【知られざるアーティストの記憶】第08話 性欲を性愛にアウフヘーベンしなくては
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第2章 入院2クール目と3クール目の間
第08話 性欲を性愛にアウフヘーベンしなくては
突然の彼からの問いかけに、マリはおそらく咄嗟にうまく答えられなかった。いつものように黙ってしまったか、
「それは、近所ですから……。」
というようなうやむやな言葉で流してしまった。
「私に執着しないでください。」
彼はうつむいたままでそう言った。
「ところで、あなたがやっている気功って、何か思想に基づいているんですか?」
と彼はまた別の質問をした。思想、と言えば思想に違いないが、医学、健康、美容のほか、魂や宇宙と言ったスピリチュアルに至るまで様々な文脈にわたっている。どうやら彼は「思想」に関心があるらしいが、その関心のポイントがつかめなかった。マリは気功の先生が言っていた一通りのうんちくをたどたどしく答えた。
「あなたのご専門は、なんなのですか?」
今度はマリが質問する番だった。
「え、私が何をしているのかって?……それは、言いたくありません。」
彼はマリとのコミュニケーションを拒むように目をそらした後、ふと、何かを覚悟したような顔をした。それを見逃さなかったマリは、
「よかったら、公園のベンチで話しませんか?ずっと立ち話でも疲れちゃうので。」
と、絶妙に彼を公園デートに誘った。
彼は少しキョロキョロと視線を泳がせてから、
「じゃあ、うちの玄関に腰かけて話しますか?」
と言った。
なんと、彼の家の玄関に上がらせてもらえる。マリは緊張せずにはいられなかった。
道路から彼の家に向かって、すぐ右隣には厳かで異国情緒な橋が架かっている。曲がり角に面した家の左側2面は大きなシャッターがずっと下ろされたままになっている。そこは、彼の両親がかつて肉屋さんを経営していたお店の名残であった。道路から見て右側面の道路側にある、橋の方向を向いた小さな戸口が玄関になっていた。踏み入れると長い土間スペースがかつて店舗だった納戸に続いていて、納戸に向かって右方向に、幅約一間ほどの、高さのある上がり框があった。そこを上がるとすぐにキッチンになっていた。
彼はその上がり框の右端に座り、居間から持ってきた座布団をその左端に敷いて私を座らせた。マリは自分にだけ用意された座布団を遠慮したが、彼は譲らなかった。二人の距離はその時の二人の心の距離にふさわしいくらい、離れていた。
彼は開口一番に、
「男と女だったら、セックスしたいだろ?」
と言った。
(え?セックス?この人はいきなり何を言い出すんだろう……?)
彼は自分が何者であるのか、何を考えているのかをマリに対して示すために、話の道順を頭の中で組み立ててから話し始めたようであったが、それにしても唐突なこの発言には、さすがのマリも心の中で大いに面食らった。
「その性欲を、性愛にまでアウフヘーベンしなくちゃいけないんだよ。そうじゃなきゃ芸術表現にはならない。」
彼は芸術というものに対する自分の考え方について言及しているのだった。
哲学は専門ではなかったが、自分を形成する若い時期には哲学を好んでいたマリにとって、「アウフヘーベン」という言葉は懐かしい響きだった。それはマリが子どもの頃に、やはり哲学好きだった父親から教わった言葉だった。そのおかげでどうにか彼の言っていることの意味は取ることができたが、それでもいくつかの「?」マークが取り残された。彼の話には、「ディダクション」「インダクション」という哲学用語もよく出てきて、なんだったっけ、とマリはこっそり家に帰ってから調べた。
この調子で彼は、聞き手の理解がちゃんとついてきているのかを気にかけずに、思いつくままに論理をどんどん飛躍させて一方的に話し続けた。この人はきっと、頭の回転が速すぎるんだろうな……。マリは目を見開いて彼の言葉を少しでも理解しようと努めたが、全く歯が立たず、理解率は無残にも二割程度に留まった。終いにはマリの頭は黒い煙を吐きそうになった。
「あのう、性欲を性愛にアウフヘーベンして、芸術表現をしてこられたから、あなたはパートナーを必要としてこなかった、ってことですか?」
とマリは口をはさんで、アウフヘーベンに話を戻した。
▽第09話