剥がれた生爪がつまらぬ意地に
私は大学時代に、大学の先生からビアホールでビールを飲まして貰い、調子に乗って飲み過ぎて、医院で点滴を打って貰うほどの腹痛に見舞われた。
その時の腹痛は、自分の賎しさから招いたもので、自業自得でもあった。
その時以上に、痛い思いをしたのは、親指の爪を剥がした時だ。
剥がれかけた爪を、剥がしてしまった方が治りが早いと言われ、医者はほとんど麻酔もかけずに引き抜いた。
医院でしばらく痛みが引くのをまったが、まともに歩けなかった。
アパートにたどり着くのにも、かなりの時間を要した。
爪を剥がしたのは、渋谷駅の階段だった。
そのころ、表は藁で、裏は自転車タイヤの職人用の雪駄を履いていた。
以前夏場には大学に下駄を履いて通っていたのだが、さすがに満員電車の山手線ではまずいと思い、雪駄を履いていた。
飲んで帰る途中で、渋谷駅の階段を上る時に躓いて、思い切り親指を打って、爪を半分剥がしてしまった。
雪駄にはべっとりと血がついていた。
その時、実は大学院のω先生から、厳しいことを言われて、意気消沈して、
しっかりと階段を上れる状態では無かったのだ。
私は院の先輩と、ω先生と一緒に、飲んでいた。
かなと暮らし初めて3ヶ月ほど経った頃だった。
その時の会話はよく憶えていないが、おそらく先生に対して不遜なことを言ったのだと思う。
修士の身分で結婚して、ヒモのような生活をし始めた私は、良いように思われていなかったことも確かだった。
怒った先生は、「君は修士だけの約束でとったんだ」と語気を荒げて言った。
約束した相手は北山大学のα先生だろうことは話から分かった。
私のいた北山大学は八雲大学大学院の学閥下にあり、そこに院の出身者を送り込まれていた。
北山大学でお世話になったθ先生も学部は北山大で大学院は八雲大学だった。
教員を採用してくれる北山大学への見返りとして、私のような不出来な学生でも受け入れてくれたのだと直ぐ分かった。
私は、かなに駆け落ちまでさせて、博士課程に進むことを目指していた。
かなは「ムツゴロウの結婚記」を読んでいて、それを引き合いにその奥さんのように苦労しても良いと言ってくれていた。
私が畑正憲までとはいかなくても、立派な研究者になることが、駆け落ちさせた私の責任ともなっていた。
そんなかなの希望を打ち砕いてしまいそうに思えた。
どうすれば良いのか、どうかなに話せば良いのか、思いながら階段で躓いたのだった。
権威には逆らわず、面従腹背で、懇願するのが、最善の方法だっただろう。
ω先生に教えを請うて、博士課程にとってもらえるような修士論文を書けば良かったのだ。
ところが、当時の自分はそんな知恵も無く、ことも有ろうに見返してやると思ってしまった。
爪を剥がした痛みが、服従ではなく、反発心を生み、意地となってしまった。
かなのことを大切に思っていたなら、ひざまずいても、お願いするべきだったのだと、今では思える。
しかし、当時の自分にはそれができなかった。
そして、そのことが後にふたりの破綻を招く大きな原因となってしまった。
冷静に考えれば、ω先生以外にも、指導教官のγ先生もいたし、当時は博士課程の院生が主に修士の指導にあたっていた。
だから、先輩達のの口添えがあれば、博士課程への進学も不可能では無かった。
とにかく、良い修士論文を書くことが、大切だったのだ。
しかし、一年間バイトに明け暮れたつけは、本来2年のところ3年で修士を終える先輩と、同じようにするには最初から無理があったのだ。
だから、4年かけて修論を完成させれば良かったのだが、ω先生にますます疎んじられるような気がしていた。
だから、最後まで3年で修論を仕上げることにこだわってしまった。
それが、最大の失敗の原因だったと、後悔することになった。