【続いてる写経 920日め】〜「聖俗」はそもそも分離できないのよね
先日の高野山で感じたもやっと感を払拭すべく、宗教について改めて辛辣に考えている今日この頃。
おかざき真里さんの『阿・吽』(最澄さんと空海さんをモチーフとしたマンガ)も読み返してみました。
このマンガでもわかる通り、空海さんの場合は国から仏教の一宗派と認められるために、嵯峨天皇の心を掴み、祈祷で成果をあげ、東寺や高野山を布教の地として拝領してもらったのです。
お坊さんが生活していくだけでなく、経典を入手したり、お寺を造営したり、活動ひとつひとつに莫大な資金がいる。となれば権力者や有力者に近づいて、その基盤を固めるというのは必須。
要するに、お金と後ろ盾っていうのは宗教活動において無くてはならないものなのです。それは現代においても同じだとやっとのことで納得できてきました。
お寺の住職が有力政治家や、活躍中のスポーツ選手や、有名企業とお近づきになり、その人たちからお布施をいただくことは、活動資金を得るには必要なことと思えました。
檀家さんだけでなく、支持してくれる人がいてこそ、お参りに来てくれる人がいてこそ成り立つ。当たり前なんです。
でも、そこにお金の話が絡んでいると知ると、とたんに「生臭坊主」という言葉が頭に浮かんでしまうのですよね。
何かイヤーな感じがしてしまう。
その理由は、お金と宗教が絡んだ事件があまりにも多いからだと思われます。
特に新興宗教において、凶悪事件が起こった原因は「お金」。
宗教法人への法外なお布施を支払ったことで、家族崩壊、一家離散となった例は数多く、先頃も国家を揺るがす悲劇的な事件もあったばかり。
ただ、仏教や神道などそれなりの歴史がある宗教においては、”ちょっと違う”と信じておきたい。そんな自分がいることを改めて認識しました。
でも宗教成立の歴史に関係はなく、どの宗教もお金が絶対的に必要。
経済原理を理解して、お賽銭やご祈祷、お守りやお札の購入も、当該宗教法人への「経済支援」と思えばいいのです。自分が気持ちよくお金を支払えるか、対象を自分が選べばいいだけの話。ただそれだけ。
そうなると、願望を叶えてくれそうな宗教法人に、たくさん払いたくなっちゃうんでしょうね…。有名神社寺社のお守りとか買っちゃいますもんね。
金銭もだけど、人間の「欲」がなければ、宗教なんて結局続かないよなあ…。
何だか禅問答のように、考えがループしてますねえ…。ぐだぐだ。