残波野綾光

学生時代は、フェリーニ監督の「道」の主人公ザンパノと同じだと親友に言われました。元ロックバンド(アマチュア)のボーカルで、気ままに生きてました。仕事に就いてからはスナイパーと同僚から言われたこともありますが、今はアナーキーな水呑百姓でLet it beの暮らしです。

残波野綾光

学生時代は、フェリーニ監督の「道」の主人公ザンパノと同じだと親友に言われました。元ロックバンド(アマチュア)のボーカルで、気ままに生きてました。仕事に就いてからはスナイパーと同僚から言われたこともありますが、今はアナーキーな水呑百姓でLet it beの暮らしです。

マガジン

  • 花散りぬれど~part2~

    part1は恋人がそばにいたころを中心に描きましたが、part2は恋人がそばにいなくなってからのことを描きたいと思います。

  • 花散りぬれど~part1~

    恋愛、夫婦愛、親子愛、友情など、儚い恋や一途な愛、そして慈しみが、命を支えてくれるのかを綴って行きたいと思います

最近の記事

あの頃僕は若(BAKA)かった

私は、母親から生まれ年がイノシシなので、猪突猛進するのだと、よく怒られていた。 当然、干支が亥の人が、みんな猪突猛進型ではあり得ないだろうから、生まれ育った環境がそうさせたのだろうと思う。 父親ともぶつかりながら、大学や大学院までは何とかやっていけていた。 極めつけは、かなとの駆け落ちだった。 本当はその時点で守りに入るべきだったのだ。 かなとの暮らしを守るためには、それを助けてくれそうな人には、きちっと従うべきだった。 ところが、大学院時代の自分は、それとは真逆のことをして

    • 恋人夫婦

      かなと私は戸籍上は夫婦と言っても、今までのような恋人同士と変わりなかった。 そもそも、名古屋にいた時に、週末や休日には殆ど一緒に過ごしたのとあまり変わりはなかった。 私は東京では浅草が一番好きだったが、かなとも一緒に三社祭に出かけた。 小さな街の祭りしか知らなかったふたりには、その華やかさに圧倒された。 かなも仕事に慣れてくると、気持ちも落ち着いてきて、週末には少し足を伸ばして、日光や川越、長瀞などに日帰りで出かかるようになった。 なかでも忘れられないのは、8月にふ

      • ときめく香りと長い黒髪

        かなは別れる時に、結婚指輪と香水アトマイザーを私に返した。 結婚指輪はかなが東京に出てくる前に、安売りの販売会で買ったプラチナの指輪で、かなの指に合わせたものだった。 指輪は以前にも大学時代に安い銀製のものをプレゼントしていた。 教員採用試験で小田原でふたりで宿泊した時に、無くししてしまっていた。 かなが旅館に忘れたというので、わざわざ取りに戻ったが、無いといわれたものだ。 かなが東京に出てくる時に、結婚式は挙げられないので、せめて指輪でもと買った物だった。 しか

        • 3月14日生まれのあなたへ

          今日はホワイトデーです そしてあなたの誕生日です  遠い昔、あなたは私の誕生日に あなた自身を私にプレゼントしてくれました 遠い西の外れから 誰にも告げずに 夜行列車に乗って東京まで来てくれました 列車から降りてきて 私を見るなり プラットホームで泣き崩れるあなたを抱きしめ 言葉を失っていました   長い夜を通して あなたは 不安にふるえていたのでしょうね あの時 きっと一緒に幸せになれると 信じてくれたはずでした なのに あなたを 失望させてしまいました 結局

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        • 花散りぬれど~part2~
          14本
        • 花散りぬれど~part1~
          19本

        記事

          優しさは結婚と失恋に無関係?

          私は修士1年目から、博士課程の先輩である田淵さんのお世話になることが多かった。 田淵さんは、学部は慶応で、修士は北山大学、そして博士で八雲大学に入ったという、変わった経歴の持ち主だった。 北山大学にもかつてはいたこともあって、心やすく接することができたし、非常に後輩に対しては広く面倒見のいい人だった。 既に、修士の段階で結婚して、子供もふたりいた。 田淵さんは、奥さんの弟夫婦と同じ家の一階と二階に別れて住んで、家庭教師をしながら、家族を養っていた。 かなが上京した時

          優しさは結婚と失恋に無関係?

          剥がれた生爪がつまらぬ意地に

          私は大学時代に、大学の先生からビアホールでビールを飲まして貰い、調子に乗って飲み過ぎて、医院で点滴を打って貰うほどの腹痛に見舞われた。 その時の腹痛は、自分の賎しさから招いたもので、自業自得でもあった。 その時以上に、痛い思いをしたのは、親指の爪を剥がした時だ。 剥がれかけた爪を、剥がしてしまった方が治りが早いと言われ、医者はほとんど麻酔もかけずに引き抜いた。 医院でしばらく痛みが引くのをまったが、まともに歩けなかった。 アパートにたどり着くのにも、かなりの時間を要

          剥がれた生爪がつまらぬ意地に

          新宿西落合 ふたり暮らしの始まり

          ふたりで暮らし始めたところは、西武新宿線の新井薬師前駅から北に10分ほど歩いたところで、住所は新宿区西落合だった。 新宿と言えば、高層ビル街をイメージするだろうが、ふたりが住んだのは、落ち着いた住宅地だった。 近くには哲学堂があって、散歩に行って気晴らしするには良いところだった。 また、その傍には妙正寺川が流れていて、哲学堂付近では風情があった。 場所的には非常に良いところだったのだが、高い家賃が払えないので、風呂がなかった。 下には年老いた大屋さんが住んでいるし、

          新宿西落合 ふたり暮らしの始まり

          夜明けのプラットホーム

          かなも私も4月から一緒に暮らせることを信じて、耐えてきた。 ところが、いざかなが東京に移ろうとすると、親が反対し始めた。 かなの父親は、ふたりが電話で話しているのに割り込んできた。 私がこういう立場で「(娘を)くれというのか」と、電話で責めたててきた。 私は売り言葉に買い言葉で「(かなを)くれとはいっていない。」と突っぱねてしまった。 これは、自分は「くれ」という立場ではなく、かなが自分の意志で来てくれると言いたかったが、言葉足らずだった。 それを聞いた、父親はか

          夜明けのプラットホーム

          愛がいきづく場所

          7月になって家庭教師も紹介されて、宿直のバイトと掛け持ちで忙しい日々が続いて、体調を崩したりもした。 そんな中、奨学金つづいて授業料減免も却下されて、心が荒んでいった。 それでも、かなが神奈川県の教員採用試験の受験のためにやってきて、小田原で一緒に1泊だけ一緒に過ごすこともできた。 どういうわけか、かなと逢っていた時のことよりも、彼女が受験している間、小田原の海岸でぼうっと海を見ていたことを憶えている。 8月になってかなの母親が入院してしまい、当初泊まりがけで、私の実

          愛がいきづく場所

          東京 孤独との闘いの始まり

          私の東京暮らしは、中野駅から歩いて10分ほどの六畳一間の部屋から始まった。 神田川は近くには無かったが、近くに線路があって列車が通る音が聞こえていた。 非常に古い建物で、玄関で靴を脱いで上がり、風呂もなく、トイレも共用で小さなタイルの流しがついた、西側の日当たりの悪い部屋だった。 そのアパートには大屋のお婆さんがいたが、部屋を借りていたのは殆どが若い男ばかりということだった。 と言っても、私は他の住人の顔は殆ど知らないまま、一年で引っ越しした。 大学院は東急東横線の

          東京 孤独との闘いの始まり

          私の幸せは あなたと一緒につくる

          私は、思わぬ大学院の合格で、学資の算段をしなくてはならなくなり、悩んでいた。 自分の親からの援助が得られない以上、自分で工面せねばならない。 かなは当初から進学を応援してくれて、私を養う気でもいた。 その一方で、一人娘だったかなは自分だけが、唯一親の面倒が見られる人間だということが分かっていた。 ふたりで話し合った中で、私が婿養子になるということも案として出た。 私は4人兄弟の長男だったが、父が3男で苦労した経験から、兄弟4人を平等に扱おうとした。 そして、家を継

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          欧米化の終焉から滅亡へ

          日本人はエコロジカルな江戸システムを捨てて、近代化という名の欧米化にまい進した。 アジアの仲間を裏切って、脱亜入欧のとして、欧米人並みに扱われたり、日露戦争で勝って黄禍として警戒された。 そして、アジアで暴走していって太平洋戦争で、原子爆弾によって虐殺され無条件降伏を迫られアメリカに支配された。 日米安全保障条約のもとアメリカの従属国家となり、アメリカの言いなりになって経済発展させてもらってきた。 今回ロシアはかつてアメリカが日本を屈服させた核を脅しに使ってウクライナに攻め

          欧米化の終焉から滅亡へ

          心の絆

          今は教師になりたいという人が減ってしまって、教育委員会はなんとか人材を探すのに苦労している。 アホノミクスで教育現場が荒廃してしまうまでは、教員の人気は結構高かった。 私たちの時代は教員にそうそうなれるものではなくて、旧七帝大と言われる大学出でも高校教師になったりしていた。 かなの両親は共に小学校の教員であり、娘も教師になることを望んでいたので、かなが小学校の教員免許を取るというと喜んで援助してくれた。 これは彼女の計算によるもので、通信教育だとスクーリングの機会を上手く利用

          まさかの合格が苦難への道に

          今は大学院への進学はそう珍しくない。 特に理系では修士が当たり前のことになっている。 私たちの時代は、インテリで裕福な家庭は別だったが、文系の場合は採用試験に失敗した教職浪人は別としてそれなりの覚悟がいった。 当時は石油ショックの時代で、普通の就職も教員採用も難しかった。 私は4人兄弟の長男であり、親には弟たちの学費がまだ必要で、私に大学院までの学費を与える余裕などなかった。 親戚の叔父には大学院へ進学することで、親不孝者として強く叱られたりした。 しかし、両親には支援して貰

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          You Raise Me Up by AKOHT

          かつての教員仲間でつくったバンドのYoutube初挑戦の演奏です。少々音は外れていますが、なかなかできない練習を頑張ってしたので、よかったら聴いてみてください。

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          フィールドワークの日々

          私は大学1年の終わりには、先輩の班について奥三河のフィールドワークに出かけた。 その村のフィールドワークはもう終わるので、自分たちは新しいフィールドを探さねばならなかった。 奥三河で一緒に活動した私とヒトシを中心に、候補地選びをの下見が始まった。 最初の下見は、水窪町にある山頂集落だった。 因みに水窪町は、現在では浜松市になっている。 その集落は標高650mもの山の上にあり、当時はまだ自動車が通れる道を作っている最中であった。 集落を班員の車の運転で回ったのだが、細い道を転回

          フィールドワークの日々