【続いてる写経 525日め(楷書)】〜”間宮海峡”は浸透してたのか?
むむむ、新しくできた国立アイヌ民族博物館@北海道で、この夏『ゴールデンカムイ』展をやっていたのか。。残念、もっと早くに知っていたら、行ったかも?(でも、さすがに飛行機乗って北海道はためらわれたかな。。)
中盤以降、同作品の舞台は樺太になるのですが、北海道内のアイヌと異なる樺太アイヌや、ウイルタ、ニヴフという少数民族もでてきて、樺太は日本人よりも他民族が暮らす島だったことがよくわかります。
樺太といえば、ここを探検し樺太が島であることを確認した人物が間宮林蔵。その発見は1808年とされます。
ちょっと前に吉村昭氏の『間宮林蔵』という小説を読んで、どのようにして海峡を発見したかが描かれています。調査にはアイヌや韃靼人の協力を得て行われていたようです。
間宮林蔵が作成した地図、当時は幕府により厳しく管理されていましたが、これをちゃっかり国外へ持ち出したのが、オランダに出入りしていたシーボルト。(いわゆるシーボルト事件ですね)
シーボルトは日本で得た見聞をまとめて『ニッポン』という本を出したそうで、この中で大陸と樺太間の海峡の存在を世界で初めて発見した人物として、間宮林蔵をで紹介したのでした。
そしてシーボルトによって彼の功績を称えて、ユーラシア大陸と樺太の間が「間宮海峡」と名付けられたそうなんです。
なんとも皮肉なことに、国外に持ち出されたからこそ認められたんですねえ。。
ですがその後もしばらく、海峡の存在はヨーロッパには浸透していなかったようです。
「間宮海峡」の名が不動のものとなったのは、掲載されたのは1881年のフランスの地質学者エリゼ・ルクリュの『万国地誌』に紹介されたことによるそうです。
また、間宮林蔵は、ユーラシア大陸側も探検しており、アムール川を河口からのぼっています。この辺りを探検した初めての日本人でもあったわけです。
どんな民族がいて、どんな気性でってことが語られていて、謎に満ち溢れた蛮族いっぱい出てきて、ここの描写、特に山丹人怖いんですよ。。
命懸けの旅になぜでかけられたのか、何が彼をそこまで奮い立たせたのか。
あくなき探究心の賜物だったのでしょうか。
『ゴールデンカムイ』でも”間宮海峡”が出てきます。この話は20世紀初頭の設定なので、”間宮海峡”と日本人の名前がついた海峡の名前を、一般の日本人が認識していたのか、、ちょっとわかりませんが。
こっちの主人公たちは金塊目掛けて命懸けですが、その目的が直接「金」だけでないところがポイント。(白石くんは「金」だけかな)
各人の大義と思惑が交錯して、、最後はどんな決着がつくのでしょうか。。
楽しみだなあ。。
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