◆虎に翼、弱音と怒りと勇気と連帯と
とととと! 虎に翼!
今日はぐっとくる場面が多かった。
ひとりひとりの切実さが開示されていく。
涼子の「特別扱いされない仲間たちと一緒におまんじゅうを」を振りとして。
本音の領域にある、だけど表に出しにくい弱音を共有していく。
さみしさや苦悩、悔しさや怒り。
いろんなものを、だれもがそれぞれの地獄の中で抱えている。
花江の弱音を叱責して自己責任だとでも言わんばかりのよねに、寅子が待ったをかけた。
弱音は本音の領域にある。
吐いてもことばにしても、解決はしない。
けれど自分の弱音、本音を受容できる。
大事な機会なのではないか? というのである。
涼子たちが花江に負けじと弱音を吐露する。
本音を開示する。
奇しくもそれは、よねが寅子たちに過去を伝えたときや、これまで折に触れて開示された本音と、とても近しいものである。
なるほど、たしかに開示することが現実を変えるわけではない。
けれど開示によって、お互いにお互いを知ることができる。
そうはいっても、揺れ動く場。
どうなるかと思ったら、寅子の兄、猪爪直道が登場。
はるさんに向けて本音と弱音を開示した花江に寄り添い「ボクは花ちゃんが一番大事!」と伝える。
お母さんが頑なに砂糖を足して守っていた味が、どんなものかを理解していることも。ふたりがいがみ合うようになるのは見たくないとも。
そして別居を提案する流れも。
最後の最後に「思ってることは、口に出していかないとね。そのほうが、いい!」と明るく元気に言い放つ。
寅子の納得のいかない顔にかかるナレーション「なんでお前が話をまとめてんだ」というツッコミもいい。
まんじゅう作りも終わり。
解散となり、なにも言えずに立ち去ろうとするよねに待ったを掛ける寅子。
あなたはあなたのまま、そのままいやな感じでいいからと伝える。
弱音は本音の領域にあるとした。
そして、その本心が現実に触れて、怒りとなる。
怒りは大切なものだ。弱音と同じ、本音と同じ。
だからよねに「私たちの前では好きなだけ、いやな感じでいて」と、開示合戦に付き合う必要もなければ自分たちに合わせようと無理をすることもなく、あなたのままでいてねと伝えるのである。
たまらない。
泣いちゃう。むしろ泣いた。
後日、生理が重たい寅子の役に立てばとカフェーのお姉さんたちに、生理痛に効くつぼを教えてもらったよねが、登校して即座に寅子の前へ。
さっと跪き、つぼと効果を伝える。
思わぬよねの行動に喜びながら、寅子がみんなに伝えて集まっていく。
輪になっていくのである。
それほど素敵な仲間たちも時が流れてしまうと、学校に残ったのは、まんじゅう検証をした五人だけ。
男たちが悪意と偏見で積み重ねて、女をはじめ弱い、無能力と見なしたものたちへと押しつける地獄を作り、維持する。
それは生半可なことでは変えられない。それゆえに地獄である。
彼らは本音と弱音に蓋をする。逃れる。弱さの象徴だとする。そのため強さ、答え、解決によってのみ連帯するが、その絆はあまりにも脆く醜い。
寅子たちは勇気と行動を積み重ねながら、弱音も本音も怒りも、願いや求めと共に編み込んで積み重ねながら、連帯していく。
自己と向きあい付き合う道のりは、男たちが形成した地獄の加害にひどく痛めつけられる。なにせ男たち自身の苦しみを押しつけられているのだから。彼らが向きあわない、向きあいたくないものを加害と共にぶつけられるのだから。たまったものではない。
しかし、先輩ふたりは待っていた。
寅子たちを見送る後輩たちも入学してくれていた。
幼稚な地獄で女性たちを食い物にする男には、様々なバリエーションがあるだろう。
次週は顔と家柄の良さで優しさを扱い、より鋭く、より深く傷つけてくるタイプの登場だろうか?
そうした男たちの社会の中ではさほど力を持てず、発言権もないのかもしれないほど、のんびりに見える直道だが、彼は言うべきことを心得ていた。(もっと早く! と思わないでもないのだが!)
自分はあなたの味方。
自分にとって、あなたが一番大事だよ。
花江にも母にも気遣いをする。
的外れな場面も多いけれど、今回はすごかった。
なかなかできるものではない。
それに花江が受けとれるタイミングに間に合った。
どんな大事なメッセージも機を逃してしまうと届かなくなってしまう。
あらゆる人がそうであるように、だれかにとって完璧でいることも、万能でいることもできない。
けれど、だからこそわかることや、伝えることの大事さを心得ることができる。そういうこともあるのではないかなあ、と感じた回だった。
だれしも自分を強く愛してくれる人がいたらいいと思う。
親なり子なり。夫婦なりパートナーなり。友なり仲間なり。
しかし関係性が愛を保証してくれるのではない。
私たちは勇気をもって行うほかに、伝え合う術がない。
受けとるには自分で自分を大事にして、愛する能力がいる。
そうでないと、大事にする・されるという感覚がわからない。
自分よりも強く自分を愛してくれる人に巡り会えたらいいけれど、これがむずかしい。
よねが家を出たように、はるが腹いせで嫁いでやろうと企てていたように家庭に存在しない・思うほどでない場合もあるし、毒まんじゅう殺人事件のモチーフになった事件の男女のように出会ったはずがちがった場合もあるだろう。
自分を大事にして、愛する能力がいる。
そうしてやっと、だれかの愛をすがりつかず、自分の能力を手放さずに受けとる力を育める。
別にそれが盤石で完璧で万能なものではない。
能力だけで完結せずに行為しなければ維持できない。
とても不安定で危ういものだ。
それは断じて、だれもが当たり前に育めるものではない。
残念ながら、虎に翼の時代にかぎらず、現代においても当たり前ではないだろう。
それゆえに直道が伝えたこと、花江が受けとれたことは奇跡のような瞬間だった。
そう、ボクは感じた。
花江の涙をみんながどうすればいいか困りながらも受けとめようとしたときも。
みんなが弱音を開示したときも。
よねがつぼを教えた瞬間にも。
あらゆる場面に、大事なものがあふれていると感じた。
ことばにするには野暮な、だけど人と人との交流において大事なものが、いくつも。
よねがみんなの苦悩を、地獄に立ち向かう姿勢を、その戦いを見ていたであろう言葉を並べたときも、ぐっときた。
そういうことを言ってくれたからこそかな。花江にがっと出てしまったよねに「はて?」となる寅子もよかった。
私事だが母の自死に際して、専門時代の友人の自死に際して。
「話してくれたら」「相談してほしかった」「なにも死なずとも」といった声を聞いた。
自傷と希死念慮に苦しんでいた大事な人に対して、当時のボクは何度となく心にもないひどい言葉をかけてしまった覚えがある。
みんな「だれにも頼れない」「頼ったって意味がない」「むしろひどいことになる」と痛感していたのだろう。何度も、何度も。
とうとうボク自身、薬を大量に飲んで生か死かを試みたとき、やはり頼りはなかった。浮かぶ顔はだれもが自分を否定し、非難するものだった。
いまふり返れば、それもやむなしの言動をしていた。追い込まれていたとして、あらゆる言動が正当化されるものではない。
弱音にせよ、本音にせよ、それは寅子の言うとおり、大事なことだ。
それを伝え合える距離感が必要だ。直道の言うとおり。
悲しいかな、だれでも育めるわけではなく、だれもが持てるものではない。
苦しみを吐露した花江に似た立場でいながらも、吐露できないで抱えこんでいる人が大勢いるだろう。
寅子たちの級友のように一度はあたたかな縁を結んでも、それぞれが接する数多の地獄によって、心折れたり、砕かれたりしてしまった人も大勢いるだろう。
生きる力よりも死にたい力が増して、選び、行為した者もいるだろう。
自分を大事にして、愛する能力がいる。
しかし、それを学ぶためには愛し愛される環境がいる。縁がいる。
そのなかでの変化を、よねが筆頭になって見せてくれている。
地獄なんかに負けるな。
無責任に、そう願ってしまう自分がいる。
今日の日はさようなら。
また明日。
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