瞑想難民とその弊害についての考察②
いつ死んでもいいという気持ちになるのが悟りだと思っていたが、”平気で生きる”という気持ちが悟りだと分かった。死ぬときがくれば死ぬる。生きるときは平気で生きる。平気で生きるというのは難しい。(宮崎奕保)
ツイッターのTLで見かけたけど、うまいな〜と思った。
平気で生きるのは難しい。
平気で生きれる様になるため、坐禅や瞑想を始める人も多いと思う。
まず、自分は「平気ではない」と感じている。
そして「平気である」状態をアレコレ想像する。
「平気である」ことが「良いこと」だと、殆ど無意識に感じている。
「平気ではない」ことは「嫌なこと」だとも感じている。
けど、それって非常に微妙なところで、自分でも気付かないうちに、一方を分別し選んでいる。
そして、いくら嫌なことがあったとしても、「平気でいられること」が目的になってしまう。
本当(事実)は「平気ではない」のに、「平気である私」を演じ始める。
そうすることで、本当(事実)ではない「私」を演じることで、ますます自分が分断される。
いくら平気だと思い込んでも(もちろん自分で気付かないうちに)、何故か全然平気な気がしない。
だって本当は、事実の方は、苦しいんだから。
うまく演じられる様になるほど、修行が進んでいると感じる。
本当は全然進んでないし、上手くなっているのは演技だし。
ますます事実との乖離が拡がり、ギャップは深まる。
それでもやっぱり「何故か感じる違和感」の理由は分からない。
分からないけど、そのギャップを無くするため、様々な辻褄合わせをし始める。
そして、禅や瞑想をする人ほど、心の深部で、表面ではなく、それが起こる。
根っこの方から、何かの掛け違いが生じている。
土台の方から歪んで不安定になってくる。
表面の方(のズレ)は推し量るべし。
日常生活やさまざまなシーンで、外部(環境)とかみ合わなくなり始める。
心身にも影響が出始める。
(長くなったので続きます。)
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