025.攘夷から開国へ180度の転換
この後日本は、1867(慶応3)12月9日(新暦1868年1月3日)の王政復古の大号令を受けて、翌年1868年9月8日(新暦10月23日)を明治元年として薩長土肥を中心とした新政権が誕生しますが、「攘夷」を掲げて奪取した新政権は、政権を取ると幕府の政策を踏襲し、富国強兵策を柱にした「開国」へと180度の政策転換をします。
旧暦/新暦の記述が紛らわしいのですが、それまで採用されていた太陰暦(天保暦)が、現在の太陽暦(グレゴリオ暦)に変わったのは明治5年12月3日からで、この日を 明治6年1月1日として新暦に移行しました。その結果、明治5年は12月が2日しかありません(これ以前は旧暦、以降は新暦で記述します)。
国をリードする根本政策が、政権奪取後に「攘夷」から「開国」へと大きく変わるのですが、このあたり、与党(野党)の政策に反対をマニュフェストに掲げて選挙戦に挑みながら、政権を取った後は、すっぱり主張を忘れて真逆の政策を推進する、と現代風に翻訳してみると、なにやらどこかで聞いたことがあるようなお話になります。それがあまり大きな問題にもならずに通ってしまうところは、日本人の国民性なのかもしれません。
とはいえ、ヘアピンカーブさながらの急転換を行ったことで、明治維新政府はその後の政策運営に苦慮することになります。
しかし、開国・富国強兵と決めてからの思い切った対応で、こうした苦境を見事に乗り切ります。その理由としては、
(1)一つは、国のかじ取りを担当したのが、怖いもの知らずの30代の若い世代だったということ、
(2)さらに、江戸時代に培われた日本人の基本的な素養・能力が、大きな政策の転換にあたっても十分に対応できる高いレベルで確立されていたこと、
(3)なによりも政府首脳に外国の侵略から国を守り自立させたいとの強い思いがあったこと
・・・などがあるように思えます。
そして、維新直後の1871(明治4)年11月12日、国のゆくべき方向を見極めるため、岩倉具視を大使として欧米に使節団がでかけます。
新しい政府が組織されて、やっと廃藩置県が行われたばかりのころです。
幕藩体制が廃止され、各藩から禄をはんでいた武士たちは職を失いました。幕府の家来、旗本などの幕臣も同様です。全国の侍たちが一挙に職を失うことになるわけですから、何とか生きる道を考えてあげないといけません。
新しい国のスタートにあたって、やることは山積している状態で、伊藤博文、大久保利通、木戸孝允、山口尚房という最高首脳がそろって国を留守にして、海外の視察に出かけました。
使節団総勢46名、これに随従が15名、官費・私費の留学生42名を加えて総勢103人の一大デレゲーションです。しかも期間は1年9か月。欧米事情を知りたいという気持ちは分かりますが、これを意思決定し実行した当時の首脳たちのとてつもない好奇心、向学心、そしてなによりも胆力に驚きます。この視察の成果は「特命全権大使米欧回覧実記」(①久米邦武著)として報告されます。
名前は「特命全権大使」となっていますが、実は、天皇陛下からの信任状を持参していないことをアメリカから指摘されて、あわてて取りに帰国するなどの失態もあり、その後は、全権大使の公式名を外し、「使節団」と称しています。
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