鈴木大拙「一真実の世界」近藤書店
昭和16年発行のセピア色の本。当時の科学万能主義に疑問を呈し、「自然の反逆児」としての人間の性を直視する姿に共感する。
大拙はこの人間社会の限界を超克するものとして「霊性」を掲げており、それに目覚める道として「禅」の心を説いている。
3次元の世界に凝り固まって自分の世界を狭くしている人間に「脱次元の発想」を提案している。
弱肉強食を良しとする西洋的思考法の限界を厳しく指摘し、彼は東洋思想との融合によって実証的・組織的・論理的思考への昇華ということを考えていた。
西洋のエロス(横的愛)とアガぺ(縦的愛)だけでは説明できない世界が、東洋思想にはある。慈悲・大悲・無用の用といった世界は次元を超えた智である。
この頃日本では西洋の影響を受け、「征服」という言葉を多用していたようで、このことに警笛をならしている。この征服という言葉は登山にも使われるがここには自然への畏敬の念がない。極めて西洋的な発想による輸入語なのだ。
無知の知ではないが、宇宙・自然は全て理解することができるという科学の前提に真っ向から挑戦状をたたきつけている。
「自分の思想に染まれ」と言わんばかりのイデオロギー所有者は結局その「思想の奴隷」になっているだけの話なのだ。そう、誰かの思想に頼ることをして、真理を掴むことはできない。真理は自然と一つになったところにしかない。そこに到達する道としての禅を理解することは大きな一歩になる。
ふむふむ・・・俺は禅とはほど遠い生き方をしてきたが、こうして大拙先生の話を伺うことは何故か心地よい。先生の言葉の中で心に残ったものを記しておこう。
「人間というものは、自分の見る所より以上に、他人を見ることの出来ぬものである。自分の人格が小さければ、大きな人を見ても、それの大きい所を見ないのです。見えないのです(中略)小人物には小さなことだけしか見えない」
「禅は空でもなく、静でもなく、一でもない。『如』に徹することだ」
「禅に直接性というものがある。理屈を言うのではないのです(中略)単刀直入に「これ」と言って掴んで見せるところがあるのです」
「人生何事をするにも、己を捨ててかからねばならぬ」
「自我をなくするには、自我よりも、もうひとつ大きいものを見つけなければならぬ」
「禅の道徳観は百尺竿頭に一歩を進める所より出ている」