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058.新田開発と農具の改良で元禄バブルへ――千歯こきの誕生

ものづくりという面で、長い間日本人の最大の関心事は米の生産でした。
税金、年貢が米で納められ、武士の禄高が米で決められましたから、経済はいはば米本位制、農民も藩も米の収量を増やすことがそのまま豊かさにつながります。
戦国時代を経て秀吉が天下を統一し、徳川家康によって幕藩体制が構築されると、農民が兵力として借り出されたり、畑を荒らされたりしていた戦(いくさ)がなくなり、世の中が落ち着いてきます。
各藩では年貢収入の拡大をめざして新田開発が奨励されるようになります。
藩をあげての開墾が進められ、耕作面積が増えていきます。農家の一代目、二代目、三代目……と新田開発の努力が続けられ、農地が広がって米の収量が少しずつ増え、農民にも余裕が出てきます。
年貢を納めてもコメが余るようになり、余った米が市場に出されて、市場経済が生まれ、農業に依存せずに生きる町民が増えていくことになります。
こうして消費経済が活発になっていく結果、次々と便利な新しい物が作られ、それが市場に出され、市場にモノがあふれて消費が活性化し、経済がバブル化して、絢爛豪華な元禄時代(1688年~)になだれ込みます。
1600年代は、こうした新田開発で高度成長を実現し、経済が活性化した時代でした。しかし、新田開発も限度があります。開発可能な土地があらかた開発されてしまうと、現在ある農地での収穫量の増大を目指す生産性向上の方向に目が向くようになります。
農業で人手が求められるのは、田植えと収穫の時期ですが、最大の課題は、最も人手が必要になる収穫作業でした。ここで、効率化をめざしてさまざまな工夫が凝らされ、道具の発明・改良が行われるようになります。
刈り入れた稲から実をそぎ取る脱穀作業は、1700年頃まではこき箸と呼ばれる道具が使われていました。竹を2つに割って下端を縛り、右手で掴んだ稲をこき箸に挟んで左手で締め、稲を引いて実を落とすというもので、作業をするには力も必要で、作業効率は極めて低い方法でした。おおむね女性の仕事で、1日終日働いても作業量は約2斗ほどだったといいます。
こうした中で、元禄期(1688~1704年)に大阪・高石で使われ出したのが、大きな櫛のような千歯こき(図6-3)と呼ばれる道具です。両手を使って引き抜けるために作業量は一気に増え、1日の作業量は1石2斗と6倍になりました。能率の良さが認められて、千歯こきは瞬く間に全国に広まっていきます。
図6-3 千歯こき(千歯こきを国中に広めて、大もうけした商人の話が紹介されている

(「農具便利論」農文協「日本農書全集上中下三巻」)

当時の農業のノウハウを紹介した③『農具便利論』(農文協「日本農書全集上中下三巻」)にも、「昔時 備後の国 福山なる商人、伊勢大神宮へ詣づるとて浪速に着ぬ」という書き出しで、備後の国・福山の商人が大阪で千歯こきを見つけ、大量に仕入れて国に持ち帰って売り出したところ、わずか2年もしない間に300両ほどの売り上げになり、相当に利益を得ることができたという話を紹介しています。

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