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「自分たちはアイツらとは違う」

「アイドルは自分の実力でアイドルの地位につくのではなく、世の中がその人をアイドルの地位につける」

正確な表現は憶えていないけれど、たしかこんな言葉だったと記憶している。

この言葉を何かで読んだのは、もう20年くらい前のことだっただろうか。当時はモーニング娘とかAKB48といった、それまでとはタイプの違うアイドルが急にメジャーになった時代。人気アイドルのメンバーの人数が、それまでより飛躍的に多くなった。その社会背景について語った新聞記事だったかも知れない。

この言葉が意味することは何か?それは、「それぞれの時代には、社会背景に対応して人々が求めている存在や要素がある。そして、その時代に求められている存在や要素にフィットする人が、その時代のアイドルとして担ぎ上げられる」という趣旨だったと思う。

つまり、人は自分自身の力でアイドルの階段を登っていくわけではない。世の中が望んでいるものが、それにフィットする人にアイドルの階段を登らせる、という意味だった。だからアイドルのスタイルというものは世相を写した鏡である、という趣旨。

僕はその後、たびたびこの言葉を思い出すことになる。

この言葉を思い出すとき

さて、話の舞台は変わって、2016年にアメリカでトランプ大統領が誕生した時。当時はトランプ大統領自身を批判する主張が目についた。いわく、けしからんやつだ、人々を騙している、自分に都合の良いように大衆を扇動している、と。

でも、そんな声を目にするたびに、僕は冒頭の言葉を思い出していた。

「いや、決してトランプが自分で自分を大統領の地位に就けたんじゃない。逆なんだ。アメリカ社会が望むものを形にすると、それがトランプだったんだ」

この見方が正しいかどうかは分からない。ただ、このたびトランプが2回目の大統領の座につくことになったが、前回よりも彼自身の問題という見方ではなく、彼はアメリカ社会を映す鏡だ、というトーンの報道が増えたように感じる。あくまでも、僕の個人的な印象だけど。

そんな「アメリカ社会が望むかたち」と僕が思っているトランプ次期大統領が主張していること。いろんな主張があるけれど、とりわけ象徴的なものが、「オレたち」と「アイツら」を分けて、「アイツら」を非難すること。

僕の思考回路に基づくと、この世界観と行動こそが、アメリカ社会で多くの人たちが望んでいることになる。

そこで、僕の頭には次の疑問が浮かぶ。果たしてこの傾向は、アメリカ社会だけのものだろうか?

今回は、人がもっている『自分たちはアイツらとは違う』と分けたがる性質について。旅先で聞いた話をもとに書いてみる。舞台設定が相当複雑な話だけれど、できるだけ分かりやすくなるよう頑張っていこう。

アルバニア人に聞いてみた

前々回の投稿で書いたように、バルカン半島(ヨーロッパとトルコの間にある地域)には、むかしユーゴスラビアという大国があった。しかし、主に政治的な影響もあって、バラバラの小さな国々に解体されていった。

バルカン半島は、そのような政治的な事件が起こることが「さもありなん」な地域ではある。

それはなぜか?

バルカン半島は、ヨーロッパとトルコの間に位置するという地理的な状況から、とにかく多くの民族や宗教が複雑に絡み合って存在している。同じ国の中に複数の民族が併存しているケースもあれば、逆に、同じ民族が別々の国に分割されて住んでいるケースもある。

日本人からするとちょっと想像しにくいが、あまりに民族が複雑に入り混じり過ぎて、民族の分布に沿って国境線を引くことができない。

加えて、その昔に西欧列強が同じ民族をあえて別々の国に分割しておいたから、という要因も大きい。そうすることで、あえて揉め事が発生しやすくなるようにして、トラブルのタネを埋め込んでおいた歴史がある。

なぜそんなことをするのか?これは「分割統治」という典型的な手法。民族を分割しておくことで、同じ国の中や隣国同士でだいたい揉め事が発生する。その結果として、西欧列強がその地域の仲介者となったり、場合によっては支援者を装うことで、その地域で影響力を行使できるから。また、揉め事があることによって、その地域の発展も遅れる。それによって西欧列強が、影響力を行使したい地域を上手に支配下に置いてきた、という歴史がある。

で、本題。

バルカン半島にはアルバニア人という民族がいる。彼らは同じ言葉をつかい、同じ文化を持っている。そんなアルバニア人は、(ややこしい話を単純にすると)現在はアルバニアという国と、隣接するコソボという国に分かれて存在している。

僕がアルバニアとコソボを旅行した時に、「同じ民族が別々の国に分かれて住んでいる場合は、お互いのことをどう思っているのか?」について現地の人たちに聞いてみた。

アルバニアで聞いてみた

まずはアルバニアに住んでいるアルバニア人たちに聞いてみた。

アルバニアに住むアルバニア人は、自分たちが「本国」の立場。だから、コソボなど周辺に住んでいるアルバニア人も『同じ仲間同士』に位置付けたがる。それによって「アルバニア人は取るに足らない存在ではなく、大きなグループだ(そして自分たちが本国だ)」という構図になる。

そのため、本国のアルバニア人が周辺国のアルバニア人について語るときは、「アルバニア人はみんな仲間である」という構図になりがちだった。

彼ら/彼女らがアルバニア人を語る時には、みんなえらく真面目な顔つきになって、

アルバニア人
「僕たちアルバニア人は、みーんな同じ民族だよ。住んでいる国は違うけど、同じ文化を共有している」

という趣旨の話を語ってくれた。ただ、


「アルバニアとコソボはどんな文化を共有しているの?」

って聞いてみると、

アルバニア人
「いや、それは同じような民族の踊りとか歌とか・・・」

って、モゴモゴと答えてくれる。民族の踊りや歌が一緒なことって、現代人にとってどこまで意味があるんだろう、という疑問も浮かぶけれど。

コソボで聞いてみた

さて、次は移動して、コソボに住むアルバニア人たちに話を聞いてみた。


「コソボに住むアルバニア人は、本国のアルバニア人と同じ言葉を喋る同じ民族なんだよね」

と聞いてみると。

コソボに住むアルバニア人
「まあ、ね。でも、そうは言っても本国のアルバニア人は俺たちとは方言が違うんだ。それにメンタリティーもかなり違う。一緒に仕事しても、彼らは腰が重くて困る」

と言って距離を置く人も多かった。また、特にコソボとアルバニアが同じアルバニア人同士で合併して一つの国になることについては、慎重な人が多かった。

ということで、同じ民族であっても必ずしも同胞意識を持つわけではない。それよりも「アイツらと一緒にはしてほしくない」という意識が会話の合間に顔を出す。

そうやって、人々はともすると際限なく自分たちと他者を分化して「アイツらとは違う」って隔てていく。いちおう「同じ民族」とされている人たち同士であっても。

話を聞いて感じたこと

このように「際限なく他者を隔てていく意識」に直面すると・・・、そもそも最初から「自分たち」と「アイツら」って分け始めること自体に、どれだけ意味があるのだろうか?と感じてしまう。

こういった地域を旅行してきて感じることは、人が同胞と感じる重要な要素は、同じ言葉を話すこと。自由に意思疎通ができることは、決定的な同胞意識をもたらす。逆に言葉の壁などで意思疎通ができない場合は、他人意識を越えられない。

でも、同じ言語を話す人たちであったとしても、実は心の中に一緒にしてほしくない気持ちがあれば、次には「方言が違う」とか「メンタリティーが違う」というように、相手と自分たちを隔てる理由が次々と出てくる。

ということで、一つ言えることは、やっぱり人間ってそうやって自分と他人を分けたがる気持ちがどこかにある、ということなんだろうと感じた。

ただし、僕の投稿でいつも書いているように、違う文化の人たちは違う世界観を持っているのは確かだけど、一方で色々と話をしたり一緒に仕事をしていると、根本的なところで人ってそんなに違うものだとは思えないが。

まとめ

いかがだったでしょうか、人は「自分たちとアイツらを分けたがる」という性質をこころのどこかに持っている、という話。

冒頭の言葉に立ち戻ってみよう。

「アイドルは自分の実力でアイドルの地位につくのではなく、世の中がその人をアイドルの地位につける」

いまニュースでは、世界を分断して「自分たちはアイツらとは違う」と主張し、「アイツら」を非難するスタイルをよく目にする。そのような方向に世界が動いているようにも見える。

それは、人々を扇動する「一部の悪い人たち」に問題があるからだろうか。

それとも、自分たち一人ひとりが、こころのどこかにそういう性質を持っているから、なのだろうか。

by 世界の人に聞いてみた

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