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【続いてる写経 1767日め】大覚寺と北野天満宮の関係は?

『大覚寺展』のいけばな体験や、展覧会の展示内で言及されており、

大覚寺と北野天満宮が関係性が深い

ことを知りました。

一つは、目玉展示の刀剣、大覚寺所有の<膝丸>と、北野天満宮所有の<髭切>が同じ作刀家によって作られた”兄弟刀”であること。

ちなみに、<膝丸>と<髭切>の由緒や、変遷をまとめた図をみてびっくりでした。

<膝丸>が”薄緑”と一時期呼ばれたのは、源義経が”熊野から春の山々を分けて出てきた”刀を受け取ったことに由来するそうです。

義経って聞くと、非常に”伝説”めいて聞こえるのはワタシだけ?

こちらの記事、刀剣マニアの記者の方が書かれていて、非常に勉強になりました。

とにもかくにも、日本史上の超有名人が所有してきたすごい刀だったわけですね。
無知って恐ろしいわ
次に行くときは心して眺めますわ。

そしてもう一つの二社の関係性。
嵯峨離宮が”大覚寺”の寺格を得たときの立役者が、北野天満宮に祀られている菅原道真公だったこと。

大覚寺は、嵯峨天皇が建立された離宮嵯峨院を起源とし、お孫さんにあたる恒寂入道親王を初代門跡(住職)としてお寺に改められましたが、この方、実は順当にいけば天皇になられるお立場だったんです。それが、承和の変に代表される藤原一族の政争に巻き込まれ、ついには皇太子の身分を廃立されお命の保証までない、という立場に追い込まれました。亡き祖父の嵯峨天皇・父の淳和天皇の期待を一心に受け、幼少の頃よりそれに応えておられた立派な親王でした。母の淳和太后がこの出来事に対していかに落胆されたか、不運な我が子の最後のよりどころとして、父の嵯峨天皇がこよなく愛された嵯峨の離宮をお寺にし、息子である親王を守ろうとされたのです。それに尽力されたのが道真公で、離宮を大覚寺にするべく上奏文を起草されました。そうして無事、勅許を得て「大覚寺」が誕生し真言宗の寺院として再出発したのです。

https://www.daikakuji.or.jp/about/story_tenjinshima/

要は政争に巻き込まれ、皇太子の座を追われた恒寂入道親王(嵯峨天皇の孫)を守ろうと、その母・淳和太后が旧嵯峨院をお寺にしようとした。
そのための上奏文をしたため、尽力したのが菅原道真公だったというわけ。

道真公もその後京都を追われてしまうのだから、恐るべし藤原氏。

大覚寺の大沢池にある天神島は、道真公をお祀りしたもの。
でも、それだけではないらしい。

道真公を天神島にお祀りしているのは、大覚寺誕生の為に上奏文を起草し尽力した功績に依るから、と考えるのが妥当ですが別の理由があるという伝えがございます。なんと、この天神島は悲運の初代門跡恒寂入道親王・淳和太后母子の墓所であるという説です。
(中略)
大覚寺創建にあたり上奏文を起草し、俗別当(俗人身分のままで寺院統轄の責任者)にまでなった道真公の霊を祀るかたちで天神島には祠(ほこら)があるけれども、これは母子の怨霊を、最後は左遷され波乱の生涯を閉じ怨霊の権化と言われた「菅原道真」公の怨霊で鎮めること、すなわち、「毒をもって毒を制する」意味ではなかったか、という観点からも想像できます。

https://www.daikakuji.or.jp/about/story_tenjinshima/

天皇の地位を追われた恒寂入道親王・淳和太后母子の怨霊を、道真公の怨霊で鎮めている説です。

いや〜、すごいですね。

怨霊の存在を認めて利用する。なんともしたたかな話でございます
誰が考えたんだろうなあ、陰陽師?

そうなると、後世集まった”兄弟刀”が、この二社に所蔵されているのも、
当然の成り行きのようにも感じられてきます。

怨霊だけでなく、刀剣もまた意思をもって落ち着くべきとこに落ち着いたよのか。

道真公のご加護を受けたい人は、大覚寺にも足を伸ばすといいかもしれませんね!



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