途切れてはいない
それでも自分は普遍性の中にいた
そう気づかせてくれた映画だった
ラマレラの人達と違い、生命を賭したことなんて一度もない私がスクリーンに映し出された字幕を読んだところで、映画に登場する子供達以上にその言葉の真の意味を理解できていないことは明白だった。わかったつもりになってただ呆然と、鯨と人との対峙に見入った。
しかし、それでいてただ対象として捉えていたわけでもなかった。例えば、民族資料館に立つ私、でもなく、古き良きラダックよ永遠なれ、という立ち位置でもない。それを明確に自己認識できたのは、映画の中でみた子供達と普段身近に見る子供達との違いのなさからだった。
ラマレラの子供達が持つ眼差しや、興味へ身を乗り出す感じ、身体全体が表す子供らしさが、普段接する日本の子供達と一緒だった。もちろん我が子の姿も重なった。映画で子供達が登場するシーンに居ても何もおかしくなかった。
古き良き人間の営みと近代化された日本で暮らす自分との違い、なんていう表層的な対比を超えたものを、ラマレラの子供達は見せてくれた。
石牟礼道子さんが何かの作品の中で「堤防で遊ぶ子供らを目を細めて見るあなたもまた、そのように見られていた」というようなくだりを書かれていた。ラマレラの子供達と我が子を重ね合わせたように、私自身もまた同じように重ね合わされていたのだ。そこだけは普遍性の中にいた。いくら生命を賭す暮らしとはかけ離れた近代化された暮らしをし、近代社会に生きる価値観を持つようになったとしても。
ラマレラにも近代化の波が押し寄せているのは見て取れた。しかし、それを嘆くのではなく、「私たちは鯨を殺す。そして、鯨に感謝している。鯨と共に生きている」という言葉が表す精神の尊さを、日々の暮らしの中で子供達とわかりあいたい。
来春から始めるcul cul farm and labo では、その想いを形にしていきたい。
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