兵站と給養
【前編】
※本稿は執筆途中です。前半部分のみを【前編】として公開しています。2024年9月17日現在
序
言葉は、時代や場面によって意味も用法も変わるものです。「兵站」という言葉も例外ではありません。
今日、日常会話や特定の業界用語において「兵站」をロジスティクスと同じ意味で用いたり、後方支援なり、物流管理なり、漠然と物資一般の追送なりといった分野や機能を表す言葉としてイメージしていても、その場面で意思疎通ができていれば問題は生じません。
とはいえ、歴史上の物事、特に19世紀後半から第一次世界大戦頃までの軍事史を叙述する際には、この言葉の使い方に注意する必要があるように思います。
当時、兵站という日本語はヨーロッパ各国軍の特定の用語、特にドイツ軍におけるEtappe(複数形Etappen)の訳語であるとともに、それを範とした国内の対応物の名称でした。
その国内兵語及び外国語の訳語としての意味や用法は、上記で例示したようなものとはだいぶ異なります。
今日では「兵站」を当時とは違った意味で使うのだから、現代人が叙述する際には気にする必要はないという意見もあるでしょう。
また、通俗的には、この時代であっても上記で例示したような現代的な?意味合いで使用されることもあったようです。
試みに国会図書館デジタルコレクションで「兵站が」という字句により検索してみると、20世紀の初頭においても、次のような文章が見つかります。
「充分な兵站がなければ」、「兵站が続かない」といった言い回しです。
※注1
しかし、それは口語や市井においてのことのように思われます。
当時の公式な軍隊のマニュアル、規則、研究、戦史叙述などの記述が文中で引用されている場合、あるいは読者が当時の語の意味を承知している場合、断りなく現代の著者の言葉遣いと入り混じっていると、誤解が生じる可能性があるのではないでしょうか。
これは、ある意味、この時代に特有の注意点かもしれません。
18世紀以前に遡るヨーロッパにおける兵站の起源や漢字の字義といった概念的な定義論を問題としているわけではないからです。
これより以前の時代を叙述する場合には、当時の日本側に対応する存在がないため、現代の用法又は当時の言葉の訳語として使用していることが明らかですので、誤解が生じる可能性は低いでしょう(適切かどうかはともかく)。
さて、前置きが長くなりましたが、本稿では当時の兵站という言葉について注意すべきポイントから始めて、給養という別の用語を紹介することで、概念と言葉の問題を考えてみたいと思います。
もちろん、時期や国によって制度や名称の詳細は異なりますので、ざっくりと一般化した話だと思っていただけましたら幸いです。
1.兵站とは
まず、当時の兵站及び兵站を付した語は、戦略や戦術と並べて語るような抽象的な概念、分野や機能というよりも、対象に物理的な存在(施設・機関)や空間領域のイメージが付随するものだと意識しておく必要があるでしょう。
19世紀前半において、兵站(Etappen)とは、軍隊が進む道路において区間ごとに設置された、給食・宿泊等のサービスを提供する場所・施設を意味しました。
1833年に制定され、その下で普墺戦争までプロイセン軍が戦うことになる戦時兵站事務規則(Regulativ über das Etappen-Wesen zur Zeit des Krieges)は、次のように定めています。
この原義は、19世紀後半以降、様々な派生語を伴った複雑な概念として拡張されていっても基本的には残りました。
鉄道や電信のネットワークと組み合わされ、中央官制の下での命令系統に基づいて組織化された近代的兵站制度は、普墺戦争と普仏戦争の経験により発展し、改良されて成立します。
その刷新された規則に基づく大規模な組織と技術的な管理体制は、軍路と施設からなる前代の兵站組織とは懸絶した存在であるように思われがちですが、その基礎となる観念は、あくまでも前代からの延長線上にあると言えるでしょう。
普仏戦争後の1872年に発布された「戦時の兵站及び鉄道事務、並びに野戦経理、野戦衛生、軍事電信、野戦郵便事務の上級管理に関する教令(Instruktion, betreffend das Etappen- und Eisenbahn-Wesen und die obere Leitung des Feld- Intendantur-, Feld-Sanitäts-, Militär-Telegraphen- und Feldpost- Wesens im Kriege)」においては、次のように組織や任務が規定されています。
官制や命令系統、鉄道の管理体制など細目は漸次修正が加えられていきますが、この基本的な体系は、20世紀に至るまでドイツ軍の戦時兵站勤務令(Kriegs-Etappenordnung)において踏襲されていきます。
その主要事項の概要について、原著1905年刊行のシェルレンドルフ(息子)『参謀要務』(明治43年訳版 後篇 pp.488-498)は、次のように解説しています。
簡潔な要約としては、1908年版の野外要務令の付録(29ff.)が分かりやすいと思います。
上記を一見して分かるとおり、兵站(Etappe、Etappen)という語を単独で用いる場合は限られており、細分化された意味ごとに、それぞれ複合語を用いて表現されています。
したがって、兵站の事項、事務(業務)、制度、組織はEtappenwesen、勤務(サービス)はEtappendienstとなります。
場所を表す場合でも、兵站地(Etappenort)、兵站主地(Etappenhauptort)などと区分して表されます。
そして、兵站の語を単独で用いる場合には、やはり従前からの語義に近いイメージで使われています。
1901年刊のH. Frobeniusの軍事事典(p.188)は兵站を基地、又は1区間の行軍行程を意味するとしています。
また、同様の意味とされる兵站地という語は、防衛施設となる宿泊場所のことだとされています(p.189)
実際の用例においても、抽象的な、あるいは地名と結びつくなどした具体的な兵站地を表す場合が多いようです。
例えば、以下のように使われています。
ただし、抽象的に兵站組織などを総称して使用していると思われる用例もあります。
しかしながら、兵站で行われるサービスの分野や機能というよりは、やはり物理的な実体をもった存在としての組織のイメージが付随している印象を受けます。
そして、ドイツ語の翻訳から始まった日本の兵站という語もまた、当初はその用法を踏襲していたように思います。
フランスやドイツの操典・要務令などの翻訳から生まれた多くの日本の兵語は明治20年代初めに固まりましたが、その当初、兵語の使用においては西洋語の対訳が常に意識されていました。
兵語において西洋語からの来歴が忘れ去れるようになるのは、日露戦争後にわが国独特の兵学・兵術が強調されるようになってからのことだと思われます。
cf. 前原透「クラウゼヴィッツ『戦争論』の読み方(その4)」『陸戦研究』平成10年4月号, 1998, p.63
例えば、参謀本部と陸軍省が「出師準備」の呼称を明治19年には「動員計画」、明治26年には「動員」と改めるかどうかを協議するに当たっては、フランス語の「mobilisation」の訳語や意味との一致が論点となっています。
この議論には、ドイツ語の「Mobilisation」の翻訳も影響を与えています。既に明治14年に陸軍文庫訳により刊行されたブロンサルト・フォン・セルレンドルフ(父)『独乙参謀要務』では「Mobilisation」に「出師」の訳を当てていますが、これは本邦の従来の出師概念を廃棄し、ドイツ的な「Mobilisation(=動員)」の意味に限定・特化する動きを示しているのではないかと言います。
cf. 遠藤芳信『近代日本の戦争計画の成立 : 近代日本陸軍動員計画策定史研究』2015, 438f.; 609f.; 739f.
つまり、明治時代にあっては、外国語やその訳語と本邦の相当物の名称の一致・不一致は、揺籃期にある日本の軍事機構における制度設計や運用そのものを実際に左右しかねない重大事でした。
このことは、兵站という語の成立においても同様に考える必要があるでしょう。
片岡徹也 編『軍事の事典』(p.238)は、戦前の外国語対照の兵語辞典では Logistics ではなくドイツ語のEtappeに兵站の訳語が当てられているとし、明治14年の『五国対照兵語字書』では「軍駅」(英訳はHalting-placeとしている)であった訳語に代わり「兵站」が定着していくのは明治18年のメッケル来日以降だと述べています。
メッケルから日本陸軍は後方勤務について学び、関連する用語を確立していったと言います。
cf. この経緯の詳細については、前原透「戦史こぼれ話(106)兵語の変遷(2-1)」『陸戦研究』昭和57年2月号, 1982, 99f.も参照のこと。
確かに、明治22年訳刊のメッケル『戦時帥兵術』巻1(69f.; 73f.)は各国の「兵站事務」を解説しており、「兵站監部」、「兵站所」(後の兵站地)、「兵站本地」(後の兵站主地)といった訳語が見られます。
また、伝説的なメッケルに纏わる兵站の逸話については、昭和17年刊行の宿利重一『児玉源太郎』(198f.)が次のように述べています。
とはいえ、細かく言えば、兵站という訳語の成立はメッケル来日以前に遡るようです。
既に、明治14年訳刊のセルレンドルフ(父)『独乙参謀要務』後編五・六(陸軍文庫)において、原著のEtappenwesenや複合語内のEtappenに対して兵站の訳語が当てられています。
また、法令上の初出としては、同じく明治14年の「陸軍戦時編制概則」に「兵站の便宜に従い運輸支部を置くことある可し」といった記述が認められます。
cf. 遠藤芳信『近代日本の戦争計画の成立 : 近代日本陸軍動員計画策定史研究』2015, p.441.
『軍事の事典』によれば「站」という漢字には「たたずむ、しばらく立ちどまる。馬つぎ、宿場、停車場」の意味があります。
もともと、漢籍における兵站の出典は明代の『元史』 に遡り、「軍が防衛や資源調達のために本拠地から離れた地点に設置された拠点」という意味があったようです。
幕末から明治初期にかけて漢籍由来の日本語として兵站の語が既に使われていたのか、使われていたとしたらどのような意味であったのかは残念ながら調べがつきませんでした。
ただ、台湾出兵から日清戦争期にかけての状況を伝える記録としては、落合泰蔵『明治七年 生蕃討伐回顧録』に「出師準備の熟語も珍らしく感じ居ったほどで、況んや兵站の熟語は聞いたこともない」(pp.148-149)との記述があると言います。
cf. 遠藤芳信『近代日本の戦争計画の成立 : 近代日本陸軍動員計画策定史研究』2015, p.825
漢語由来の語として使われていたとしても、一般的な言葉ではなかったのではないでしょうか。
いずれにせよ『軍事の事典』の記述のとおり、兵站という語は明治20年代にはドイツ語のEtappen(オーストリア等ではEtapenとも綴る)の訳語及びその国内対応物の名称として定着していました。
同時に、フランス語においても、明治20年の『仏和陸海軍術語字彙』になるとEtapeの意味を「行程、兵站、次舎、一日行程」としており、兵站の訳語が当てられています。
明治21年の『兵語字彙草案』巻之1(p.21)は、次のようにドイツ軍と同様の意味で使用しています。
この書物には兵站という語単独での項目はありません。
明治21年刊の『陸軍経理学教程』第10章(17f.)、同21年刊の陸軍文庫 訳『仏国陸軍制度教程書』第3編 巻之1(pp.44-69)、同25年『陸軍経理要領』第1巻(pp.57-63)においても、例えば「兵站事務」といったように、既に後の時代とほぼ同じ語彙が用いられています。
これらにおいて、兵站の語を単独で使用している箇所は稀であり、わずかに「兵站の倉庫より」(『陸軍経理学教程』第10章p.17)、「獨逸國兵站にて理すべき任務を左に列挙して〜」(『仏国陸軍制度教程書』第3編 巻之1, p.46)といった用例が見られます。
上述のセルレンドルフ『独乙参謀要務』の改訂版の翻訳である明治43年刊のシェルレンドルフ(息子)『参謀要務』後篇ではEtappenwesenを兵站とだけ訳すのではなく「兵站勤務」と複合語を意識して訳していることからも(p.488)、兵站及びその関連語の意味が区分され、訳語が固まっていく様子が窺えます。
明治23年には前述の1872年版「Instruktion, betreffend das Etappen- und Eisenbahn-Wesen und die obere Leitung des Feld- Intendantur-, Feld-Sanitäts-, Militär-Telegraphen- und Feldpost- Wesens im Kriege」が『明治23年翻訳 ドイツ兵站勤務令』(文章表題「戦時兵站鉄道事務教令及野戦監督野戦衛生陸軍電信野戦郵便事務の最上統括」)として翻訳されました。
cf. 遠藤芳信『近代日本の戦争計画の成立 : 近代日本陸軍動員計画策定史研究』2015, p.825
前述の伝説的な逸話では明治27年の日清戦争開戦直前に公布された兵站勤務令がメッケルに聴いてようやく出来上がったとされていますが、実際には翻訳などの調査研究を伴い、時間をかけて原案の作成が進められていきます。
明治23年の「戦時編制書草案」は、第ニ篇「大本営」、第三篇「軍」、第四篇「師団」に続いて第五篇で「兵站部」について定めています。
その第十八章「兵站司令部」の第五十六において「其他は兵站勤務令第二十九章を参看すべし」とあることから、明治23年時点で既に兵站勤務令草案が起草されていることが分かると指摘されています。
cf. 遠藤芳信『近代日本の戦争計画の成立 : 近代日本陸軍動員計画策定史研究』2015, p.729, 781
その後、明治24年「兵站勤務令案」を経て、明治27年の兵站勤務令に至るわけですが、制定が遅延した理由は制度全体の設計に関する作業上の進捗によるものではなく、原案の海運事務に関する規定に対して海軍が難色を示したからでした。
その制定なくして「戦時陸軍の運動一歩も自由ならず」という参謀本部の焦燥から、海運事務に関する部分を除いて急ぎ裁可・制定に漕ぎつけたのです。
cf. 遠藤芳信『近代日本の戦争計画の成立 : 近代日本陸軍動員計画策定史研究』2015, 781ff.; 825ff.; 前原透「戦史こぼれ話(106)兵語の変遷(2-1)」『陸戦研究』昭和57年2月号, 1982, p.101
平時と戦時が分化し、後方の兵站が特設される外征に対応したドイツ式の兵站制度に切り替わっていく過程は、そのまま兵站という訳語及び国内兵語の出現・定着と重なっていると言えるでしょう。
従って、制定された兵站勤務令は、本邦の実情に合わせて咀嚼・適応しているとはいえ、本質的にはドイツ軍における戦時兵站勤務令によく似たものとなっています。
アジア歴史資料センターHPで閲覧できる明治33年改正版から一部を引用してみます。
ドイツの戦時兵站勤務令等と同じく、この兵站勤務令にも兵站という語そのものの定義は見当たりません。
また、やはり兵站という語が単独で使用されている箇所はあまりありません。
目につく用例としては、「第二篇 兵站一般の要領」の「第十一章 兵站の任務」に次のような文章があります。
ここでの兵站の語は「〜する」という任務の主体ですので、前述のシェルレンドルフの邦訳のように、兵站部又は兵站組織(Etappenwesen)の略称の意味で用いられているのでしょう。
第三篇の題目をはじめ、随所に兵站事務や兵站業務という表現が見られますので、分野や機能を兵站の一語で表したものではないように思われます。
前原透「戦史こぼれ話(106)兵語の変遷(2-1)」(101f.)は、広義の兵站は兵站勤務令に記述されている「後方勤務」全部であって中央兵站統括機構を含み、狭義の兵站は「「站」の字義である「宿駅」「停車場」それに「駅站」に直結するもので、兵站勤務令草案で「兵站ハ本国即チ師営ト作戦軍背後トノ連絡ヲ保持ス」と定義しているもので、「兵站部」の行う「兵站事務」である」と区分しています。
cf. 前原透「戦史こぼれ話(106)兵語の変遷(2-1)」『陸戦研究』昭和57年2月号, 1982.
狭義の兵站が兵站部ではなく兵站事務のイメージなのかという点については、Etappenと組み合わされたWesenやDienstのもつ意味の幅の広さとも関連して一般論として確定するのは難しいと思います。
しかし、少なくとも部、事務、業務といった語を付して意味を細分する以上は、記載項目全体の標題として用いるような場合でない限り、兵站の語単独には「駅站」のイメージが残存していたことは窺えるでしょう。
この時期の書物としては、明治33年刊行の雲外居士『基本戦術摘要解義』第4巻(p.270)が、明確に兵站とは機関であると述べています。
したがって、やはり日本でも当初は字義のとおり兵站という語自体には施設・場所や機関のイメージが色濃く投影されており、一語をもって抽象的な総称として使用する場合でも兵站組織(兵站部)としての実体的存在を指していることが多いように思われるのです。
この日本とドイツにおける兵站という語の用法の近似は、第一次世界大戦頃まで続きました。
大正3年、第一次世界大戦の勃発直前に出された陣中要務令には本篇の第十五篇として野外要務令にはなかった兵站の概説が初めて収録されましたが、規定、用語などは一部異同はあるものの、概ね明治以来のスタイルに沿った内容となっています。
一方、アジア歴史資料センターで閲覧できる大正10年付けの統帥綱領の写し(大正7年版?)では、兵站という語のみで施設とその「運用」を総称するとされており、より現代的な意味に近づいているように見受けられます。
この文言は、大正11年に出された兵站綱要にも引き継がれています。
また、「二、兵站の適否は、〜」、「四、兵站の業務は、〜」と続くように、兵站の一語をもって使用される頻度が多くなっており、したがって意味も拡大、抽象化している印象を受けます。
昭和5年の兵站綱要においても、言い回しは多少変わりますが、同様です。
したがって、統帥参考(昭和7年)においても統帥綱領(183)に類似の表現が用いられています。
もっとも、一般向けの書物ではありますが、昭和7年刊行の永田鉄山 『新軍事講本』 (p.137)のように、かなり後になっても兵站を機関としている記述を見かけます。
同様に、平易な解説書においては兵站を「施設と運用」の総称ではなく単に「施設」の総称としている事例も見受けられます。
例えば、奈良聯隊区将校団による昭和3年刊の『戦時後方勤務ノ概要』(p.2)は、次のように説明しています。
したがって、本邦における兵站の語感やイメージに関して言えば、第二次世界大戦における敗戦まで当初の雰囲気を引きずっていたように思います。
実際問題として、兵站組織の概念上の骨格や用語の体系は明治以来のものが残っていたからです。
昭和14年の作戦要務令 第三部に掲載されている兵站の概説は、冒頭における兵站組織の任務に関する書き出しが「兵站の主眼とする所は」となっており、陣中要務令の「兵站勤務は主として」という言い回しに比べると兵站という語の用法がこなれている印象を受けますが、業務内容や兵站線とその構造については、少なくとも理念上の根本的な変化があるようには見えません。
これが一変したのは、敗戦を境に系統を異にする米軍の概念が導入されたことによるものでしょう。
1964年刊行の『兵站概説』(防衛研修所)は、冒頭において次のように論じています。
ここにおける機能、本質、思想といった観点と、本稿において述べてきたような19世紀的兵站という言葉のイメージの間には、異質といってよい感覚の差異が横たわっているように思います。
具体的な物理的実体を離れ、純化された抽象的な概念・思想として、兵站という語は第2の人生を歩み始めたと言えるのではないでしょうか。
これは、兵站の歴史からすると感慨深く思われます。
というのも、本家であるドイツ軍においては、第一次世界大戦中の1918年以降、兵站(Etappe)や兵站制度(Etappenwesen)という語は使われなくなり、第二次世界大戦後には言語慣用から姿を消したとされているからです。
前線勤務と兵站勤務の状況の差異から生じた隔意により、 兵站雄馬(Etappenhengst)、兵站豚(Etappenschwein)のように否定的な意味を帯びて用いられるようになったからだと言います。
cf. ドイツ語版Wikipedia「Kriegs-Etappenwesen」
https://de.m.wikipedia.org/wiki/Kriegs-Etappenwesen
本邦における兵站という語は、第一次世界大戦後にはドイツ兵学との対照という翻訳語としての意味を失って独自の道を歩み始め、第二次世界大戦後には米軍のロジスティクス思想に影響を受けた新しい意味で生まれ変わり、今日に至るまで使われ続けているのです。
2.兵站の範囲
さて、それでは、なぜ兵站という語に施設・場所や機関のイメージが強かったことに注目すべきなのでしょうか?
それは、管轄など空間的な範囲が限定されることに繋がるからです。
野戦軍及びその後方は、3つの領域に区分されます。
まず、野戦軍の管轄が作戦領域と兵站領域に分かれます。
第1の作戦領域は作戦中の諸部隊によって占められる地域であり、第2の兵站領域はその後方に置かれる野戦軍の移動性兵站機関の管轄地域(兵站管区)です。
さらにその後方に位置する、本国内又は占領敵地に置かれる総督府内が第3の領域となります。
そのうち、兵站組織が関わるのは、兵站線の及ぶ野戦軍の兵站領域から本国内の策源(ドイツでは軍団管区、日本では師管)までの範囲となります。
P. H. von Wellenhof(p.4)が普仏戦争におけるドイツ軍の戦時給養についてオーストリア軍に行った1878年刊行の調査報告『Die Feld-Verpflegung im deutschen Heere. Dargestellt nach den Erfahrungen im Feldzuge 1870/71 und im Vergleiche zu unseren Einrichtungen』は、次のように概説しています。
また、昭和15年刊行の国防科学研究会 編『独逸の戦争論』(p.173)は、次のように解説しています。
日本の兵站勤務令では、前述の引用のとおり、第十二章 第三十八において兵站線路及び兵站管区の所管を「作戦の影響する部分」と「作戦影響地外の部分」に区分しています。
前者が兵站領域、後者が本国又は総督府管轄領域に相当します。
大正7年刊行の原田政右衛門 編『大日本兵語辞典』 (p.649)は、次のように解説しています。
これまでの各引用からも分かるように、兵站組織の任務や管轄は、鉄道・電信・衛生のような技術的専門分野の詳細は別として、総論としては野戦軍の後方を遊動的に追従して本国との連絡を維持する移動性兵站機関を主な対象として記述されています。
本国中央、兵站統轄部から野戦軍に至る指揮命令系統にも属しているとはいえ、近代的兵站制度における現地実務のイメージは兵站領域が主であると言えるでしょう。
ここで重要なのは、兵站領域となる兵站管区が野戦軍の作戦領域の「後方」から始まる点です。
作戦領域自体も往々にしてかなりの空間的な広がりをもちますから、前線の兵士たちのすぐ背後から兵站領域に接続しているわけではありません。
このように空間的な管轄区域であるということは、特定の機能や分野に限定しずらい性質を帯びることになります。
兵站領域で活動する兵站部の任務は本国又は占領地総督管轄区域までの兵站線を機能させることですので、区域内の大抵の物事を扱うことになります。
したがって、担当業務が多岐に亘ります。
上で引用した様々な日独の規定にあるとおり、人馬物件の前送・後送、通行人馬の宿泊・給養、後方連絡線の確保、民政などです。
具体的には、糧秣・車両等の現地調達、鉄道・電信・兵站倉庫、病院などの運用と施設設備の維持管理、作戦領域と本国等を往来する人馬への宿泊場所・食事・衛生看護の提供、物資輸送、守備・警備といった具合です。
民政や守備の責任も負っている辺りは、兵站勤務の幅広いイメージをよく表していると思います。
19世紀の近代的兵站制度は、フランスが1807年にバイロイトに設置した行軍路の給養所としての兵站に補充兵の訓練を兼ねた守備隊を配置した武装兵站システム(bewaffnete Etappensystem)と 倉庫システム(Depotsystem)を組み合わせたものから発展したという一面があります。
cf. 『Handbibliothek für Offiziere oder populaire Kriegslehre für Eingeweihte und Laien』第7巻(1828年), pp.49-51.; Hans Eggert Willibald von der Lühe 『Militair-Conversations-Lexikon』第2巻(1833年), p.662
さらに、普仏戦争では占領地域における兵站線の守備が課題となり、義勇兵や別動隊の対処としてかなりの兵力を割かれるようになったことから、ドイツでは小戦に対する関心が高まりました。
1871年の休戦時において、野戦軍の戦闘部隊の歩兵と兵站地で後方警護にあたる兵站部隊の歩兵の比率は4対1近くに達しています。
cf. バルク『巴爾克戦術書』邦訳18巻, 149ff.
カルヂナール・ウヰッデルン『小戦及兵站勤務(Der Kleine Krieg und der Etappendienst)』のような書物の題名の付け方にもそうした感覚が滲んでいると言えるでしょう。
兵站監の下で各兵站地に置かれた兵站司令官に求められる人物像について、ウィリアム・バルク『巴爾克戦術書』(邦訳18巻, p.188)はウヰッデルンの兵站勤務に関する著作を参照しつつ、次のように記しています。
日本でも、兵站部が輸送や給養といった業務以外も扱っているというイメージは意識されていました。
明治42年刊の『軍隊辞典』野外要務令編は、野外要務令の条文ごとに、出てくる熟語に平易な意味をカナで付した興味深い書物ですが、兵站部に「センリヤウシタトチヲヲサメルヤクシヨ(占領した土地を治める役所)」(p.118, 123)、兵站管区内に「ヘイタンブガウケモチノバシヨ(兵站部が受け持ちの場所)」(p.123)という面白い意味を載せています。
とはいえ、冒頭で例示したような「兵站」に纏わる様々な言い回しが生まれる素地はあったわけですから、業務範囲が広いからといって、それだけでは現代の読者は混乱しないでしょう。
最も重要なポイントは、調達、輸送、電信、衛生といった業務の分野や機能自体は、兵站のみが扱う固有のものではないことです。
つまり、作戦領域において兵站領域と類似の活動があったとしても兵站という語は用いません。
例えば、戦地の糧秣の調弁や配給に関して言えば、作戦軍の経理部の経理部長とは別に兵站部には兵站経理部長が存在します。
兵站管区の末端である兵站末地から最前線の兵士までの道のりはまだまだ続きます。
例えば、『戦略戦術詳解』第1巻(152f.)は兵站末地について野戦軍から15〜18里、大行李から12里という目安を示し、野戦軍から2日行程後方であるときは好都合だと述べています。
この間の糧秣の輸送、野戦倉庫の設置と集積、大行李への補充や兵士への配給、徴発や購買を行う場合には調達までの、現代人であればロジスティクス史や「兵站」史の対象に含めるであろう活動であっても原則として兵站事務ではないのです。
軍の糧食縦列や部隊の行李といった輸送隊からして、兵站部の管轄下で兵站線を往来している兵站輸送機関とは別の存在です。
このことは、(後方)連絡線と兵站線という用語の差異に着目すると明確に理解できます。
兵站線は、よく連絡線と同一視されることがあります。
e.g. 『兵語之解』明治43年, 52f.; バルク『巴爾克戦術書』邦訳18巻, p.143
しかし、理論上は微妙に異なります。
明治44年刊行の『戦略戦術詳解』第1巻は、それぞれ次のように解説しています。
兵站線は兵站末地から師管(ドイツでは本国の軍団管区)までの具体的な機関の脈絡であり、連絡線は兵站線を包摂して重なることがありますが、より抽象的な用語であることが分かります。
戦略・戦術の文脈において脅威や遮断を論じる際に用いられる語が主に連絡線であることからもニュアンスの差異が認識できるでしょう。
この相違は、明治33年刊行の雲外居士『基本戦術摘要解義』第4巻においてより明確に論じられています。
上記で言うところの「作戰軍よりAに至る間」は兵站線には含まれないけれども連絡線の一部として戦術的価値を有するという問題は、明治42年刊の安西理三郎 編『是でもわからぬか : 原則問答』第3集(64f.)において更に明確に示されています。
鉄道を除いて機械動力による運搬手段が存在しないこの時代は、兵站領域の鉄道末端から先はナポレオン時代と本質的に変わらない人畜力による輸送に頼るしかありません。
兵站線から先の連絡線におけるロジスティクス機能は重要な問題です。
ドイツ軍が志向したような運動戦では、鉄道末端には物資が山積みでも、そこから先の馬匹や人力による輸送がボトルネックとなって前線の兵士の手元に届かない事態が発生することがあります。
したがって、むしろ作戦領域における輸送・配給に問題が発生している場合も往々にしてあるわけですが、これを現代風の言葉遣いにより「兵站の不全」と形容してしまうと理解が混乱するのではないでしょうか。
この作戦領域と兵站領域の区分を理解するためには、古来、「軍Armee」とは、ある程度は自立して作戦が可能な組織単位を意味したことを思い浮かべる必要があります。
野戦軍は本国に完全に依存して連絡が途切れた瞬間に瓦解するような存在では困ります。連絡線、兵站線とはリモコン操縦のための電線のようなイメージではないのです。
もともと、君主が軍勢を率いて出征した場合、戦地の軍勢は国軍そのものに等しい存在でした。
本国からの補給を期待するだけではなく、野戦軍が主体として自ら現地における調達・配給のような生計維持活動を行う必要に迫られることは多々あります。
ですので、現代のように後方の国家や軍事行政機構が主体となって補給等に完全な責任を負うというよりも、野戦軍が主体となって自らの生計維持計画を立て、その取組みが後方に伸びていく過程と、本国等からの支援が重なるのが兵站領域というイメージで見ておくべきではないかと思うのです。
3.後方勤務とは
上述のとおり、兵站で行われる業務などを指す場合には、ドイツ語と同様に、兵站という語の単独ではなく兵站事務、兵站勤務といった複合語が用いられました。
しかし、空間的に限定されるイメージがあるのであれば、抽象的に連絡線の全体を包含するような、作戦領域から本国師管までの業務や活動全般に関する総称がないと不便です。
この場合、後方勤務という別の用語が使われていました。
明治33年刊行の雲外居士『基本戦術摘要解義』第4巻(p.241)は、連絡線の解説を包摂して、後方勤務を定義しています。
また、原田政右衛門 編『大日本兵語辞典』 大正7年(p.67)は、後方勤務の項目を掲載しています。
寺田幸五郎 『帝国陸軍の内容 最新詳解』大正5年(pp.278-286)のような一般向けの平易な解説書も、後方勤務の項題の下で兵站の大要を述べるに当たり、兵士の携帯口糧や部隊の行李から、軍直轄管区の後方の兵站管区、内地の師管までの流れを扱っています。
時代が下った永田鉄山『新軍事講本』 昭和7年(136f.)においても、「後方勤務(給養・補充・衛生等)の概要」の項目で「之等軍の後方に於ける一切の事業を後方勤務と名づける」と説明しつつ、後方機關には兵站と並び作戦軍内部に属する行李と輜重を挙げています。
しかしながら、上記の定義を見ても分かるとおり、この後方勤務という言葉は、単に総称が必要なときに冠せられる語であるような印象を受けます。
つまり、現代でいうロジスティクスや「兵站」に相当するような語ではなかったように思われます。
4.給養の重要性
①給養とは
それでは、軍事思想としての分野を形成し、その思想に基づいた運用が研究されるような兵語であり、かつ作戦領域・兵站領域のような管轄に関係なく機能や業務を表す言葉がなかったかというと、そうではありません。
ただし、ロジスティクスのような総称というよりは、対象が具体的に細分化されていたように思われます。
輜重、衛生、鉄道といった具合です。
当時の業務実態からすると、それ以上の抽象的な総称の必要性はあまりなかったのかもしれません。
これらの言葉の中でも、特に興味深いのが「給養」という当時の兵語です。
20世紀初頭頃までの戦争においては人馬の糧秣が必要物資の大部分を占めていましたから、その調弁と配給に関する諸事項は非常に重視されていました。
ドイツ語では総称してVerpflegungと呼び、これに日本では給養という訳語を当てています。
英語では完全に対応する言葉がないようで、ドイツ語文献の英訳ではprovisioning、subsistence、supply、feedingなど訳語が一定しないように見受けられます。
むしろ、当時の日本の兵語である「給養」のほうが輸入概念に直接当てた語であるため非常に分かりやすく思われます。
余談ですが、明治から大正にかけての膨大な欧米軍事文献の翻訳とその咀嚼・摂取に至るまでの真剣な研究の成果を利用できることは、近代ドイツ軍事史研究において日本人であることの数少ない利点でしょう。ひょっとすると英語圏よりも恵まれている場合さえあるかもしれません。
さて、この給養という語ですが、現代人がイメージするような食事周りのことを指すだけではなく、糧秣の調達から配給に至る物事を総合的に意味しており、広くは戦時経済や平時の軍事行政に関連するテーマにおいても用いられました。
そして、この給養という観点は、後方から行うものといったニュアンスではなく、あくまでも野戦軍及びその作戦が主体となるものだということが重要です。
このことは、19世紀末から20世紀初頭にかけてのドイツ軍の野外要務令(Felddienstordnung)を見るとよく分かります。
野外要務令とは、軍隊の野外・陣中における勤務等の要点と規則に関するマニュアルです。
その陣中勤務に関する項目は主に以下のような各篇から構成されており、給養はその一つという大きな扱いを受けています。
【1894年版・1900年版】
戦闘序列、軍隊区分
司令部と軍隊との連繋
捜索勤務 ※A
警戒勤務 ※A
行軍
宿営
行李、弾薬縦列、輜重
給養
衛生勤務
弾薬補充
鉄道
電信 ※B
野戦憲兵
【1908年版】
※A 捜索及警戒
※B 通信材料
同時期における日本軍の野外要務令も、概ね似たような内容です。
給養の項目は、戦地における各種給養法の種別とその選択・運用、給養品と定量などを定めています。
野外要務令に給養の項目はあっても兵站の項目がないことは、この両者の差異を端的に表しているように思います。
兵站に関してはドイツ軍では戦時兵站勤務令(Kriegs-Etappenordnung)、日本では兵站勤務令が別に定められており、20世紀初頭までは陣中勤務者が承知しておくべき主要事項として統合されるべきだとは考えられていなかったように見受けられるのです。
前述したように、ドイツ軍は1908年版野外要務令の巻末付録「諸規定及び数量の摘要」において、日本軍は大正3年の陣中要務令の本篇中において兵站の概説を掲載するようになりました。
この変化は、20世紀に入ってから第一次世界大戦の頃までに急速に進んだ戦争の様相の変容に対応するものだったのではないかと考えています。
②給養法の種類
野外要務令の給養の項目は、給養法の区分から始まります。
各種の給養法の区分と状況に応じた選択順位の考え方には、当時のドイツ兵学の特徴がよく表れていると思います。
給養法は、概ね宿舎給養、徴発給養、携行糧秣給養、倉庫給養の4種類に区分されます。
宿舎給養とは、現地の民家等に宿泊して舎主から糧秣の提供を受ける方法です。
強制を要する場合、戦時公法上は徴発の一種となります。
cf. 奥田昇 編『新野外要務私解』第4巻(明治36年), 58f.
徴発給養は、強制力を背景にして現地官民から物資を取得する方法です。
部隊が直接に行う場合と経理部等が現地の地方官衙や名望家を通じて行う場合があります。
日本軍では後者を、通常、高級指揮官の命によるもの、倉庫を充実するものであるとして官憲徴発の語を用い、前者に部隊徴発の用語を当てていました。
cf. 二瓶貞夫・守田清『戦時給養原則ノ研究』 (大正7年), pp.211-216.
いずれにしても、徴発は需要に適合する物品・量のみ、後日の補償を約束する証票を交付して行います。
部隊徴発では将校の指揮する徴発隊によるのを原則として、下士卒が住民となるべく接触させないようにするべきだとされていました。
私利による法令に反する行為は略奪罪となります。
携行糧秣給養は、各兵卒の携帯品、部隊の大行李又は高等司令部に直属する糧食縦列の糧秣を使用する方法です。
シェルレンドルフ『参謀要務』(父子両版)や、ドイツの1887年版野外要務令に影響を受けている日本の明治22年野外要務令草案、概ねそれを引き継いだ明治24年版野外要務令においては縦列給養を分けて給養法を5種類としていますが、既に軍内に収集した糧秣のうち移動性のある予備であり、携行糧秣給養に含まれると考えてよいでしょう。
倉庫給養は一地に集積した糧秣を使用する方法です。倉庫の糧秣は軍が駐止している場合には直接供給、その他の場合は糧食縦列等への補充に用いられます。
軍団(日本軍では軍)及び師団が作戦地に設置する野戦倉庫と、その後方に設置される兵站領域の兵站倉庫は区別されます。
これらの給養法は、次の2種類に大別されます。
1.戦地の物資を以てする給養(現地給養)
2.携行の物資を以てする給養(追送給養)
宿舎給養、徴発給養、購買給養(後述)等は現地給養に属します。
ただし、携行糧秣や倉庫品を現地の物資で補充して使用するときも該当します。
移動準備品(携行糧秣)又は定置準備品(倉庫品)のうちの追送品を使用する場合は追送給養となります。
cf. 奥田昇 編『新野外要務私解』第4巻(明治36年), 40f.; 木村重行『作戦給養論』第2巻(大正7年), 61ff.
個人的には、こういった給養法の分類に対して、はじめは理論的な整理が曖昧な印象を受けました。
現地調達なのか本国等からの追送補給なのかという給養品の出所(源泉)によるすっきりとした分類ではなく、携行品か倉庫品かという配給元による分類を混在させているように思えたからです。
しかし、野戦軍が糧秣の支給方法を指定するための分類だと考えると、非常に実務的であることが分かります。
糧秣を自分で取りに行けというのか(徴発)、予備品を使えというのか(兵士個人の携帯品又は大行李・糧食縦列積載品)、倉庫で受け取れというのかということです。
モルトケは「戦場においては、悪質なものを除き、如何なる給養も高価すぎるということはない。たが、困難はその調達にあるのではなく配給にある」※注2といった旨を述べているそうですが、作戦上の観点からすれば、現地給養か追送給養かという選択は、給養品へ兵士を向かわせることと給養品を兵士へ届けることのメリット・デメリットの比較によるものなのかもしれません。
G. C. Shaw『Supply in Modern War』(p.67)は、ナポレオンが用いた現地補充と自己完結の原理は機動性をもたらしたと評したうえで、彼にとっては倉庫に糧秣を集めるのも、糧秣を得るために軍を分散させるのも全て同じことであったと述べているのですが、示唆に富んだ指摘だと思います。
適宜に用いるべき方式の問題であって、作戦上は給養品を元々の出所で区分してもあまり意味はないからです。
追送というのは上記の観点で意味をもつ配給の形態であり、本国等から送られてきたものかどうかという経理的な区分は副次的なものにすぎません。
しかも、野戦軍の後方に位置する兵站領域においても兵站部が徴発や購買により給養品を現地調達して前送しますので、なおさらです。
それでは、こうした理論は実際の作戦においてどのように実務へと落とし込まれるのでしょうか。
明治44年刊行の『戦略戦術詳解』第1巻(p.77)は、作戦計画の主要項目として次のとおり挙げています。
これらの項目は、野外要務令の各篇で定められている内容と似ており、給養計画がその一部をなしていることが分かります。
そして、具体的な作戦計画の例の一つに挙げている「軍の作戦計画」の大項目による骨格は、次のように構成されています(pp.78-80)
また、「軍の作戦計画」における他の例は、次のような内容となっています(83f.)
つまり、まず給養計画において兵站線など兵站の設置に関する事項も示されることが分かります。
そして、この給養計画のイメージをつかむためには、軍などの経理部長が立案する具体的な給養法の選択を始めとした給養計画の作成を課題とした当時の演習や講義が参考になります。
一例として、日露戦争前の明治35年に刊行された木村重行『監督演習旅行記事』における、上陸軍による内陸への侵攻初期の計画について紹介しましょう(pp.38-47)
青森県の野辺地に上陸した侵攻軍の1個師団が盛岡に前進するに当たっての師団監督部長の給養計画の立案をテーマとする問題とその解答です。
まず、師団の監督部長が主体となって給養の見積、給養法の選定、縦列の運動(輸送)、糧秣の調達や集積などを計画することが分かります。
後方において追送補充のための兵站が設置されるのは師団の前進後であり、給養計画に基づいて業務に当たることになります。
また、輸送機関が不足する場合には臨機に兵站糧食縦列を補助に用いるといった措置も兵站監ではなく師団の監督部長により計画されています。
つまり、当時の認識としては、作戦における「兵站」を語る前に給養を語るほうが自然な段取りであったように思われます。
内陸における大規模な野戦軍の作戦と兵站の活動については、日露戦争後の明治41-42年に同じく木村重行が著した『応用作戦給養講授録』が参考になります。
陸軍経理学校第1期学生に対する講義をまとめたものであり、内容はより精密になっていますが、基本的な給養思想などは上記の『監督演習旅行記事』とあまり変わっていません。
敦賀に上陸した大規模な軍が日本を東西に分断しつつ東京方面に侵攻するという想定で、全4巻に亘り、状況の進捗に合わせてそれぞれ上陸地給養、師団及び騎兵旅団、兵站、軍をテーマに考察していく内容です。
軍の給養と兵站の関係という意味では、岐阜を当初の補給点として愛知から東海道方面に前進する野戦軍を想定した第4巻が興味深いと思います。
軍の経理部長が立案する給養計画は規模こそ違えど『監督演習旅行記事』と似た内容となりますが、後方に位置する兵站部(兵站経理部長)と連絡しつつ境界を新たにして野戦倉庫等を引き渡していく様子や、兵站部が兵站倉庫を設置し、兵站線を伸ばすとともに糧秣の集積・輸送を行って野戦軍へ前送する様子が具体的に理解できます。
陸軍大学校長 井口省吾の講評からは、こうした野戦軍と兵站などの境界や分担を如何に上手く差配し機能させるかといった問題意識が見て取れます(224f.)
実戦を対象にした戦史書は戦闘部隊の作戦の叙述が主であり、後方勤務については個別の事例に対する対処や例外的な努力といった各論になりがちなため、素人には業務の構造や全体像が読み取りにくいように思います。
こうした演習や講義も含めて当時の文献を丹念に読み解くことで、給養や兵站の実際についてより理解が深まるような気がします。
③給養法に対する歴史認識
それでは、こうした給養法の分類や得失は、どのような根拠をもって定式化されたのでしょうか。
まず重要なのは、当時の歴史認識です。
給養法を解説した軍事文献には、その簡単な沿革史を記したものが少なくありません。
それらによると、古代から近世に至る部分はさておき、近代の史的展開に関する理解は概ね次のような内容となります。
①18世紀末、通常の給養法とされていた倉庫給養に対してフランス革命戦争期に徴発給養が導入され、軍の作戦への束縛が軽減された。ただし、当初は不規律であった。
②徴発給養はナポレオン戦争期に宿舎給養や部隊徴発から官憲徴発に至るまで秩序化された。
③ナポレオン戦争中には徴発給養の限界が明らかとなり、倉庫給養との混用・併用になるとともに、野戦軍内部における移動性予備及び追送手段を確保する携行糧秣給養の重要性が認識された。
④以後、それら多様な給養法を適宜組み合わせるものとされた。
cf. 木村重行『作戦給養論』第2巻(大正7年), pp.1-48.; 奥田昇 編『新野外要務私解』第4巻(明治36年), pp.99-106.; 木村重行『作戦給養論』(明治35年), pp.86-105.; シェルレンドルフ『参謀要務』明治43年訳版 後篇, pp.427-434.
つまり、野外要務令に至るドイツ兵学の給養思想は、18世紀から19世紀初頭における大戦争の戦訓に影響を受けて理論化され、発展してきたのです。
④給養思想の展開 〜フランス革命戦争・ナポレオン戦争の教訓〜
19世紀の給養法に対する考え方は、上述のような前代の戦史の教訓に基づいて形成された軍事思想の一部であるという特殊性を帯びていました。
歴史性を鑑みない普遍的な論理的考察の結果として導き出されたわけではありません。
つまり、戦争の様相が変われば、給養の思想も変わらざるを得ないという前提があってのものです。
裏を返せば、ある程度の前提を共有できる間は、歴史的に形成された思考は強固に持続し、その方向性の範囲内での変化発展にとどまるでしょう。
したがって、普遍的に理想とされる給養法を想定し、原始的な前代から進歩的な後代に達するまでの直線的な発展とみなすような予断をもって論じると、少なくとも当時の軍人たちの認識、判断基準や思考とはずれたものになるのではないかと思います。
こうした観点を念頭に置きつつ、当時の軍事文献を中心にナポレオン戦争後の給養思想の展開に焦点を当ててみると、兵站と給養という二つの言葉に対する解像度を高めることができる気がします。
以下、本稿では、現代におけるロジスティクス史、「兵站」史の著作として認知度の高いマーチン・ファン・クレフェルトの『補給戦』の叙述と逐次対比することで、アクセントをつけて述べてみたいと思います。
さて、給養(Verpflegung)というドイツ語ですが、この語は18世紀以前から使用されています。
Verpflegungという語は糧食そのものも意味しますので、全ての文脈において給養という訳語が当てはまるわけではありませんが、18世紀末において新奇な言葉ではありませんでした。
ロイドの七年戦争史の翻訳及び批評を行ったテンペルホフも、糧秣の所要量に基づく行軍、パンの焼成、輸送や倉庫配置のモデルを論じた有名な箇所においてこの言葉を使用しています。
例えば、軍の扶養(Unterhaltung der Armee)は注意を傾けるべき最重要の事項の一つであるため、戦役の作戦計画を決定する際には、軍の給養に対して(zur Verpflegung der Armee)必要となるすべてのものが作戦線の両側で一定期間確保できるかどうかを慎重に検討しなければならないと述べています。
cf. Tempelhoff, G. F. Geschichte des siebenjährigen Krieges in Deutschland zwischen dem Könige von Preußen und der Kaiserin Königin mit ihren Alliirten als eine Fortsetzung der Geschichte des General Lloyd, 1783, p.191
上述のとおり、テンペルホフが前提としなければならないと考えた倉庫給養に対するフランス革命戦争、ナポレオン戦争における徴発給養の隆盛と発展が与えたインパクトが、ドイツ兵学における給養思想の画期となりました。
しかし、こうした歴史認識に対しては、現代の視点からは異論があるかもしれません。
クレフェルト(『補給戦』中公文庫版, pp.66-72)は、通説に反して18世紀の戦争においても現地調達が必要であったと強調しています。
実際にはフリードリヒ大王はテンペルホフの5日行軍制のとおりに戦争を行なっていたわけではない、根拠地からの再補給が必要になったのは攻囲の場合が多かった、といった反例を挙げています。
そして、18世紀の軍隊が後世の軍隊に比べて現地依存の生活方法にそれほどの専門知識を示さなかったのは、食糧を補給するための管理機構の欠如しており、軍自体が徴発隊を出せば脱走の危険が高かったため非効率な請負に頼るしかなかったからだと論じています。
この辺りの史実を巡る歴史学の議論自体は、筆者の手に負えるところではありません。
e.g. Lynn, J. A. "The History of Logistics and Supplying War." Feeding Mars: Logistics In Western Warfare From The Middle Ages To The Present, kindle. ed.
しかし、本稿の主題とする19世紀から20世紀初頭頃の軍事文献における歴史認識や給養思想に関して言えば、この認識の差異は視点の差なのであって正誤の問題ではないかもしれないと考えてみることが重要であるように思います。
前述のとおり、倉庫給養か徴発給養かという給養法の問題は作戦用兵の観点に基づくものであり、現地調達か追送補給かという糧秣の出所を分類する分析的観点とは一致しません。
現地資源にも頼っていたという事実からすれば変革はない、といった視点ではないのです。
実際、当時においても単純な図式的解釈だけが通用していたわけではありません。
すでにG. Cancrinが、1820年刊の『Über die Militairökonomie im Frieden und Krieg und ihr Wechselverhältniss zu den Operationen』第1巻(p.71)において、フリードリヒ大王は他の給養法も用いており、実際には厳密に5日行軍制のとおりに行動したというよりは類型として考えられていたものをテンペルホフが規範としたのだろうと述べています。
また、バイエルン継承戦争の後の頃になると、少なくともオーストリア軍は5日行軍制に従ってはいなかったとしています(p.73)
Bernhard von Baumannは、1867年刊の野戦給養史に関する研究書においてフリードリヒ大王が倉庫給養以外の給養法を柔軟に使用した事例に触れており、次代においては形式的にしか受け継がれずに倉庫給養のみとなったと解釈しています。
本邦においても、大正7年刊の木村重行『作戦給養論』第2巻はカール12世やフリードリヒ大王が倉庫給養以外を使用したことを指摘した上で、次代における倉庫給養への復帰とフランス革命による徴発給養への移行を述べ、ナポレオン戦争での混合法へ至るという認識を示しています。
給養に関する多数の著作がある木村重行をはじめ、日本におけるヨーロッパの給養史の叙述は西欧各国語の書籍をかなり広く収集したうえでまとめており、当時の認識を知る上で非常に参考になります。
つまり、当時においても現実における事例の多様性は承知しており、その上で思想的にフランス革命期の大きな変革を認めるという理解でした。
個々の歴史的事象というよりも、戦訓から認識された戦争に対する物の見方の転換が、その後一世紀にわたる給養思想に大きな影響を与えたのだと言えるでしょう。
それではまず、フランス革命期からナポレオン戦争にかけての同時代人は、この問題をどのように捉えたのでしょうか。
ここで重要になるのが、クラウゼヴィッツの給養思想です。
彼は『戦争論』において給養を論じています。
一個の軍が存立し戦闘できるために必要な保全と保安の要件の一番目に「給養が容易であること(Die Leichtigkeit der Verpflegung)」を挙げています。
cf. 第5篇 戦闘力 第6章 軍の一般的配備
そして、第5篇 戦闘力の第14章を給養法の議論に当て、後の用語で言うところの宿舎給養、部隊徴発給養、官憲徴発給養、倉庫給養を比較して倉庫給養の不利と官憲徴発給養の有利を指摘しています。
クラウゼヴィッツは章題を扶養(Unterhalt)としていますが、上述のテンペルホフと同様に、内実は給養の意味だと受け取って構わないでしょう。
例えば、1841年刊のHans Eggert Willibald von der Lüheの軍事百科事典は給養法(Verpflegungsarten)の項目を引くと部隊の扶養(Unterhalt der Truppen)を参照するようにと指示があり、この言葉は広義では軍隊の衣服、装備、給与を含むすべての生活必需品の支給を意味し、狭義では給養(Verpflegung)や栄養補給だけを指すと解説しています(第8巻, p.387)
篠田英雄訳の岩波文庫版『戦争論』では、この章題も給養と訳しています。
篠田訳は「兵語は概ね旧来の用語を踏襲した」(上巻, p.367)としていますので、適切な翻訳だと思います。
クラウゼヴィッツというと、戦略と戦術は考察したけれども戦争の第3の領域であるロジスティクスを名付けなかった、あるいは扱わなかったというような現代の批評によるイメージがあります。
cf. Stanley L. Falk, "INTRODUCTION." George C. Thorpe’s Pure Logistics : The Science of War Preparation, pp.17-20; Proença Júnior, Domício & Duarte, Erico. "The concept of logistics derived from Clausewitz: All that is required so that the fighting force can be taken as a given."; 『兵站概説』p.2, 8f.; 前原透「クラウゼヴィッツ『戦争論』の読み方(その9)」『陸戦研究』平成10年9月号, 1998, 59ff.
しかしながら、クラウゼヴィッツは狭義の兵術である「戦闘力の使用」(用兵・作戦)以外に、それと不可分の「戦闘力の維持」(戦闘準備)も詳細に論じています。
「戦闘力の維持」は、闘争にも属しつつ戦闘力の維持に役立つ活動(行軍、野営、舎営)と戦闘力の維持のみに属して結果が闘争に影響を与える活動(給養、衛生、補充)に分かれます。
cf. 前原透「クラウゼヴィッツ『戦争論』の読み方(その8)」『陸戦研究』平成10年8月号, 1998, p.50
したがって、給養をはじめロジスティクスに関連した分野や活動を体系的に扱っていないとは言えないわけですが、それでも上記のような批判が生じるのは、軍政や後代で言うところの兵站領域といった範囲の問題に対する現代人との感覚の違いに起因するもののように思います。
また、クレフェルト(『補給戦』中公文庫版123f.)は、現代の著作物においてナポレオン時代の給養法が徴発頼りであったと誤解されている原因としてクラウゼヴィッツを挙げ、その給養思想を批判しています。
クラウゼヴィッツがナポレオン戦争において補給方法の根本的な軍事革命が起こったと見做しているとし、「軍需品倉庫も持たないで行動し、現地調達で生存して補給には何らの注意も払わず、時には羽根を生やして次々にヨーロッパ諸国へ進撃するようにみえる軍隊を考え出すに至った」と述べています。
つまり、クラウゼヴィッツの給養思想はナポレオン戦争当時の実態からも乖離しており、その後の給養思想では修正されるべき対象でしかなかったという解釈をしています。
このクレフェルトの批判は、クラウゼヴィッツの給養に関する議論を「戦闘力の維持」を巡る普遍的な考察としてではなく、逆にナポレオン戦争当時の軍事的現実に対する評価と処方箋という側面に偏った読解に思われます。
彼の批判についても、クラウゼヴィッツの念頭にある概念やその範囲に照らして正当であるのかを検討する必要があるでしょう。
ロジスティクスやサプライという現代的な切り口ではなく、19世紀の実務的なドイツ兵学と地続きである給養と兵站という概念で読解するべきであると思います。
戦争に絶対不可欠な要素を挙げれば主体としての野戦軍になり、その戦略、戦術とともに給養に紙面を割くのは当然のことです。
しかし、野戦軍の背後、そして国家の軍事機構や軍事行政の範疇でもある兵站領域は戦争の「本質的」な論点たりうるのか?という視点です。
クラウゼヴィッツは、給養法について旧来の作戦地域外からの追送による倉庫給養が軍の運動と作戦を制約するところが大きかったことを指摘し、徴発給養、特に官憲徴発によって戦争の様相が変容したことを重視しています。
しかし、クラウゼヴィッツは給養法の単線的・択一的な進化の歴史を想定したわけではないと思われます。
倉庫給養による制約、すなわち軍の後方連絡線と策源の確保を絶対視し、その遮断を用兵の原則と見なすような幾何学的軍事理論は本質的なものではないという見解を、給養法の多様性から主張したように思われるのです。
一方、クレフェルトは、軍需品倉庫や輸送隊の物理的な存在をもってクラウゼヴィッツに疑問を呈しています。
ナポレオン時代における軍隊化された補給部隊の設立を革命的な一歩と評し、原始的な方法に戻ったのではなく補給の分野において敵より進んでいたのだと主張しています(『補給戦』中公文庫版126f.)
こうしたクレフェルトの解釈は、彼が同時代人であるビューローの見解を援用していることからも分かります。
参照されているビューローの『Lerhsatze des neueren Krieges oder reine und angewandete Strategie』(pp.26-28.)は、1792年から1800年までのフランス革命戦争を表面的にしか観察していない人々はフランス軍が徴発だけで維持されていたと言うがそれは誤りであると確かに主張しています。
そして、徴発は倉庫在庫の消費を抑えたものの、倉庫なしには活動できなかったと批判を加えています。
また、フランス軍の行李の制限などに言及しつつも弾薬運搬などは不可欠であると指摘しています。
しかし、「軍は倉庫なしに維持できず、その運動は倉庫に左右される」というビューローの見解は、倉庫間を結ぶ線を底辺(作戦基地)として目標に向かう作戦線で形成された三角形を保全するように機動すべきという「幾何学的な」軍事理論に基づいています。
上述のとおり、これはクラウゼヴィッツが戦争論において随所に批判している思想であることに留意する必要があるでしょう。
e. g. 『戦争論』第2篇 第2章 10(岩波文庫版 上巻159f.)
この点、前代の倉庫給養に対する批判としては、フランス革命戦争以前に徴発による現地給養に着目していたギベールの、次のような主張のほうがクラウゼヴィッツを理解するためには参考になります。
その上で、クラウゼヴィッツの記述を細かく読んでいくと、輸送隊や軍需品倉庫の存在を過激に否定するような様子はないことに気づきます。
宿舎給養について解説した後、クラウゼヴィッツはそのような現地手段に依らない給養装備の必要性も指摘し、①兵士の携帯糧秣及び部隊の輜重という移動性予備、②兵站部による後方からの追送補給、という2種類の方法を明記しています。
さらに、給養に続いて第15章で策源、第16章で連絡線を扱っており、兵站領域における軍需品倉庫や輸送隊の存在そのものを前提としていることがより一層明らかになります。
策源や連絡線とは単なる地図上の点や線ではなく、施設が設置され人馬が往来する活動の場だからです。
官憲徴発が現地官衙等を介して収集された給養品の兵站領域からの追送という実態に結びつくことを考えれば、確かに軍隊化された輸送システムの必要性という視点は弱いものの、まったく不要と考えているわけではないことは明らかです。
むしろ、兵站領域だけをもって給養の本質と同一視することはできないという感覚のように思われるのです。
クレフェルトが参考文献として使用している1938年刊行のG. C. Shaw『Supply in Modern War』(p.67)も、クラウゼヴィッツは倉庫の必要性を認識していたと解釈しています。
※注3
また、クレフェルトは現地調達や輸送隊の有無による効能を軍の行軍速度だと単純に捉えているようです。
しかし、給養所としての兵站を置いた軍路の効用や糧秣の輸送・集積といった問題はクラウゼヴィッツの議論の中心ではなく、行軍速度というよりは軍の運動の自由が戦術・戦略にもたらす効果を重視していたように思われます。
クラウゼヴィッツの問いは、戦争が給養方式を規定するのか、それとも給養が戦争を規定するのか、という本質論でした。
そして、その回答は次のとおりです。
倉庫給養と徴発給養を対比したクラウゼヴィッツの意図は、ある給養法が別の給養法に取って代わるという進歩を述べたものではなく、また給養法自体の優劣を定めようとしたものでもないと言えるのではないでしょうか。
つまり、粗々にまとめてみると、戦闘の主体である野戦軍の存立の基礎として給養は必須であるが、兵站領域を主とする倉庫給養によって縛られるのを前提とする必要はなく、官憲徴発給養、宿舎給養、部隊徴発給養によっても可能であることが判明したのであり、特定の給養法が常に戦争を規定するわけではない、といったところでしょうか。
クレフェルト(『補給戦』中公文庫版, p.124)は、クラウゼヴィッツは戦争の神様であるナポレオンが補給方法においても深い変化をもたらしたと想像するという誤りを犯したのであり、それによってナポレオン時代を扱った現代の著作物にまで誤解が続くことになったと批判しています。
そして、次のように述べています。
このクラウゼヴィッツがナポレオン戦争の観察により育んだ給養思想は続く時代に修正を迫られたとする叙述の流れは、クレフェルトが参考文献の一つとしているG. C. Shaw(p.77)にも見られます。
たしかに、クラウゼヴィッツはナポレオンのロシア遠征のようなケースを西欧・中欧とは異なる例外として重視しなかったきらいはあるでしょう。
また、ロシア遠征における現地給養の可能性についてさえ楽観的な評価をしているようです。
クラウゼヴィッツはフランス軍内の事情を知らなかったかもしれませんが、ロシア遠征を直接観察しています。
ロシア遠征を扱った著作では、前進するフランス軍が後方の倉庫との連絡が困難になり、寒村焦土においてはロシア軍倉庫の奪取や徴発も難しい様子を記しています。
また、退却に際して往路とは別の復路をとるかどうかという議論において、分遣隊によって占領され倉庫が設置された「予め準備された街道」が必要であるため往路を戻るのが自然であるといった認識を示しています。
cf. 外山卯三郎 訳『ナポレオンのモスクワ遠征』 203f.; 223f.
したがって、ロシア遠征における給養の困難や両軍の夥しい人馬の消耗を知っているのですが、それでもナポレオンは一度の戦役でロシア軍を撃滅してモスクワを占領する必要があったとしています。
給養、行軍、進軍路の分散などに注意を払ってモスクワ占領時に多数の兵力を残していれば、また退路の準備が入念であれば勝利の可能性はあったと考えていました。
興味深いことに、ドニエプル川とデューナ川の線で停止し、準備を整えた上で翌期に侵攻を再開するべきだったという批評には 、ロシア軍の増強や冬営時に予想される大損害などを理由に挙げて否定的な見解を示しています。
そのような戦役が目的を達成して続く戦役のさらなる攻撃を準備した可能性は認めたいとしつつも、奇襲的にロシア軍の撃滅とモスクワ占領までを一度に達成するのが最も望みのある作戦だったと結論しています。
※注4
cf. 外山卯三郎 訳『ナポレオンのモスクワ遠征』 pp.280-286; 金森誠也 訳『クラウゼヴィッツのナポレオン戦争従軍記』pp.115-120.
こうしてみると、少なくともクラウゼヴィッツの現地給養に関する見通しは甘かったという評価は妥当であったようにも思われます。
ただ、妥当性の評価基準という面を考えてみると、現代人が彼は給養又は兵站を「軽視」していたと単純に批評することにはためらいを感じます。
クラウゼヴィッツのロシア遠征観からは、彼が給養を「重視」「軽視」といった軸ではなく作戦の条件という軸で考えていたことが具体的に見て取れる気がするからです。
作戦を成功させることができる程度に給養を考慮するのであって、人馬の損耗そのものを可能な限り忌避しなければならないという感覚が薄いように感じるのです。
つまり、人命や給養への要求水準そのものが現代人の感覚とは異なるのでしょう。
クラウゼヴィッツはモスクワ占領時に20万人の兵力が残っていれば見込みがあったとしていますが、個人的にピュロスの勝利ではないかとの疑念をもってしまいます。
軍の保全が無目的に重視されなければならないほどの優先事項ではないということは、戦争に勝利すれば損害は許容されるという発想に繋がりかねません。
クラウゼヴィッツの給養思想が後代に与えた影響としては、現地調達や追送補給の可能性に関する評価が正鵠を得ていたかどうかというよりも、この点が重要であるように思います。
後述する引用などにも随所に現れていますが、ドイツ兵学の文献には兵士や現地住民への過度の仁愛を戒めたり、必要な場合には兵士の給養の欠乏・労苦・損害を許容するよう求める記述が見られます。
したがって、クレフェルトが言うような歴史的な意味でのナポレオン戦争期における補給システム実際のあり方や発展は、クラウゼヴィッツの観察や評価が誤っていたかとはある程度は切り分けて論じることができるように思います。
その後の歴史の流れにおいて、兵站制度の発展とともに、倉庫給養は廃れるというよりは徴発給養と併存していくことになりますし、携行糧秣給養の必要性から軍に随伴する糧食縦列なども充実していくことになります。
クレフェルトの言う軍隊化された後方輸送システムの発展という視点から叙述することもできますが、上述のとおり給養思想としてはクラウゼヴィッツから断絶しているわけでもありません。
給養と兵站は重なる面はあっても別個の問題であって、戦争の主眼は野戦軍の作戦にあるという思想は連続しており、条件としての給養は幅広く自由に求めるものだという認識に基づいているとも言えます。
この点、クレフェルトのような現代人、特に英米系のロジスティクス思想からではなく、クラウゼヴィッツの延長線上にある19世紀のドイツ語圏における軍事思想から見たフランス革命戦争・ナポレオン戦争期の給養史解釈の一例として、クレフェルトも参考文献には挙げているオーストリア軍人O. Meixnerによる『Historischer Rückblick auf die Verpflegung der Armeen im Felde』1. Lieferung(1895年刊)が参考になります。
Meixner(24f.)は、常備軍の初設置からフランス革命までの時代を扱った第1部の結論として、次のように述べています。
つまり、18世紀の倉庫給養とは兵站領域における輸送隊の活動と倉庫への集積が主であり、給養のためには兵站領域が軍に追従するというよりも、軍自体が兵站領域に近接して行動する必要があったという理解です。
その問題点を、Meixnerは軍に随伴して糧秣の移動性予備となり同時に兵站領域との往還輸送力を兼ねるべき糧食縦列が欠けていた点に見ています。
前述のように、クレフェルトはこの時代も実態は現地調達が必要であったと指摘しています。
しかし、Meixnerの視点では、倉庫給養において倉庫へ納品される給養品が官憲徴発や請負によって調達されていたとしても問題にはならないでしょう。
次に、フランス革命戦争とナポレオン戦争を扱った第2部の結論としては、以下のように記しています(pp.199-201)
趣旨としては、軍の現地自活は有益であると認めた上で、貧しい土地などでは徴発給養には限界があるため、軍の縦列の独立性を確保して内部に移動性予備及び輸送手段としての糧食縦列等を備え、倉庫給養により補充する対応が必要であるという観察です。
つまり、Meixnerにとっては、ナポレオン戦争の教訓は、自己の時代における混合方式を根拠づけるものでした。
このMeixnerの結論において興味深いのは、現地自活の限界がナポレオン戦争中に既に示されていることを認識しつつも、それを補い緩和するための手段を軍自体に付随させるという対処法を主に論じており、現代人が考えるような兵站領域における追送能力の向上と軍への供給を第一の課題として挙げてはいない点です。
これは、人畜力による車輌での追送補給には限界があるという認識を前提としているように思われます。
クラウゼヴィッツと同じくナポレオンの同時代人であるG. Cancrin(p.80)は、ロシア遠征には大量の荷馬車が使用されたことを指摘したうえで、ある距離を超えると荷馬車による補給部隊は役に立たないと述べています。
大部分が喪失するか到着が間に合わないのであって、ヨーロッパの半分から輸送手段をかき集めたとしても産物の乏しい国では支援できないだろうと記しています。
Meixnerも現実的な評価をしていたように思われます。
第2部の結論に先立つナポレオンのロシア遠征に関する観察(pp.196-198)において、その特徴を論じています。
Meixnerは、広大な空間にわたるロシア戦役のような場合には、基地と物資を前進させ、軍の移動性予備を補充し終えてから次の作戦地域に移動する体系的なアプローチをとる必要があるとしています。
そして、人口のまばらな貧しい土地では、必要な量の糧秣を提供できる広範囲にまで分散できないため、部隊現場での徴発は非効率であると指摘します。
一方、兵站領域における行政官衙の協力を得た徴発は可能だとしますが、時間がかかるため軍が直接使用することはできず、倉庫への集積や移動性給養装備への補充にしか用いることはできないと言います。
また、軍の後方、兵站領域からの糧秣補給には大規模な軍事輸送が必要であり、作戦軍の給養はその管理に依存することになるとしています。
このような困難な地理的条件下における作戦に関する対策として、Meixnerは次の3つを挙げています。
①現地資源の最大限の活用と節約
②軍の指導による現地車両の動員と組織的使用
③作戦計画の決定要因とするほどの補給の実行見込みの重視
つまり、ロシア遠征のような場合には、迅速な開進・侵攻と決勝会戦という一連の作戦により戦役を完了するというよりも、準備を整えつつ漸次に作戦を新たにする必要があるということのように見受けられます。
上述のクラウゼヴィッツによるロシア遠征の批評と比較すると、たいへん興味深いと思います。
【後編】
ひとまずここまでを前編として一区切りとし、公開させていただきます。
中途半端なところで大変恐縮です。
実は一年以上書き続けているのですが、思いのほか長文となってしまい、全体の完成を待っているとモチベーションが保てなくなりそうな気がしまして……
ひとまず達成感を得て、気持ちを切り替えた後、改めて後編を完成させたいと思います。
ここから先の普仏戦争から日露戦争後にかけての給養思想や当時の軍事文献の読解が本稿のもともとのメインテーマでしたので、まったくの別稿に分割する踏ん切りがつかず、後編は加筆予定という体裁としました。
興味の赴くままに調べたものなどを自己満足で書き記している乱文にすぎませんが、もしもここまでお読みいただけた方がいらっしゃいましたら……さらには後編に関心を寄せていただせる方がいらっしゃいましたら、大変嬉しく思います。
2024年9月17日
⑤給養思想の展開 〜19世紀から20世紀初頭にかけての適応と変遷〜
COMING SOON!
⑥作戦の自由と給養の顧慮
COMING SOON!
5.兵站、その後
COMING SOON!
6.文献紹介
COMING SOON!
7.注釈
注1
参照用例
注2
cf. 国防科学研究会 編『独逸の戦争論』昭和15年, p.172.
上書は1860年の著述としています。
筆者は正確な出典を確認できていないのですが、前半の「悪質なものを除き、如何なる給養も高価すぎることはない」云々については、モルトケによる1871年、1878年議会陳述にも同趣旨の発言があります。
cf. Essays, Speeches, and Memoirs of Field-Marshal Count Helmuth von Moltke, translated by McClumpha, C. F. et al., vol.2, NewYork, 1893, p.65, 67.
こうした言い回しは、その後、ドイツの軍事文献で好んで用いられています。
注3
Shawは出典を『戦争論』第3篇と注記していますが、これは1873年刊のJ. J. Grahamによる英訳版『戦争論』第3巻に収録されている「戦争術の大原則」の中の言葉です。
On War: By General Carl von Clausewitz. translated by Colonel J. J. Graham, from the third german edition. three volumes complete in one, London: N. Trübner, 1873.
皇太子への進講の補足として書かれたこの著作は1812年頃のものと考えられていますので、Shawは『戦争論』本篇と誤解しています。
Shawの引用も同英訳版からです。
以下、引用元の英訳とDie wichtigsten Grundsätze des Kriegführens zur Ergänzung meines Unterrichts bei Sr. Königlichen Hoheit dem Kronprinzenのドイツ語原文、拙訳を示しておきます。
J. J. Graham英訳版『戦争論』第3巻(p.113)では、この文章は次のとおり続いています。
対応するドイツ語原文と邦訳(拙訳)は、次のとおりです。
Shawの引用の後半部分の英訳原文と、それに対応するドイツ語原文及び邦訳(拙訳)は、次のとおりです。
注4
一挙にモスクワに進撃する作戦案と計画的(方法的)に漸次戦役を行う作戦案の見込みについてクラウゼヴィッツがどのように結論づけているのか、彼の文章は分かりづらいと思います。
訳文のニュアンスによって解釈に幅があるかとは思いますが、ここでは外山訳に基づいて判断いたしました。
参考までに、最も解釈が分かれるであろう部分のドイツ語原文、英訳、外山訳、金森訳を引用しておきます。
8.参考文献
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