086. 庶民の学習意欲は日本の伝統文化
開国か攘夷かで風雲急な幕末の日本人の意識レベル、いまでいうリベラルアーツのレベルはどのような状況だったのでしょうか? 江戸末期~明治維新の日本人の識字率は、世界的にも高い方だったというのは、世界の学者の共通認識です。当時、高い教育が施されていたといわれていたアメリカなどでも、そうした教育が行われていたのはごく一部の人たちで、決して全体のレベルが高かったわけではありません。
一説に1850年ころの識字率は、
・ロンドン市民が20パーセント程度、
・パリ市民で数パーセント、
と言われていますが、江戸の町では70パーセントを超え、日本全体でも40~50パーセントという説があります。
先進国である欧米諸国と比べても、江戸末期の日本人の識字率は非常に高かったのです。これを支えたのは寺子屋です。
と述べているのは日本女子大教授の入江宏です(⑦「現代農業」増刊『すべては江戸時代に花咲いた』)。
そして、英国ノッチンガム大学の教授で成人教育学の権威であったE・トーマスは、
と紹介しています。
寺子屋は、江戸時代になって幕藩体制が固まり、庶民が落ち着いて生活ができるようになって生まれました。最初は寺僧の余業のようにして京・江戸から始まり、次第に地方に広がって、1800年代には全国で1万5千件くらいに達していたといわれています。
小説ではありますが、井上ひさしの「京伝店の烟草入れ」にも、「化政期の貸本屋は六〇〇余」と書かれた一節があります。化政期(文化・文政期:1804~1829年)は、元禄と並ぶ文化の爛熟期で、十返舎一九の『東海道中膝栗毛』などが発刊された時期です。
当時の貸本屋は、店を構えているというのではなく、棒手振りといっててんびん棒の前後に本箱をつけ、これを担いで町を練り歩き、得意先を回る貸本が中心です。
武家屋敷や大店だけでなく、あるいは、長屋の井戸端会議にも出向いたかもしれません。瓦版が飛ぶように売れ、貸本屋が商売として成り立ったのは、それだけ文字を読める、レベルの高い成熟した読者がこの時代に多くいたということでもあります。