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パンと給養② 〜クレフェルトとクラウゼヴィッツのパンの現地調達見積の差異について〜

本編クレフェルトは『補給戦』の「第一章十六〜十七世紀の略奪戦争」(中公文庫版63f.)において、糧食の現地調達見込みについて概算しています。 この計算の想定は、1平方マイルの人口密度が45人である1地域が小麦を自給自足しており、備蓄量6か月分を保有するというものです。 そして、6万人の軍隊が1日あたり10マイル行軍しているとして、幅10マイルにわたる地域で徴発するならば、住民が供出しなければならない小麦は備蓄量の10%以下であり、十分に負担できると見込んでいます。 つ

    • パンと給養① 〜戦地でパンを得るのは難しい〜

      序 欧米人の食卓に欠かせないパンは、戦地の兵士にとっても主食であるべき存在でした。 ところが、パンというのは調理に手間のかかる食物であり、現代的な機械文明以前の軍隊においては、戦地での安定供給が難しい、やっかいな食物でもあります。 かつて、マーチン・ファン・クレフェルトは著書『補給戦』において、近世の軍隊が食糧として十分な量の小麦を進軍先の土地から徴発により確保できるという計算を示しました。 しかし、この計算に対しては、製粉、パン焼きや輸送に必要な時間や困難を考慮して

      • 兵站と給養

        【前編】 ※本稿は執筆途中です。前半部分のみを【前編】として公開しています。2024年9月17日現在 序 言葉は、時代や場面によって意味も用法も変わるものです。「兵站」という言葉も例外ではありません。 今日、日常会話や特定の業界用語において「兵站」をロジスティクスと同じ意味で用いたり、後方支援なり、物流管理なり、漠然と物資一般の追送なりといった分野や機能を表す言葉としてイメージしていても、その場面で意思疎通ができていれば問題は生じません。 とはいえ、歴史上の物事、特に

        • 雑感 : 斉射、反転行進、そして古代ギリシア・ローマの弓戦について

          古代や中世においては、弓兵が号令に基づいて全く同じタイミングにより「斉射」を行ったかというと、疑問があるでしょう。 小人数の集団であっても、弓を引いたまま長時間待つことは難しい、動く標的へ放つタイミングは個々に異なる、といった不具合が考えられるからです。 cf. Loades, 67f. とはいえ、少なくとも射撃の開始を号令により統制する場合があったことは史料から読み取れます。 後2世紀のランバエシス碑文には、ハドリアヌス帝が「敵が迫ってきたときには、合図ad sig

        パンと給養② 〜クレフェルトとクラウゼヴィッツのパンの現地調達見積の差異について〜

          ローマ人は「ハンニバルが来たぞ」といって子供をおどかしたか?

          ハンニバルがローマ人にとってどれほど脅威だったかが語られるとき、次のような話をよく目にします。 「後々、ローマ人は言うことを聞かない子供を「ハンニバルが来たぞ」といっておどかしたという」 古いものから新しいものまで様々な文献において馴染みのある話であり、さらりと読み流してしまいそうになりますが、どうにも引っかかりを覚えて目を止めてしまいます。 はて、そういえば、古代史料でこの話が記されている箇所に思い当たる節がないな…と。 1 ハンニバル・アド・ポルタス 「ハンニ

          ローマ人は「ハンニバルが来たぞ」といって子供をおどかしたか?

          管矢と弓戦の話 〜ビザンツ帝国と中東〜

          1 十字軍と管矢1250年、ルイ9世の下で第7回十字軍に従軍したジャン・ド・ジョアンヴィルがエジプトのマンスーラの戦いで体験した逸話は、当時の弓矢の威力を語る際によく引き合いに出されます。 多数の矢を射かけられた彼は、偶然みつけたサラセン人のギャンベゾンを盾にしたこともあり、彼自身は5箇所、馬は15箇所の傷を負いながらも大事には至りませんでした。 その夜、彼と騎士たちは傷のせいでホーバーク(鎖帷子)を着ることができず、敵襲に備えて王に助けを求めざるをえなくなりました。

          管矢と弓戦の話 〜ビザンツ帝国と中東〜

          中東における装甲弓騎兵を中心とした戦闘様式について 〜Eduard Alofsによる「イラン的伝統」モデルの紹介〜

          1 「イラン的伝統」モデルとは?中世における中東やビザンツ帝国の戦争術は、後期ローマ帝国やササン朝ペルシアなどの古代国家以来の伝統を引き継ぎ、連続した共通の土壌に立っていました。 とりわけ、中央アジアから進出してくる遊牧民と戦火を交えつつ発展した騎射を用いる装甲騎兵の伝統は、この時代の戦争様式を知るうえで重要な主題だと思います。 もちろん、時代や国・地域により実情がかなり異なるのは当然なのですが、その特徴をある程度イメージできるような概説書を探していたときに非常に興味深く

          中東における装甲弓騎兵を中心とした戦闘様式について 〜Eduard Alofsによる「イラン的伝統」モデルの紹介〜

          雑感:古代の騎槍(コントゥス)をめぐる鐙と操法の問題について

          【本文】1〜2世紀、サルマタイ人の騎兵は3.6m、時に4.5mにもなる長槍を主に両手で持って使用しました。 強い印象を受けたローマ人はこの騎槍(コントゥスcontus)を導入し、トラヤヌス帝の頃には槍騎兵部隊が編制されていたことが確認されています。 パルティア人やササン朝ペルシアなどを含めた装甲騎兵の装備としても普及していました。 M. Mielczarek(pp.44-47)は、装甲騎兵の騎槍の持ち方として2種類を推測しています。 まず、対騎兵用として、馬首を横切っ

          雑感:古代の騎槍(コントゥス)をめぐる鐙と操法の問題について

          ビザンツ帝国の弓術とニケフォロス・ブリュエンニオスのアポロンの弓

          1 序アンナ・コムネナは、自著『アレクシアス』(10. 9. 8)において、夫であるニケフォロス・ブリュエンニオスのひときわ優れた弓の腕前を弓矢の神であるアポロンに擬えています。 ホメロスの『イリアス』に登場する英雄を引き合いに出し、詩句を引用したうえで、夫はそれを上回る神々しい弓の使い手だと称賛するのです。 古典を引用した修辞的な表現であるのはもちろんなのですが、単なる美文ではない意味があるように思われ、勝手ながら少し考察してみました。 当時のビザンツ帝国における具体的な弓

          ビザンツ帝国の弓術とニケフォロス・ブリュエンニオスのアポロンの弓

          雑感:ポンペイウスの戦略とイタリア戦役

          https://twitter.com/cuniculicavum00/status/1374671518240677888?s=20 1 冬季作戦であることに注目かつてモムゼン(p.326; 336)は、開戦が春まで延びていれば、ポンペイウスの方が攻勢に出てイタリアとスペインからガリアを挟撃しただろうと推測しました。 Veith(1906, pp.233-235; p.246)は、それがポンペイウスの最初の作戦計画であって軍事的にも常道だとし、カエサルが真冬の来る前に侵

          雑感:ポンペイウスの戦略とイタリア戦役