【続いてる写経 618日め】〜音のカタマリが意味をもつとき
ロシア語を勉強し始めたきっかけとして、「言語を学ぶ」過程って、どうすれば最もハードルが低いのかな?と試してみたかったことがあります。
ロシア語は言語の習得難解度としては、とても高いと言われていて、その難解な言語をどうやったら「ラク」な形で馴染んでいけるのかを試してみたかったのです。
それでまず最初に言語学習アプリのDuolingoで学び、文法などの知識は最低限で始めたのです。
ただ、ある段階に達すると、このままでは不可解な部分を残したままで終わってしまう、文法はやっぱり必要と思って、ちゃんと先生に習うことにしました。
そして最近改めて気がついたことは、本当に当たり前のことなんですが、
言語というものは、自分が言語として認識している音でないと、他は「ふにゃらら、ほにゃらら〜」という雑音と何ら変わりがないわけです。
先日ロシア語勉強がてらに『チェブラーシカ』を視聴していたのですが、
知らない音は、言葉の意味をわかっていないと、「言葉」として全く成立しないんだな、と改めて納得したのでした。
もし、「学習」に映画を使うならば、ロシア語字幕がないと全く役にたたないのです。ある程度聞き取れた〜という喜びはあっても、そこまで。
英語の学習においても、例えば英語放送を流しっぱなしにすることで、英語の世界に慣れよう、というアドバイスがありました。
が、この取組はリズムや語感は体得できるかもしれないですが、あくまでも慣れるだけ。
言語学習において、「意味がわからないものをずっと聴いていても無駄」と思います。
自分の言葉として、それを発するためには、
「意味を母語で認識する」ことができてないと、いつまで経っても不可能。
ただの音が意味をもって、頭の中で認識された時、初めて言語となるのです。当たり前だけど。
さらに音を聞き取れないと、話せない。これも当たり前。
かわいい『チェブラーシカ』の世界、、なのにアウェー感。
これを楽しむために「このロシア語の綴りが見たい」と切望したのでした。
しかし、世の中には「意味がわからなくても、音だけでOK」という世界もあります。
それはお経です。祝詞や、マントラや呪文です。
お経や祝詞やマントラというのは、「音」だけでいいのです。
わからなくても、聴いているだけで、真似して音を発するだけで、意味があり、ご利益があります。
般若心経はもちろん、観音経や、真言などは「音」だけで、十分なのです。
藤本宏人先生の本『365日のご利益大全』には、なんと366日分の呪文が載っている!
こんなにあるんですねえ。。
日々の大祓や般若心経の読経に加えて、この日々の呪文も唱えて開運しようっと。
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