ビザンツ帝国の弓術とニケフォロス・ブリュエンニオスのアポロンの弓

1 序

アンナ・コムネナは、自著『アレクシアス』(10. 9. 8)において、夫であるニケフォロス・ブリュエンニオスのひときわ優れた弓の腕前を弓矢の神であるアポロンに擬えています。
ホメロスの『イリアス』に登場する英雄を引き合いに出し、詩句を引用したうえで、夫はそれを上回る神々しい弓の使い手だと称賛するのです。
古典を引用した修辞的な表現であるのはもちろんなのですが、単なる美文ではない意味があるように思われ、勝手ながら少し考察してみました。
当時のビザンツ帝国における具体的な弓術の水準への自負を、ホメロス時代のギリシア人に対する優越という形で誇示しているのではないか、というのが要旨となります。
もちろん、私は『アレクシアス』のテクストや読解に関する専門的な研究の知識もなく、使用した原文や現代語訳は手軽に入手できるものだけです。
個人の憶測にすぎないのですけれども、詳しい方にご指摘をいただく機会になるかもと思い記してみました。

2 文意の解釈

最初に『アレクシアス』(10. 9. 8)の該当箇所を確認しましょう。

私が参照したギリシア語テクスト及び邦訳、英訳(2種類)、独訳は「10 参照した原文及び現代語訳」のとおりです。

文章の構造を分かりやすくするため、番号①〜⑥に区分して考察していきます。

まず、①では、ニケフォロスが率いた若者たちは弓の技に優れており、その腕前はホメロス『イリアス』に登場する弓の名手テウクロスに「劣らない(οὐχ ἥττους)」と語られます。 

相野洋三先生の邦訳ではテウクロスを「凌ぐ」となっていますが、英訳(E. A. S. Dawes 、E. R. A Sewter )や独訳(D. R. Reinsch)を考慮すると、厳密に言えば「劣らない=同等」と解釈できるのではないでしょうか。

もちろん、翻訳にあたって使用したテクスト原文や注釈などが異なるのだろうとは思うのですが……

次に、②では、ニケフォロスの弓はまさに弓矢の神であるアポロンの弓そのものである、と称賛します。

伝説の英雄を超えて神に匹敵すると言うのですから、最大級の賛辞です。

そして、全体の文意を解釈するうえで焦点となるのが、次の③です。

ニケフォロスは、ホメロスの歌うギリシア人たちのように「弓弦を胸(乳のあたり:μαζῷ)まで、鏃を弓幹まで」引き寄せず、また、狩人としての優秀さを誇示することはなかったと述べています。 

アポロンに匹敵するという根拠を二つ、「οὐδὲ γὰρ(なぜなら、〜ではない)」から始まる否定文によって、ホメロス時代のギリシア人とは異なるのだという言い方で挙げているのです。 

一つ目は、『イリアス』4歌123行にあるトロイア方の勇士パンダロスの弓の引分けを描写した詩句の引用です。cf. Reinsch, p.349 注171

二つ目は、パンダロスの弓がかつて彼が仕留めた野山羊の角から出来ていた(同105-111行)ことを「狩人」の技という表現により想起させているのでしょう。
cf. Reinsch, p.350 注172

テウクロスに関わらずホメロス時代のギリシア人一般に関する具体的な弓術の様相を挙げているわけですが、それらをニケフォロスは用いないと否定することで、ホメロス時代を称賛するというよりもその劣位を指摘しているように見えます。

そして、④では、改めてニケフォロスの弓術の優秀さを称えます。

ニケフォロスは、神話の英雄ヘラクレスのように不死の弓から致死の矢を放ち、もし望みさえすれば狙ったままに見事に命中させるというのです。

Perseus Digital Library版のギリシア語原文のとおりの語順に番号を付して整理すると次のようになります。

「④❶しかし他のヘラクレスのように❷不死の弓から致死の矢を放ち❸かつ❹狙ったところへ見事に命中させる、❺もし望みさえするならば」

「④❶ἀλλʼ ὥσπερ τις Ἡρακλῆς ❷ἐξ ἀθανάτων τόξων θανασίμους ἀπέπεμπεν ὀϊστοὺς ❸καὶ ❹οὗπερ ἂν στοχάσαιτο κατευστοχῶν ἦν, ❺εἰ μόνον θελήσειε.」

相野洋三先生の邦訳では、ここを自然な日本語の語順に並び替えて訳していらっしゃいます。

「④❶しかし❺その気になりさえすれば、❹まさしく狙ったところへみごとに命中させ、❶もう一人のヘラクレスのように❷不死の弓から致死の矢を放つことができたのである」

ここで私が注目するのは、原文の❸καὶ「かつ」の解釈です。

❸の前後を分けて解釈するのか、それとも一体として解釈するのかで文意が微妙に異なってくるように思うのですが、いかがでしょうか?

読点で区切られた文末の❺「もし望みさえするならば」が❸を越えてその前までかかるのであれば、前文の③からの繋ぎのニュアンスに影響して、「〜ホメロスのギリシア人のようにはしなかったが、その気になればギリシア人のようにもできるのであって、ヘラクレスのように〜」というイメージになるかもしれません。

相野先生の訳では、この❸で特に前後を分けてはいらっしゃらないようです。

D. R. Reinschのの独訳でも同様です。
❸を訳出せずに読点で区切って独語的な並びで文末へと並べていますので、❺「もし望みさえするならば」が全体にかかるようにも見えます。

「④❶sondern wie ein Herakles ❷sandte er von unsterblichem Bogen tödliche Pfeile, ❹indem er sehr genau traf, wohin auch immer er zielte, ❺wenn er nur wollte.」

たしかに、『アレクシアス』の前後の流れからすると、ニケフォロスはラテン人を威嚇するにとどめ、矢を当てないように注意しています。

しかし、その気になればギリシア人のようにもできた、と解釈した場合には、新たな修辞としてヘラクレスへの擬えを追加していることになりますが、パンダロスと神的英雄ヘラクレスでは釣り合いが取れないように思います。

相野先生やReinschが使用しているテクストや注釈等を私は確認できておりませんので、非常に残念です。

ただ、私が参照した英訳2種類は❸を訳出してその前後で区切り、❺「もし望みさえするならば」は後半の❹「狙ったところへ見事に命中させる」だけにかけて解釈しているように見受けられます。

E. A. S. Dawes訳
「④❶but like a second Heracles, ❷he discharged deadly arrows from immortal bows ❸and ❺provided he willed it, ❹he never missed the mark at which he aimed.」

E. R. A. Sewter訳
「④❶But like a second Hercules ❷he shot deadly arrows from deathless bows ❸and ❹hit the target ❺at will.」

したがって、③から④にかけての文意は、「ニケフォロスがアポロンに匹敵するのは、ギリシア人のような弓の引き分けで狩人の弓技を示すものではなかったからであり、ヘラクレスのように不死の弓から強力な矢を放ち、そして、もし望みさえするならば狙ったところへ見事に命中させることができた」と解釈する余地もあるのではないでしょうか。

すなわち、ギリシア人のようにではなくヘラクレスのような弓技だと対照的に述べたうえで、望むなら標的に自在に当てられるのだと。

もちろん、原文の校訂などについてきちんと確認し、丁寧に比較したうえでなければ空想にすぎないのですが……

続く⑤は、古典の引用による修辞ではなく、ニケフォロスが競技や戦場において如何に正確に的を射当てたかを述べています。

そして、⑥では、改めてニケフォロスの弓技はホメロスの英雄テウクロス自身と両アイアスを「超える(ὑπὲρ)」ものだと評価しています。

ポイントとしては、「力強く弓を引き絞り、矢を鋭く(素早く)放つ(ἰσχυρὸν ἔτεινε τόξον ἐκεῖνος καὶ βέλος ἠφίει ὀξύτατον)」とあることから、弓の技量を示す指標として、⑤の「正確さ」に加えて「力強さ」と「素早さ」を挙げているのが目を惹きます。

ニケフォロスの弓術が明らかにテウクロスと両アイアスを凌ぐのは「正確さ」ではなく「力強さ」と「素早さ」であると解釈できるのではないでしょうか。

以上の解釈をまとめると、当該箇所の文意の構造は、次のようになります。

ニケフォロス = アポロン、ヘラクレス > ビザンツ若手選抜射手 = テウクロス(≒パンダロスなどホメロス時代のギリシア人)

L. A. Neville(p.51)なども、アンナ・コムネナに関する著書において、ホメロスの引喩については夫の英雄的な肖像を煌めかせる描写だと指摘するのみですが、文章構造の大枠については上記の読解と同じように解釈しています。


First she says that the other archers in his contingent were as good as Teucer, but Nikephoros had the bow of Apollo.
Then she says he did not shoot in the manner of the Homeric Greeks, but rather was like Heracles, shooting immortal arrows, and missing only on purpose.
Then she says that he in fact surpassed Teucer and the Ajaxes of the Iliad.
She describes his actions in the engagement glowingly with a number of Homeric allusions that burnish the heroic portrait she draws of her husband.

※本章は2022.9.12, 2022.9.14に改訂しています。
改訂箇所は「12(改訂履歴)「2 文意の解釈」」のとおりです。

3 プロコピオス『戦史』における弓術描写との関連性

それでは、アンナ・コムネナの描写が、ビザンツ帝国における具体的な弓術を踏まえて、ホメロス時代のギリシア人に対する優越という形でその水準を根拠づけているのではないか?という私の仮説に関する説明に移ります。

まず、6世紀のプロコピオスが記した『戦史』1巻の冒頭にある記述から、ホメロス時代の弓術と比較して、ビザンツ人が自分たちの弓術にどのような認識を持っていたのかを考えてみます。

ユスティニアヌス帝の戦争が古代の事績に比べて注目に値しないというような疑問に対して釘を刺し、ホメロスでは白兵戦の戦士に比べて軽んじられている「弓兵」が当代においては古代とは似ても似つかない強力な存在であることを述べている箇所です。

ホメロス時代の弓兵は、騎乗もせず、槍も持たず、盾や鎧で身を固めてもいないため、仲間の盾に隠れるなどして戦っていたと指摘しています。

これは、テウクロスがアイアスの盾に庇われつつ弓を射かけたこと(『イリアス』8歌261-272行)を下敷きにしているのかもしれません。

そして、ホメロス時代の弓術が弓弦を「胸(乳のあたり:μαζῷ)まで」しか引かず、威力がなかったと評価しています。

アンナ・コムネナが引用しているのと同じ『イリアス』4歌123行におけるトロイア方の勇士パンダロスの弓の引分けの描写に基づいた批評であることは注目に値します。

一方、プロコピオスの時代における装甲弓騎兵は弓弦を額に沿って右耳の後ろまで引き分け、防具を貫く強力な矢を放つのだと差異を強調しています。

プロコピオスは、トロイア戦争とペロポネソス戦争の比較から歴史を語り起こしたトゥキュディデスに倣い、ホメロス時代からの重要な変化を読者に意識させようとしたのでしょう。

こうした史書執筆の伝統を鑑みれば、何らかの形でアンナ・コムネナがプロコピオスの議論を知っていたとしてもおかしくないと思うのですが、いかがでしょうか……

そして、もしそうであるのならば、ホメロスの弓術描写からの引用は、そもそも最高水準の弓術を形容するような修辞ではなく、素晴らしい妙技ではあっても一段下の水準を暗示する表現だったのではないでしょうか。

さらに言えば、アポロンやヘラクレスに擬えた形容であっても空想上の弓技や仰々しい美辞ではなく、あくまでも現実世界における具体的な最高水準の弓術を念頭に置きつつ、ホメロスの英雄を上回るとしたら神々以外にはないという選択をしたうえでの賛辞だったかもしれません。

4 ビザンツ時代の戦闘射法 〜速射と強射〜

それでは、プロコピオスが誇ったビザンツ時代の弓術とはどのようなものだったのでしょう。

一般的に6世紀末頃の成立とされている軍事書『ストラテギコン』は、冒頭の個兵訓練を歩騎の弓術から語り始め(1. 1)、40歳までのローマ人はすべて弓と矢筒を保有しなければならない(1. 2. 8)と定めるほど弓戦を重視していました。

具体的な弓術の特徴としては、歩射・騎射ともに速射に重点を置いていることが挙げられます。

狙いが正確でも発射速度が低ければ無意味だとして、ローマ式の射法とペルシア式の射法のいずれにおいても速射の訓練をするよう求めています(1. 1)

ペルシア人は強射よりも速射に熟達していたという記述がある(11. 1)ことから、速射は主にペルシア式射法の得意分野であったことが分かります。

いったい、どのくらいの速さで連射することが求められたのでしょうか?

参考までに、14世紀頃のマムルーク朝の弓術書(Saracen Archery:略記SA, p.138)における速射は、3矢をひとまとめに持って約75ヤード(69m)先の標的へ矢継ぎ早に放ち、1射目の埃がたっている内に3射目を放ち終えることができるよう訓練するとしています。

これは、だいたい1.5秒間で3本の矢を放つ頻度に相当します(cf. SA, p.142)

十字軍の年代記はサラセン騎兵が信じがたい密度と素早さで矢を射かけてきたと伝えているそうですが、たしかに頷けます。

通常、よく狙いを定めて射るのであれば1分間に8本以上は困難だと考えられていますので(cf. SA, p.142)、いかに高密度で矢を放つのかが窺われます。

強射のように一杯まで時間をかけて弓弦を引き絞っていくのではなく、瞬間的に引き分ける訓練が必要となるでしょう。

また、次に使う矢の束を弓弦を引く馬手の余った指で握っておいたり(日本の弓道でいう「取り矢」)、弓手で弓幹と一緒に持つなどして、素早く次々に矢を放つ技法を用いたかもしれません。

cf. Loades, 2016, pp.54-57 ; Alofs, II, p.21; Arab Archery(略記AA)45; ibid., 注76

ちなみに、イングランドで使われた有名なロングボウの場合、M. Loades(2013, p.69)は発射速度は1分間に8本と考えるのが合理的だとしています。

現代の優れた射手が140ポンド(63.6kg)の弓で1分間に10本の矢を放った記録があるそうですが、それでも2分間に20射できるわけではないだろうと述べています。

R. Mitchell(2008, p.242)は、ロングボウの発射速度を1分間に10本から12本、よく狙うならその半分だが正確性を犠牲にすればもっと多く放てるとします。

S. Gorman(220f.)は、実戦では1分間に6本程度を射耗する程度だったのではないかとしています。

一方、ローマ式の射法は強射を特徴としていたと考えられています。

プロコピオス『戦史』(1. 18)は、ペルシア軍の速射と対比してローマ軍の弓勢が強かったことを強調しています。

6〜9世紀頃に成立したシュリアヌス・マギステルの『ペリ・ストラテギケス』(cf. Rance, Battle, p.346)に収録されている「ペリ・トクセイアス」という弓術の訓練方法を扱った小編が、ビザンツ弓術の具体的な内容を推測するうえでの貴重な情報源となります。

「ペリ・トクセイアス」(44)は、弓術の目標を「正確さ(τὸ εὐστόχως βάλλειν)」「力強さ(τὸ ἰσχυρῶς βάλλειν)」「速さ(τὸ ταχέως βάλλειν)」の3つだとして、それぞれの訓練方法を述べています。

「正確さ」については、大きな的から徐々に小さくしていく段階的な訓練方法が説明されています(45)

「的をはずし続けると心が折れてしまうかもしれない」という配慮や、だんだんと標的の幅を狭めて横方向のずれを矯正してから高さを絞る、といった合理的で無理のない教育法が目を惹きます。

射撃系の武器は、距離を見定めて仰角をとるほうが横方向の照準よりも感覚をつかむのが難しいからです。

cf. Amatuccio, p.77

また、装置を用いた移動標的にせよ鳥獣にせよ、動く標的に対する訓練の重要性が記されています。

標的に命中させるというのは狩猟でも戦闘でも変わらない当然すぎる要求であり、しかも射法や弓具といった技術よりも個人の技量という属人的な問題に左右される余地が大きいでしょう。

「ペリ・トクセイアス」が「正確さ」の訓練において初心者に対する導入を特に意識しているのは、弓術にとっての基本という扱いなのだと思います。

実戦的な弓術において、より重視されるのは意識的な「速さ」や「力強さ」なのでしょう。

これらは『ストラテギコン』の趣旨にかなっています。

「正確さ」を競うことに特化した現代の競技弓術とは事情が異なるのです。

cf. Amatuccio, p.73

「ペリ・トクセイアス」(47)は、速射に関してはテクニックよりも常に練習するのが大事だとしていて身も蓋もありません。

速射に秀でた射手と並ばせ、放つことができた本数の差を目に見える形で意識させつつ訓練する方法が述べられています。

私見ですが、速射はペルシア式やローマ式といった射法のいずれにおいても追求すべき目標であるため、具体的なテクニックの詳細は実技指導に委ねているのかもしれません。

一方、強射については、張力の強い弓を用いるか、あるいは長い矢で引き幅を広くすることで達成されるといいます(46)

具体的な技術上の問題が焦点となっていることが注目に値します。

また、さらに詳細な点に関しては、射法の種類を説明する箇所から読み取ることができます。

馬手(右手)で矢をつがえた弓弦をつかむ取懸けの方法と引き分ける位置の種類に応じた特長を述べています(44)

取懸けの方法については、3本の指を使う方式、2本の指を使う方式、2本の指と親指?を使う方式(親指で上から押さえる、又はその反対)の3種類があり、それぞれに習熟して疲労したら切り替えるよう求めています。

このうち、2本の指と親指?を使う取懸けが最も広く、そして力強く引き絞れると特筆しています。

また、弓弦を引き絞る位置が、胸まで、首まで、耳までの順で弓勢が強くなるのであり、アマゾンは力が弱いので胸までしか引けずに片胸を取り去っていたと述べています。(44)

一般論としていうと、弓を低い位置でかまえて胸まで引く場合には、視野を遮られない、仰角をとった曲射をしやすいという利点はありますが、背筋が十分に使えず引き幅も狭いため張力の強い弓は使えません。

耳まで引く場合には、引き幅が広くなるとともに視線と矢先への軸線が近くなり、力強い低伸弾道での直射をしやすいでしょう。

cf. Amatuccio, p.76

つまり、強射に優れたローマ式の射法とは、2本の指と親指?を使った取懸けを用いて耳まで引き分ける射法だったのではないかと推測することができます。

「ペリ・トクセイアス」(46)は、強射の訓練においても競争心をくすぐる合理的な工夫を取り入れています。

矢が命中すると回転し、角度の目盛りによって衝撃の強さが一目で分かる円盤型の標的装置を紹介しています。

5 親指(蒙古)式の取懸けの導入

『ストラテギコン』のいうローマ式とペルシア式の差異を取懸けの方式の違いに対応して解釈する説は、1970年代にA. D. H. Bivarが提唱しました。

取懸けには地域や文化により様々な種類があります。

古くからギリシアやローマなどで用いられていた地中海式は、主に人差指、中指、薬指の3本の指で弓弦をつかんで引き分けます。

現代のアーチェリー競技でよく用いられている方式です。

ホメロスの歌う英雄たちは、この方式で弓を引いていたと考えられます。

画像1

一方、アヴァール人や突厥人などが使用していたと考えられている親指(蒙古)式では、親指に弓弦を引っかけてロックし、他の指を添えて引き分けます。

日本の弓道で用いられている方式です。

画像2

地中海式に比べて、親指式の取懸けは2インチから3インチ(5.1cm〜7.6cm)ほど引き幅を広く引き分けることができるとされています。

cf. AA, 補遺12

地中海式でも耳まで引き分けることは可能であり、イングランドのロングボウでも耳(頭)まで引いていました。

cf. Strickland & Hardy, p.47; Loades, 2013, p.16

しかし、日本の弓道を見れば分かるように、親指式は引き幅を取りやすいと考えられます。

Bivar(284f.)は、ローマ式とはローマ人がフン人から新しく導入した親指式の取懸けを指し、対照的にササン朝ペルシアは最後まで地中海式だったのではないかと推測しました。

この説に基づいて、「ペリ・トクセイアス」に記されている取懸けの種類に親指式が含まれていると解釈する見方が一般的です。

cf. Dennis, 1985, p.129; Amatuccio, p.74; Kolias, 235f.

「3本の指を使う方式」を地中海式、「2本の指と親指?を使う方式」を親指式とみなすのです。

それでは、いつ頃、どのようにしてローマ人は親指式を知ったのでしょうか?

一般的には、親指式の取懸けをローマ人はフン人やアヴァール人など中央アジアの遊牧民から導入したと考えられていますが、はっきりとしたことは分かりません。

親指式の使用を示す明確な証拠になるのは、弓弦を引っかけるために親指にはめる指輪(サムリング)です。

しかし、サムリングは腐食しやすい革製の場合もあるうえ、ローマ・ビザンツ時代の確実な遺物の出土例もありません。

M. C. Bishop et al.(kindle Ed., p.168)は、親指式の導入は少なくとも4世紀末以降だと考えています。

cf. Dixon, kindle Ed., 55f.

S. T. James(1987)はドゥラ・エウロポスの出土品から3世紀まで遡るとしましたが、仮説にとどまっています。

ある出土品をサムリングの破片だとしたうえで、出土している完全な矢の後部は矢筈近くに矢羽がついていることから、引き指と干渉しないように離れて矢羽をつける地中海式ではないとした推測です。

また、弓弦が前腕に当たるのを防ぐアームガードの使用から間接的に地中海式が用いられていたことを推測し、親指式の普及した時代を推定するための補強材料とすることができるかもしれません。

着けなくても構わないのですが、矢を弓幹の左につがえる(cf. Farrokh et al., p.86; Loades, 2016, p.29)地中海式のほうが使われる頻度が高いとも考えられます。

2世紀に建立されたトラヤヌス記念柱(scene70)に彫られている弓兵はアームガードを着けており、4〜5世紀頃のウェゲティウス(1. 20)もアームガードに言及しています。

cf. Bishop et al, kindle Ed., p.168; Dixon, kindle Ed., p.55

ただし、上述のとおり地中海式も親指式と併存していたうえ、12世紀のエウスタシオスが言及している手袋(χειρίδες)を弓懸けではなくアームガードだとする見解(cf. Kolias, p.236)もありますので、あくまで参考程度となります。

もっとも、地中海世界とその近隣における親指式の使用については、出現の時期や地域をめぐって様々な説が出てきているため、単線的なストーリーを想定することは難しいかもしれません。

メロエからはサムリングと見られる出土品があり、紀元前のアッシリア、エジプト等においても親指式の一種が用いられていたのではないかとの説もあります。

cf. Wachsmann et al.; Loades, 2016, 30f.

Bivarはローマとの対比でササン朝ペルシアが最期まで地中海式のみを用いたとする仮説を提示していましたが、近年では否定的な見解もあります。

Farrokh et al.(p.91)は、ササン朝の末期には、人差指と小指を伸ばして2本の指で弓弦を引く特徴的なペルシア式の取懸けに加えて親指式が併存したと推測しています。

このペルシア式は、地中海式の一種であるフランドル式やハンガリー式と呼ばれる2本の指を用いる取懸けに似たものだったのかもしれません。

「ペリ・トクセイアス」は「2本の指を使う方式」や「2本の指と親指?を使う方式」のうちの親指で上から押さえる方法にも言及しています。

一方、Loades(2016, p.31)は、このペルシア式は図像史料上では裏側となる親指が隠れているため、親指式の一種だったのではないかと推測しています。

さらに言えば、上述の「4 ビザンツ時代の戦闘射法 〜速射と強射〜」において検討したローマ式とペルシア式の特長を強射と速射で対比させる説明も、絶対的なものではないということは断っておく必要があります。

弓弦を引く馬手の小指と薬指で次の矢を握っておく日本の弓道でいうところの「取り矢」などの速射技法も、地中海式の取懸けよりも親指式のほうが容易かもしれません。

cf. Özveri et al, p.20

文献史料の記述にも注意が必要です。

アンミアヌス・マルケリヌス(25. 1. 13)はペルシア人が弓弦を「右胸まで」引いた(ut nervi mammas praestringerent dexteras)と描写していますが、この箇所の表現は文学上の修辞にすぎないと考えられています。

ペルシアの図像史料では弓弦を耳の辺りまで引いている事例が多いからです。

ペルシア人の弓勢の弱さを述べる史料については、ビザンツの鎧が強固だったことによる相対的な誤認ではないかという意見もあります。

cf. Kolias, p.234

やや議論を錯綜させてしまいましたが、ローマ人が紀元後になってから外部の影響により親指式の取懸けを導入したであろうという点については少なくとも信憑性が高いと考えてよいのではないでしょうか。

ローマ式の射法が強射に優れているという言説に関しては、ペルシア式との対比という面に力点を置くのではなく、胸まで引くのか耳まで引き分けるのかという観点に重点を置いて解釈すべきだということになるでしょう。

【コラム:親指式の取懸けと鐙の導入はビザンツ帝国に軍事的な優位をもたらしたか?】

ユスティニアヌス帝の西征やヘラクレイオス帝の対ササン朝ペルシア戦争において、ビザンツ軍の弓射、特に騎射が威力を発揮したと言われています。

ササン朝ペルシアが最後まで鐙と親指式の取懸けを導入しなかったというBivar(290f.)の仮説は、こうしたビザンツ軍の軍事的な優位を根拠づけるものとして用いられることがあります。

例えば、M-A. Karantabias(2005)はヘラクレイオス帝がササン朝ペルシアに逆転勝利できた要因を騎射技術の革新に求めています。

アヴァール人から鐙を取り入れて騎射の姿勢を安定させ、フン人から親指式の取懸けによる射法を学び、速射に優れるものの弓勢に劣るペルシア騎兵の弓をアウトレンジして優位に立てたのではないかという仮説です。

しかし、先進技術による比較優位で軍事的消長を図式化するこうした技術決定史観は、まるでカードゲームの手札のように各技術の優劣を暗黙のうちに設定したうえで直線的な「進歩」により歴史を叙述してしまうきらいがあります。

また、前提とされている特定技術の存在の有無という一点が崩れるだけで立論が揺らいでしまう危険を伴います。

E. Alofs(I, pp.431-433)は、6世紀にはビザンツ帝国だけでなくササン朝ペルシアでも既に鐙が知られていた可能性を指摘しています。

鐙がアヴァール人を経由して伝播したのだとすれば、長い騎兵用コートや吊剣・矢筒位置の変化といった点で既に6世紀にはその影響が見られることや、『ストラテギコン』(1.2)が言及する鐙が金属製であり、木製のものより洗練されてきていると思われる点などを根拠に挙げています。

また、上述のとおり、ササン朝ペルシア人も親指式の取懸けを導入していた可能性があります。

少なくとも、耳まで引き分けることのできる独特の射法を持っていたと考えられます。

Karantabiasはヘラクレイオス帝による兵士の訓練や同盟に成功した西突厥の影響なども挙げていますが、ぴったりこのタイミングで新技術が導入されたわけではないのであれば、反攻作戦を開始するまでヘラクレイオス帝の下でもビザンツ軍がペルシア軍に負け続けていたことを説明する根拠が薄いと個人的には思います。

技術決定論的な考察には、その限界があることに留意しておく必要があります。

6 弓戦における使い分け

「ペリ・トクセイアス」が要求しているように、実戦的な弓術では、特定の射法に頼るのではなく、目的や状況に応じて使い分ける必要がありました。

この点において、現代の競技弓術のイメージとは大きく異なります。

速射や強射といったテクニックをそれぞれ用いる場面は、あくまでもビザンツ軍の戦争様式や戦術体系の中で弓戦に求められる役割に沿って考察する必要があるからです。

まず、参考として、Alofs(III, p.136)がモデル化している後550年から1350年にかけての「イラン的な伝統」における装甲騎兵の弓戦装備と用法を紹介したいと思います。

中世におけるビザンツ帝国と中東の戦争術は、共に後期ローマ帝国やササン朝ペルシアなどの古代国家以来の連続した伝統を引き継いでおり、互いに戦火を交えるだけでなく中央アジアからの遊牧民による侵攻にさらされるなど、共通の土壌に立っていました。

Alofsは、装甲騎兵を中心とした戦争様式について大括りにした場合、ビザンツ帝国も「イラン的な伝統」の下に包摂されると考えています。

もちろん、時代や国・地域によってだいぶ異なるのは当然ですので、あくまでも特徴を捉えるためのモデルとしてになります。

装甲騎兵は槍、剣、棍棒など様々な武器を携行しますが、まず弓矢が重視されていました。

矢筒には20本から40本、通常は30本の矢を収納します。

ほとんどの矢は遠くから放たれるように設計されており、軽い棒状の矢柄(中央が太く樽型で、鏃と矢羽に向かって細くなる)に比較的小さく鋭い鏃がついています。

この軽矢は、panjīkanと呼ばれる速射技法により素早く射ることができます。

近距離から鎧を貫通するためには、nīkanと呼ばれる強射技法を用います。

太く硬い平行の側面軸をもった矢柄に円錐、三角錐、弾丸またはノミ型のボドキン鏃をつけた重矢を使います。

bārīkanと呼ばれる狙撃技法の場合には、より強い推進力をもたせて放つために、広い引き幅に耐える長い矢柄の矢を使用します。

この矢は、矢羽の部分に向かって細くなる矢柄に重いボドキン鏃をつけたものでした。

非装甲の人馬を射るには、平らな葉型・へら型などの鏃を用います。

広刃の刃物は傷口を大きく開け、出血を多くするからです。

Alofs(II, 21f.)は、この速射技法(panjīkan)を『ストラテギコン』のペルシア式に、強射技法(nīkan)をローマ式に対応させて考えています。

それでは、具体的にはどのように使い分けるのでしょうか?

弓矢の威力について述べられた、一見すると相反するように見える史料が手がかりになります。

アンナ・コムネナ『アレクシアス』(10.9.7; 13.8.1)には、胸甲、鎖帷子、凧型盾を装備したケルト(フランク)人は矢に対して不死身に近いため、馬を狙うよう指示したという記述が出てきます。

ところが、同じ『アレクシアス』(10.9.9)には、夫ニケフォロスの放った矢がラテン人の長盾を貫通して胸甲を切り裂き、脇腹深くに突き刺さったという記述も見られるのです。
本稿の主題とする箇所から続く場面です。

Mitchell(2006, p.24)は、『ストラテギコン』(1.2)が騎兵弓について各人の引くことができる張力の限度よりも弱めの弓を装備するとしていることを傍証として、この最初の記述をビザンツ兵の弓勢が西方の鎖帷子に対して威力不足だったことを示すと考えています。

少し弱めの弓を使うようにとの推奨は9世紀末〜10世紀初頭頃のレオン6世の『タクティカ』(6. 2)にも見られるため、ビザンツ時代を通じた一般的な認識だったと思われます。

しかし、『ストラテギコン』(1.2)の記述は、騎兵の装備について述べたくだりであることに注意する必要があります。

実のところ、そもそも馬上で用いる弓は歩射の場合に比べて少し張力が低いのが一般的です。

不安定な足場で、馬を制御しつつ射る必要があるからです。

cf. Paterson, p.85; Alofs, III, p.146; Loades, 2016, p.72; Ureche, 2013, p.189; Dixon et al., kindle Ed., p.53; Goldsworthy, p.184

さらに、徒歩の場合とは異なり、標的に向かって最適な身体の向きをとれるとは限りません。

例えば、自由に下半身の向きを変えられないため、馬首の方向に射るときには、胸と両腕を開いて肩甲骨を寄せるように目一杯に背筋で引き絞ることはできないのではないでしょうか。

また、弓騎兵同士の戦闘は、射ることのできる弓手(左手)側に敵を捉えつつ相手の死角となる右後方に回り込もうとするため、互いに反時計回りに円を描いた動きをとることが多くなります。

軍勢の側面や離脱する部隊の後方を護るために、一部の兵士には弓を右手に持ち替えても使用できる技量が望まれました。

cf. Alofs, II, p.18, p.22; Junkelmann, p.170

つまり、私見ですが、馬を狙うという戦術自体が一時的な便法ではなく伝統的なビザンツ帝国の弓戦思想に則った発想であり、弓矢の絶対的な威力不足を示すものではないように思われます。

レオン6世の『タクティカ』(18.23)も、サラセン人などの馬を狙うことを推奨しています。

アンナ・コムネナが戦術書に造詣をもっていたかどうかには議論がありますが、少なくともある人物を「アイリアノスの戦術書に無知ではなかった」(15.3.6)と形容しています。

レオン6世のタクティカはアイリアノスを参照していることが知られています。

同じイラン的な伝統に基づく中東の騎兵戦闘においても、相手が騎槍で攻撃してくるときは、距離を保ち、より大きな目標である馬を狙うのが賢明だと考えられていました。

cf. Alofs, II, p.23; AA 45

Strickland & Hardy(p.101)は、12世紀の間中、西欧人の防具は進歩を続けており、十字軍兵士に対するサラセンの矢の脅威は減少していったと考えていますが、貴重な乗馬への損害は悩みの種であったと述べています。

弓騎兵を典型とするような、流動性が高く射撃機会も限られる弓戦においては、軽装甲の人馬へのダメージや撹乱・妨害を狙った、遠距離からの軽矢による濃密な「速射」(=panjīkan)が重視されました。

矢筒で携行する矢の多くは、この軽矢でした。

しかし、それしか手札がなかったというわけではありません。

鎧通しの矢を用い、距離を詰め、あるいは思い切って下馬して足元を固め、力強い「強射」(=nīkan)を浴びせることもできたのです。

この場合、弓矢は個人の技量差が非常に大きいものですので、騎兵弓の張力が弱めだというのは、あくまでも相対的な基準にしかなりません。

徒歩では別の強弓を用いることもできたでしょう。

想像にすぎませんが、ニケフォロスはラテン人を牽制する際には敵を寄せ付けないように「速射」で矢継ぎ早に矢を放ったのかもしれません。

しかし、城壁に接近してきたラテン人が侮辱の言葉を発してきたとき、その者に狙いを定めて徒歩で弓を引き絞り放った矢は、盾はおろか胸甲さえも貫き、相手は一言も発することなく地に倒れたといいます。

力強い「強射」の好例ではないでしょうか。

ニケフォロスの矢は「無駄には飛ばなかった」(10. 9. 9)のです。

上述の「2 文意の解釈」において、アンナ・コムネナの記述における⑥の箇所は、ニケフォロスの弓術が明らかにテウクロスと両アイアスを凌ぐのは「正確さ」ではなく「力強さ」と「素早さ」であるという解釈を提示しました。

標的に命中させる弓技の精妙さという点では古の英雄たちを低く評価する必要はないにしても、弓具・射法の進歩に裏付けられたビザンツ弓術における「強射」と「速射」はホメロス時代を凌ぐものだという自負が表れている表現のように感じられるのです。

7 ビザンツ時代に用いられた複合弓

ホメロス時代からの弓術における変化は、射法だけではありませんでした。

アンナ・コムネナはアポロンに例えたニケフォロスの具体的な弓技をヘラクレスに擬えています(④)が、彼の致死の矢は「不死の弓から」放たれるといいます。

アンナ・コムネナが認識していかどうかは分かりませんが、ビザンツ帝国で使用されていた弓についても簡単に触れておきたいと思います。

イングランドのロングボウのように1つの素材から作られた単弓とは異なり、ビザンツ帝国から広く東方において主に使用されたのは複数の素材を組み合わせて構成した複合弓(composite bow)でした。

構造に応じて細分化し、それぞれに合成弓、複合弓、強化弓といった訳語を用いることもありますが、研究者によって分類法が異なるうえ実際の弓の種類が綺麗に当てはまるわけでもありません。

よって、本稿では「複合弓」として概括しておくにとどめます。

具体的なその形式については、主に図像史料からの推定に頼ることになります。

cf. Kolias, p.214; Amatuccio, p.30

ビザンツの弓としてまず挙げられるのは、中央アジアを起源とする、広義でいうスキタイ弓の系統に属するリフレクス・ボウ(反射弓)です。

リフレクス(反射)とは、弓弦を張らない状態の弓幹が射手から逆側に反り返っている形状のことです。

射手側への湾曲(デフレクス)と組み合わせた形状はリカーブ(反曲)と言います。

cf. Loades, 2016, 6ff.

スキタイ弓は、弓を張ると中央の弓柄(握)の上下で弓幹がそれぞれ張り出したアーチを描く形状になるのが特徴です。

cf. Junkelmann, p.162; Amatuccio, p.25; Ureche, 2013, p.185

キューピッドの持つ短弓をイメージすると分かりやすいと思います。

狭義でいうスキタイ弓は骨製の補強材を用いない短弓で、弓弭のあたりが丸まった形をしています。

遅くともヘレニズム期以降、東地中海やローマ世界で広く用いられました。

cf. Junkelmann, p.162

ストラボンやアンミアヌス・マルケリヌスなど古代の文筆家は、スキタイ弓の形状を黒海の形になぞらえています。

cf. Dan

アンミアヌス・マルケリヌス(22.8.37)は、スキタイ人やパルティア人の弓だけが上述のような形状であるのに対して、その他の諸民族の弓は弓柄も含めて全体が湾曲していると述べています。

ローマ元首政・帝政期においては、スキタイ弓のほかにそうした様々な複合弓も併存して使われていました。

構造面での特徴は、骨や角でできた補強材による弓弭の強化です。

また、弓柄の上部にある弓幹が長く、下部が短い非対称の形状が見られます。

cf. Bishop, p.164

ユーフラテス川沿いのBaghouszの墓所から出土したYrzi弓がその一例です。

cf. Brown

スキタイ弓より大型(弓長147cm)で、弓柄が弓幹から奥まった位置をとらない形状をもち、前1世紀から後3世紀頃のものと考えられています。

主に近東で使用された形式であり、メディア型あるいはパルティア人の弓に比定されることもありますが、具体的なところは議論があり明確ではありません。

cf. Waele, p.156; Westermeyer, 6f.

ローマ帝政後期には、騎兵はコンパクトな反射複合弓を、徒歩弓兵は大型の複合弓を使用していたと考えられています。

cf. Elton, p. 28

ローマ帝政末期からビザンツ初期の頃までに、ローマ人はサルマタイ人、フン人、アヴァール人との接触を通じて、スキタイ弓系統の発展型であるフン弓を導入しました。

cf. Junkelmann, p.165; Bishop, p.205; Westermeyer, p.8; Kolias, 214f.; Anderson, kindle Ed., 190f.

より大型で、弓弭や弓柄に骨製の補強材を加えた強力な弓であり、騎射にも使いやすい上下非対称の形状を持つこともありました。

cf. Loades, 2016, 17f.

プロコピオス『戦史』(1. 18)は、ペルシア軍の弓射は速射に優れるものの威力が弱く、対するローマ軍の弓は張りが堅くて発射速度は劣るものの防具を貫いたと記しています。

中国の楼蘭近郊にあるQum-Daryaから出土した紀元1世紀から3世紀頃のものと推定されている遺物(弓長約150cm)が典型的なフン弓と言われています。

cf. Junkelmann, p.165; Amatuccio, p.31; Westermeyer, p.8

ビザンツ期に主流だったのは、おそらくこのフン弓の系統に属するものだったと思われます。

ビザンツ帝国の弓の大きさに関する唯一の具体的な情報を伝えている10世紀中頃のシュロゲ・タクティコルムは、装甲騎兵の弓の長さを15〜16パライスタイπαλαισταί(約117〜125cm)としています。

cf. Kolias, p.216

G. Amatuccio(p.30)は、文献と図像史料から導かれる仮説として、ビザンツの弓はモンゴル弓やトルコ弓のように硬化された弓弭とスキタイ弓のようなまっすぐで硬質の弓柄をもった反射式で、長さ120cmほどだったと推測しています。

E. B. Anderson(kindle Ed., p.191)は、フン弓の影響を受けた114〜122cmの短く強力な弓だったとしています。

また、軍船に配備される「ローマ式」の弓という記述から、少なくとも10世紀にはビザンツ軍で独自形式の複合弓が発達していた可能性もあります。

cf. Kolias, p.215

ユスティニアヌス帝は私人による弓の製造販売を規制しており、少なくともビザンツ初期においては官営で生産されていたようですが(cf. Kolias, p.216)、後代になればなるほど装備の統一は難しくなっていったかもしれません。

上述のとおり、アンナ・コムネナはホメロス時代のギリシア人の弓術を「狩人」の技とも表現しています(③)

Reinsch(p.350 注172)は、『イリアス』(4歌105-111行)においてパンダロスの弓がかつて彼が仕留めた野山羊の角から出来ていたと歌われているくだりとの関連を指示しています。

当代のビザンツ帝国における複合弓が仕留めた獲物の角を繋ぎ合わせたというパンダロスの弓よりも複雑な構造を持つ強力な弓であったことを意識した表現だったのかは分かりません。

しかし、ヘラクレスの「不死の弓」は、狩人の技を誇示するパンダロスの弓よりも優れていたとしても不思議はないでしょう。

8 アンナ・コムネナの時代における最高水準の弓術とは?

射法や弓がホメロス時代から進歩していたとして、アンナ・コムネナがアポロンの弓と称えたニケフォロスの腕前は、単にビザンツ軍中における第一人者というイメージなのでしょうか?

最後に、ビザンツ軍の変遷と外敵の脅威について概括しつつ、この点を考えてみたいと思います。

ユスティニアヌス帝やヘラクレイオス帝の時代に活躍したのは、槍・弓・剣を装備したオールラウンダーの装甲騎兵でした。

前時代のクリバナリイに比べてやや防具は軽装となりつつ、従来からの槍に加えて、装甲弓騎兵(cataphractarii sagittarii)という呼び名がふさわしいほど騎射を重んじていました。

アヴァール人やフン人の影響を受けたこの槍/弓両使いのカタフラクト部隊が当時のビザンツ軍の主戦力でした。

しかし、ビザンツ帝国におけるその後の弓術、特に騎射の水準は全般的に低下していく傾向にあったと推測されます。

レオン6世の『タクティカ』は繰り返し弓術の軽視が今日の災いになっていると説き(6. 5.; 11. 41)、40歳までのローマ人はすべて弓と矢筒を持つように(6. 5)、すべての男性ごと又は各家庭に1つは弓1張と40本までの矢を備えるように(20. 81)といった指示を与えています。

また、レオン6世の頃には装甲騎兵は槍騎兵と弓騎兵に専門分化していきました。

cf. Anderson, kindle Ed., p.190

軽装の弓騎兵や、特に徒歩弓兵が重視されましたが、傭兵への依存もあり、弓兵の技量水準を確保するのは難しかったかもしれません。

10世紀後半の『プラエケプタ・ミリティア』などは、石突を地面に刺して槍を構えた歩兵の中空方陣でアラブ騎兵などの襲撃を防ぎ、徒歩弓兵の弾幕射撃で対抗しつつ味方騎兵の出撃拠点となる戦術を伝えています。

cf. McGeer, 1988

しかし、こうした槍兵戦術は10世紀末までには廃れてしまいました。

11世紀にはノルマン人、フランク人やトルコ人の騎兵襲撃に対抗できる歩兵部隊の能力が低下し、最良の募兵基盤であるアルメニア方面の失陥によりビザンツ軍の弱体化が進みます。

cf. Makrypoulias, 249ff.

各国に優れた徒歩弓兵を供給していたアルメニア兵はビザンツ帝国の対騎兵戦術において重要な位置を占めており、脅威を増すトルコ人との戦闘に欠かせない存在でした。

cf. Takirtakoglou, 197f.; p.203

W. E. Kaegi(1964)は、11世紀後半からビザンツ帝国の東正面において主敵となるセルジューク朝のトルコ人がアナトリアを席捲した勝因を、その優れた弓術にあるとした論文を著しています。

騎馬に秀でた遊牧民の伝統を引くセルジューク朝のトルコ人は、モンゴル弓に似た強力な東トルキスタン型の複合弓などを用いたと考えられています。

cf. Özveri et al., p.18

もちろん、帝国に対する脅威は東方だけではありません。

アンナ・コムネナの父であるアレクシオス・コムネノス帝が即位当初に取り組んだのは、西北方面におけるノルマン人の脅威への対処でした。

1083年以降、敗北により弱体化した伝統的な歩騎のタグマを基幹としたビザンツ軍の編制を大きく変更し、軍の幹部にも外国人を登用する方向に踏み出しました。

cf. Meško, p.68

M. Meško(p.69)は、トルコ人の傭兵やセルジューク朝の支援により再建されたビザンツ軍の変質の重要な側面として、「遊牧民的騎兵戦術への変質(nomadisation)」を指摘しています。

ノルマン人の撃退後には残存兵士を吸収して西方的な要素が一時的に増加しますが、1080年代後半にはペチェネグ人との戦いが始まり、再びビザンツ軍は装備や戦術体系においても遊牧民的な戦闘様式へ傾斜していきました。

1090年代前半に頂点に達したこの傾向は、同後半には十字軍の開始などを受けた西方からの傭兵の受入増加により再度反転することになります。

cf. Meško, 70ff.

つまり、アンナ・コムネナの時代にあっては、ビザンツ軍は確固たる伝統に基づいた固有の戦闘様式を持つ存在ではなく、単に傭兵を雇用するというよりは時々の外国人部隊と幹部が中核的な軍事力として軍のあり方を左右する状況だったのかもしれません。

さて、こうした当時の軍事的状況を踏まえたうえで最初の問いに戻ります。

アポロンの弓とは、具体的にはどのような弓術の水準をイメージしたものなのか?

まず、ビザンツ人の貴族層が尊敬されるべき条件として伝統的に弓術は重んじられてきました。

cf. Kolias, p.233

アンナ・コムネナ『アレクシアス』(14. 1. 3)は、エヴマシオス・フィロカリスという人物の知力と忠実を評価しつつも、軍事教育を受けたことがなく、「弓を構えて、弓弦を胸まで引き絞る」ことも、長盾で身を守る術も知らなかったと述べています。

アレクシオス・コムネノス帝も自軍に弓術の訓練を施すことに熱心でした。

cf. Kolias, p.233; Kaegi, p.107

しかし、「弓の技で知られた」エオルイオス・ピロス(『アレクシアス』5. 6. 2)をはじめ、アレクシオス・コムネノス帝に仕えた弓術達者の軍人は、その名前や出自から遊牧民的な背景が推測されています。

cf. Meško, p.68

つまり、当時のビザンツ人がイメージする最高水準の弓術とは自分たちの伝統に則ったものではなく、自国を脅かす外敵も含めた外国のものだったように思われるのです。

アンナ・コムネナ(『アレクシアス』13. 8. 2)は、中央に青銅製の突起があるケルト(フランク)人の盾は、矢はスキタイのものであれ、ペルシア人のものであれ、巨人の腕によって放たれたものであれ弾き返すと述べています。

彼女が挙げた優れた弓射の例である「スキタイ」や「ペルシア」が古典的な伝統に則った単なる修辞なのか、それとも東方の弓術を実際に評価していたのかは定かではありません。

cf. Kolias, p.215 注9

しかし、スキタイは伝説においてヘラクレスとその弓に結びつくイメージがあります。

ニケフォロスの腕前を称賛するにあたり、アポロンの弓という表現を具体的に言い換えたヘラクレスのような弓技とは、当時ビザンツ軍にとって脅威であった騎射に長けた遊牧民の驚異的な弓術を基準としても抜きん出ているという明確な評価を与えるものだったのではないでしょうか。

アンナ・コムネナ(『アレクシアス』15.3.7)は、トルコ人の弓技について、こう述べています。

矢を射れば、放たれた矢は馬あるいは乗り手に命中し、ことのほか強力な腕から放たれれば身体を貫通する。それほどに彼らの弓さばきは長けている。 相野洋三 訳『アレクシアス』p.519より

9 まとめ

アンナ・コムネナは、夫ニケフォロス・ブリュエンニオスの弓の腕前を「アポロンの弓」と表現しました。

彼に従うビザンツ軍の若手選抜射手はホメロスの歌う英雄テウクロスに比肩するけれど、ニケフォロスはそれを上回る神の領域だというのです。

一見するとホメロスの詩句を引用した古典教養豊かな修飾的賛辞にすぎないように思われますが、当時の現実的な弓術に対する評価を踏まえた表現だったのかもしれません。

アンナ・コムネナは、ユスティニアヌス帝時代の装甲騎兵が用いた弓術に比べて「胸(乳)」までしか弓弦を引かないホメロス時代の弓術は劣っているとプロコピオスが記していることを認識していたのではないでしょうか。

ユスティニアヌス帝時代の弓術には、耳まで弓弦を引く強射に優れたローマ式と速射を得意とするペルシア式がありました。

ビザンツ時代における弓術の評価軸は「正確さ」「力強さ」「速さ」です。

「正確さ」は弓術の基本であり、射法や弓具よりも個人の技量によるものなので、テウクロスと当代のビザンツ人を比べたとしても明確な差はありません。

しかし、弓戦において重要とされたのは、まず「速さ」、次に「力強さ」でした。

ニケフォロスの弓術が明らかにテウクロスや両アイアスを凌ぐのは、この「力強さ」と「速さ」なのです。

ニケフォロスはホメロス時代のギリシア人のように「胸(乳)」までしか弓弦を引かず、狩人のような腕を披露するわけではないのだとアンナ・コムネナは伝えたかったのではないでしょうか。

射手は様々な射法を目的に応じて使い分ける必要があり、速射はいずれにおいても求められました。

強射は、強弓を耳まで広く引き分けることで達成されます。

この引き分けには、ローマ人が後から導入した親指式の取懸けが適していました。

また、ホメロス時代の狩猟の獲物の角で作った弓に比べて、ビザンツ時代の複合弓は威力が勝っていました。

すなわち、アンナ・コムネナの時代における弓術と弓具がホメロス時代を遥かに凌駕していることを、彼女は理解していたように思われます。

そのうえで、アポロンに擬えたニケフォロスの弓技は、具体的にはヘラクレスのような強弓を力強く引いて自在に射当てる水準、すなわち、当時のビザンツ帝国に仕えた遊牧民系の軍人や外敵である遊牧民の驚異的な弓技を基準としても秀でているほどだったとイメージしているのではないでしょうか。

10 参照した原文及び現代語訳

※番号①〜⑥は、筆者が区分・表記したものです。

【ギリシア語(Perseus Digital Libraryより) https://anastrophe.uchicago.edu/cgi-bin/perseus/citequery3.pl?dbname=GreekNov21&query=Alex.%2010.10

①(前略)νεανίαι γὰρ ἧσαν σύμπαντες οὐχ ἥττους τοῦ ὁμηρικοῦ Τεύκρου εἰς τοξικὴν ἐμπειρίαν.

②τὸ δὲ τόξον τοῦ Καίσαρος Ἀπόλλωνος ἦν ἄρα τόξον αὐτόχρημα

③οὐδὲ γὰρ κατʼ ἐκείνους τοὺς ὁμηρικοὺς Ἕλληνας νευρὴν μὲν μαζῷ, τόξῳδὲ σίδηρον ἦγέ τε καὶ ἐφήρμοττε κυνηγετῶνἀρετὴν ἐνδεικνύμενος κατʼ ἐκείνους,

④ἀλλʼ ὥσπερ τις Ἡρακλῆς ἐξ ἀθανάτων τόξων θανασίμους ἀπέπεμπεν ὀϊστοὺς καὶ οὗπερ ἂν στοχάσαιτο κατευστοχῶν ἦν, εἰ μόνον θελήσειε.

⑤Καὶ γὰρ καὶ ἐν ἄλλοις καιροῖς, ὁπηνίκα καιρὸς ἀγῶνος καὶ μάχης παρῆν, ὅντινα καὶ σκοπὸν ἔθετο, εὐθὺς οὐκ ἄστοχον ἔβαλλε, καὶ ᾧ ἂν μέρει ἐπετοξάσατο, κατ' ἐκείνου τοῦ μέρους εὐθὺς ἐτίτρωσκεν ἀεί.

⑥Οὕτως ἰσχυρὸν ἔτεινε τόξον ἐκεῖνος καὶ βέλος ἠφίει ὀξύτατον, κἀν τῇ τοξείᾳ δὲ καὶ ὑπὲρ τὸν Τεῦκρον αὐτὸν καὶ τοὺς Αἴαντας φαινόμενος.

【相野洋三 訳『アレクシアス』338f.】

①(前略)すべて弓の優れた技においてホメロスのテウクロスを凌ぐ若者たちであった。

②他方ケサルの弓はまさにアポロンの弓そのものであった。

③なぜならその時その者[ケサル]は、あのホメロスのギリシア人たちのように、狩人の技を見せつけようとして、弓弦を乳あたりまで引き絞り鏃を弓幹まで引き寄せることはしなかったが、

④しかしその気になりさえすれば、まさしく狙ったところへみごとに命中させ、もう一人のヘラクレスのように不死の弓から致死の矢を放つことができたのである。

⑤実際別の折には、競技や戦闘の場に居合わせた時には、 狙いを定めたものはなんであれ、即座に正確に射止めることができ、その者の狙った所に、常にその同じ場所に傷を負わせたのである。

⑥明らかにテウクロス自身や両アイアスをも凌いだほどに、その者は弓を強く絞り、矢をすばやく放った。

【E. A. S. Dawes 英訳『The Alexiad of the Princess Anna Comnena』184f.】

①(前略)for all these young men were as skilled as the Homeric Teucer in the use of the bow.

②But the Cesar's bow was in very deed the bow of Apollo;

③and he did not after the manner of the Homeric Greeks draw the string to his breast and place the arrow and fit it to the bow exhibiting like them the art of the hunter,

④but like a second Heracles, he discharged deadly arrows from immortal bows and provided he willed it, he never missed the mark at which he aimed.

⑤For on other occasions during the time of strife and battle, he invariably hit whatever object he proposed himself, and whatever part of a man he aimed at, that part exactly he always struck.

⑥With such strength he stretched his bow, and with such swiftness he sent his arrows that in archery he appeared to excel even Teucer himself, and the two Ajaxes.

【E. R. A Sewter 英訳『The Alexiad』電子版】

①They were all young, as skilled as Homer’s Teucer in archery.

②The Caesar’s bow was truly worthy of Apollo.

③Unlike the famous Greeks of Homer he did not ‘pull the bow-string until it touched his breast and draw back the arrow so that the iron tip was near the bow’; he was making no demonstration of the hunter’s skill, like them.

④But like a second Hercules he shot deadly arrows from deathless bows and hit the target at will.

⑤At other times, when he took part in a shooting contest or in a battle, he never missed his aim: at whatever part of a man’s body he shot, he invariably and immediately inflicted a wound there.

⑥With such strength did he bend his bow and so swiftly did he let loose his arrows that even Teucer and the two Ajaxes were not his equal in archery.

【D. R. Reinsch 独訳『Alexias : Übersetzt Eingeleitet Und Mit Anmerkungen Versehen Von Diether Roderich Reinsch. 2.』349f.】

①(前略)es waren alles junge Leute, die in der Kunst des Bogenschießens nicht hinter dem homerischen Teukros zurückstanden.

②Der Bogen des Kaisars aber war wahrhaftig der Bogen Apollons;

③denn nicht wie jene homerischen Griechen zog er und näherte "die Sehne der Brust und dem Bogen das Eisen 171", indem er wie jene sich im Jagdhandwerk bewandert zeigte,

④sondern wie ein Herakles sandte er von unsterblichem Bogen tödliche Pfeile, indem er sehr genau traf, wohin auch immer er zielte, wenn er nur wollte.

⑤Denn bei anderen Gelegenheiten, wenn es Zeit zum Kampf und zur Schlacht war, traf er denjenigen, wen auch immer er sich zum Ziel wählte, auf der Stelle und verfehlte ihn nicht, und auf welchen Körperteil er seinen Pfeil richtete, dort traf er ihn auch jeweils sogleich.

⑥So machtvoll spannte er den Bogen und so genau schoß er, so daß er in der Kunst des Bogenschießens sogar Teukros und den beiden Aias überlegen schien.

11 参考文献

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12 (改訂履歴)「2 文意の解釈」

※「2 文章の解釈」における2022.9.12、2022.9.14改訂履歴です。抹消線部分を削除、【】部分を加筆しています。

最初に『アレクシアス』(10. 9. 8)の該当箇所を確認しましょう。

私が参照したギリシア語テクスト及び邦訳、英訳(2種類)、独訳は「10 参照した原文及び現代語訳」のとおりです。

文章の構造を分かりやすくするため、番号①〜⑥に区分して考察していきます。

まず、①では、ニケフォロスが率いた若者たちは弓の技に優れており、その腕前はホメロス『イリアス』に登場する弓の名手テウクロスに「劣らない(οὐχ ἥττους)」と語られます。 

相野洋三先生の邦訳ではテウクロスを「凌ぐ」となっていますが、英訳(E. A. S. Dawes 、E. R. A Sewter )や独訳(D. R. Reinsch)を考慮すると、厳密に言えば「劣らない=同等」と解釈できるのではないでしょうか。

もちろん、翻訳にあたって使用したテクスト原文や注釈などが異なるのだろうとは思うのですが……

次に、②では、ニケフォロスの弓はまさに弓矢の神であるアポロンの弓そのものである、と称賛します。

伝説の英雄を超えて神に匹敵すると言うのですから、最大級の賛辞です。

そして、全体の文意を解釈するうえで焦点となるのが、次の③です。

ニケフォロスは、ホメロスの歌うギリシア人たちのように「弓弦を胸(乳のあたり:μαζῷ)まで、鏃を弓幹まで」引き寄せず、また、狩人としての優秀さを誇示することはなかったと述べています。 

アポロンに匹敵するという根拠を二つ、「οὐδὲ γὰρ(なぜなら、〜ではない)」から始まる否定文によって、ホメロス時代のギリシア人とは異なるのだという言い方で挙げているのです。 

一つ目は、『イリアス』4歌123行にあるトロイア方の勇士パンダロスの弓の引分けを描写した詩句の引用です。cf. Reinsch, p.349 注171

二つ目は、パンダロスの弓がかつて彼が仕留めた野山羊の角から出来ていた(同105-111行)ことを「狩人」の技という表現により想起させているのでしょう。
cf. Reinsch, p.350 注172

テウクロスに関わらずホメロス時代のギリシア人一般に関する具体的な弓術の様相を挙げているわけですが、それらをニケフォロスは用いないと否定することで、ホメロス時代を称賛するというよりもその劣位を指摘しているように見えます。

そして、④では、改めてニケフォロスの弓術の優秀さを称えます。

ニケフォロスは、神話の英雄ヘラクレスのように不死の弓から致死の矢を放ち、【もし望みさえすれば】狙ったままに自在に【見事に】命中させるというのです。

相野洋三先生の邦訳では、③からの繋ぎにかけて「しかしその気になりさえすれば」と訳すことにより、ニケフォロスがあえて③のように射なかったのだという意味合いを持たせているようです。

【Perseus Digital Library版のギリシア語原文のとおりの語順に番号を付して整理すると次のようになります。

「④❶しかし他のヘラクレスのように❷不死の弓から致死の矢を放ち❸かつ❹狙ったところへ見事に命中させる、❺もし望みさえするならば」

「④❶ἀλλʼ ὥσπερ τις Ἡρακλῆς ❷ἐξ ἀθανάτων τόξων θανασίμους ἀπέπεμπεν ὀϊστοὺς ❸καὶ ❹οὗπερ ἂν στοχάσαιτο κατευστοχῶν ἦν, ❺εἰ μόνον θελήσειε.」

相野洋三先生の邦訳では、ここを自然な日本語の語順に並び替えて訳していらっしゃいます。

「④❶しかし❺その気になりさえすれば、❹まさしく狙ったところへみごとに命中させ、❶もう一人のヘラクレスのように❷不死の弓から致死の矢を放つことができたのである」

ここで私が注目するのは、原文の❸καὶ「かつ」の解釈です。

❸の前後を分けて解釈するのか、それとも一体として解釈するのかで文意が微妙に異なってくるように思うのですが、いかがでしょうか?

読点で区切られた文末の❺「もし望みさえするならば」が❸を越えてその前までかかるのであれば、前文の③からの繋ぎのニュアンスに影響して、「〜ホメロスのギリシア人のようにはしなかったが、その気になればギリシア人のようにもできるのであって、ヘラクレスのように〜」というイメージになるかもしれません。

相野先生の訳では、この❸で特に前後を分けてはいらっしゃらないようです。

D. R. Reinschのの独訳でも同様です。
❸を訳出せずに読点で区切って独語的な並びで文末へと並べていますので、❺「もし望みさえするならば」が全体にかかるようにも見えます。

「④❶sondern wie ein Herakles ❷sandte er von unsterblichem Bogen tödliche Pfeile, ❹indem er sehr genau traf, wohin auch immer er zielte, ❺wenn er nur wollte.」】

たしかに、『アレクシアス』の前後の流れからすると、ニケフォロスはラテン人を威嚇するにとどめ、矢を当てないように注意しています。

しかし、英訳(E. A. S. Dawes 、E. R. A Sewter )や独訳(D. R. Reinsch)では③と④を単純な逆接で繋いでおり、ギリシア人とヘラクレスを対照的に述べています。

【しかし、】その気になればギリシア人のようにもできた、と解釈した場合には、新たな修辞としてヘラクレスへの擬えを追加していることになりますが、パンダロスと神的英雄ヘラクレスでは釣り合いが取れないように思います。

【相野先生やReinschが使用しているテクストや注釈等を私は確認できておりませんので、非常に残念です。

ただ、私が参照した英訳2種類は❸を訳出してその前後で区切り、❺「もし望みさえするならば」は後半の❹「狙ったところへ見事に命中させる」だけにかけて解釈しているように見受けられます。

E. A. S. Dawes訳
「④❶but like a second Heracles, ❷he discharged deadly arrows from immortal bows ❸and ❺provided he willed it, ❹he never missed the mark at which he aimed.」

E. R. A. Sewter訳
「④❶But like a second Hercules ❷he shot deadly arrows from deathless bows ❸and ❹hit the target ❺at will.」】

したがって、③から④にかけての文意は、「ニケフォロスがアポロンに匹敵するのは、ギリシア人のような弓の引き分けをせず、【で】狩人のような弓技【を示すもの】ではなかったからであり、ヘラクレスのごとく【ように】不死の弓から強力な矢を放って自在に命中させることができた」と解釈してもよいのではないでしょうか。【放ち、そして、もし望みさえするならば狙ったところへ見事に命中させることができた」と解釈する余地もあるのではないでしょうか。

すなわち、ギリシア人のようにではなくヘラクレスのような弓技だと対照的に述べたうえで、望むなら標的に自在に当てられるのだと。

もちろん、原文の校訂などについてきちんと確認し、丁寧に比較したうえでなければ空想にすぎないのですが……】

続く⑤は、古典の引用による修辞ではなく、ニケフォロスが競技や戦場において如何に正確に的を射当てたかを述べています。

そして、⑥では、改めてニケフォロスの弓技はホメロスの英雄テウクロス自身と両アイアスを「超える(ὑπὲρ)」ものだと評価しています。

ポイントとしては、「力強く弓を引き絞り、矢を鋭く(素早く)放つ(ἰσχυρὸν ἔτεινε τόξον ἐκεῖνος καὶ βέλος ἠφίει ὀξύτατον)」とあることから、弓の技量を示す指標として、⑤の「正確さ」に加えて「力強さ」と「素早さ」を挙げているのが目を惹きます。

ニケフォロスの弓術が明らかにテウクロスと両アイアスを凌ぐのは「正確さ」ではなく「力強さ」と「素早さ」であると解釈できるのではないでしょうか。

以上の解釈をまとめると、当該箇所の文意の構造は、次のようになります。

ニケフォロス = アポロン、ヘラクレス > ビザンツ若手選抜射手 = テウクロス(≒パンダロスなどホメロス時代のギリシア人)

L. A. Neville(p.51)なども、アンナ・コムネナに関する著書において、ホメロスの引喩については夫の英雄的な肖像を煌めかせる描写だと指摘するのみですが、文章構造の大枠については上記の読解と同じように解釈しています。


First she says that the other archers in his contingent were as good as Teucer, but Nikephoros had the bow of Apollo.
Then she says he did not shoot in the manner of the Homeric Greeks, but rather was like Heracles, shooting immortal arrows, and missing only on purpose.
Then she says that he in fact surpassed Teucer and the Ajaxes of the Iliad.
She describes his actions in the engagement glowingly with a number of Homeric allusions that burnish the heroic portrait she draws of her husband.

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