復元されて、かつてのままオリジナルの部分が多く維持されていましたが、再度の大改修が現在行われています。
建物は横浜市の公会堂として一般にも開放されていて、会議室、講堂など誰でも申し込めば使うことができます。保存と活用が見事に並行して行われている素晴らしい例でもあります。長期間使用に耐えるというのは石造り建造物のメリットですね。
できた経緯はこんなことです。
開港後、横浜に商人たちが集まって一大問屋街が形成されるようになると、お互いの情報交流だけでなく利害関係の調整も必要になってきます。今でいえば商工会議所ですが、その集会所を町会所と呼びました。ちなみに、発音は「まちかいしょ」ではなく「まちがいしょ」です。
こうして寄り合いのための施設が作られましたが、慶応2 (1866) 年に、肉屋から出火した豚屋火事で日本人街とともに焼失してしまったために、明治7(1874)年に新たに本町5丁目に町会所が新設されました。当時は、本町通りは番地が今とは逆につけられていて、県庁舎の斜め向い、当時の本町5丁目は今の本町1丁目、つまり、この場所でした。
この場所、町会所ができる前は、福井藩が横浜に開いた商館「石川生糸店」で、実は岡倉天心の誕生の地でもあります。
岡倉天心の父親・岡倉勘右衛門は福井藩の下級藩士で、藩命で武士の身分を捨て、生糸問屋「石川生糸店」に出向していました。天心は、その店の炭倉で文久2年(1863年)に生まれたことから、角蔵(すみぞう)と名付けられたといいます。
町会所は石造り亜鉛葺き2階建て、一部4階建てで、延べ約765平方メートルの壮大な洋風建築だったようです。建築費用は、明治6(1873)年に炎上した皇居の造営費にと横浜商人が献金した8万円が却下されて戻ってきたために、それを転用したらしい。時計塔の時計はイギリスから輸入したもので、時打装置が時を打ち、開港場のシンボルでもあったといいます。しかし、明治39 (1906) 年、老朽化したので大修復を行おうとしていた矢先、付近から起こった火事で類焼してしまいました。
■横浜市民による、市民のための建物
その後、明治42 (1909) 年、開港50周年を記念して市民の寄付により公会堂が建設されることになり、コンペで当選した案をもとに横浜市建築家が設計したようです。
大正3年(1914年)に起工、大正6年「開港記念会館」として完成。設計を一般に公募し、市民の寄付金で建造されました。その意味では横浜市民の、市民による、市民のための建物、シティーホールなのです。
設計は福田重義。外壁は赤レンガを露出し、白い花崗岩をアクセントに配する建築様式で、フリークラシック様式(通称「辰野式」)。辰野式の由来は、東京駅の設計でも知られる辰野金吾が明治時代後半から大正期にかけて、この手法による建築物を百数十件建てたところから、呼ばれるようになりました。
道路に面して4隅の角に塔があり、特に交差点に面して建つ時計塔の存在感は圧倒的で、「ジャック」の愛称で親しまれています。横浜3塔ものがたりのなかでは高さは一番低いので、遠くからなかなか見つけられないという声が聞こえます。
ふつうは開港記念会館と呼んでいて、市内ではどこでもそれで通じるので、正式名称についてはあまり気にしなかったのですが、どうやら正式には「開港記念横濱会館」というらしい。本町通りに面した正面の上部に、それらしい名称がかけられています。当然、完成時のものなので、以後変更されていることはあるでしょうが。でも建物につけられているこの文字が当時のまま変えられていないというのは歴史的な姿を保存するという意味ではいいですね。
●所在地:横浜市中区本町1丁目6−6