90年代邦画実況『紅蓮華』
戦後民主主義を生きる戦中派の戸惑いと自由を妨げる絶望。
製作、三協映画株式会社。戦後、焼け野原になった土地やセーラー服を来た米海軍などの映像が白黒で映される。そして昭和32年。なにやら男女が喫茶店で話しているようで「しかし驚いたなぁサクロ?さんから結婚を申し込まれるなんて」と始まるのだが役者の滑舌が悪いのか、録音状態が悪いのかそれとも著者の耳のせいか、サクロ?さんと聞こえる。すると今度は女性が説明口調の長台詞をペラペラと読み上げる。18とか9つとか4日間とか僅か数秒の間に3つの数字が出現し、まるで計算式を解かされているような感覚に陥る。舞台に出てくるなり設定や状況をひとりですらすらとしゃべってしまう芸人を思いだす。それにしても序盤から飛ばし過ぎではないだろうか?その情報量に呑み込まれてしまいそうになる。どうやら本編は116分と2時間近くもあるようで先が思いやられる。女は進駐軍相手にガラクタ屋を開き大金を稼いだが兄が復員してくると店を母に乗っ取られてしまったのだという。ここで先程のサクロさんはさくらさんのことだと分かる。さくらは男に求婚するも彼女がいるからできないと呆気なく撃沈する。なぜ前もって調べておかなかったのだろうか?今とは全然感覚が違うようだ。しかし、それからしばらくすると、突然さくらのもとに先程の男、健造から電話がかかってくる。どういう風の吹き回しか、「結論から先に申し上げますと私の方はオッケーということです。」と採用試験の合否連絡のような返事を返す。続々と他の兄弟たちが家を出て行き、残されたのは長男の健造だけとなり母からも結婚を勧められたことが影響したようだ。さくらは「あーらどうしましょう。うれしい。はい。はい。わかりました。じゃ明後日にでも伺います。失礼します。はい。」と返事をするが、恋人の洋子がいることは知る由もない。「並木の雨のトレモロを〜」安月給のサラリーマンのいとこと結婚することを母は反対する。さくらは今まで母親の言いなりにされて来たことを恨んでいるようで、これからは自由に生きると宣言する。そして母親に四郎の面倒を見させ、家を出て行ってしまう。健造の稼ぎだけでは足りず、さくらも働きに出るが結核になってしまいそこへ恋人の洋子がやってくる。そこから3人の奇妙な共同生活が始まる。我慢の限界に達したさくらは洋子に出て行ってくれと怒りをぶつけるが、横取りしたのはさくらの方だと言われ、惨めだった結婚生活を払拭させるためだと言われる。終いには「どうしても別れろって言うなら私死にますぅ!」「えーん。えーん」と泣き出してしまう。そしてこの辺りから一気にサイコスリラー風に様変わりする。出先での健造との会話。「僕は結婚なんていうものは、世間へ対する体裁のようなものだと思っている」「君だってその体裁が欲しかったから、僕と結婚したようなものじゃないか」とさくらの本心を抉ような言葉を突きつける。そしてさくらは「勇造さんと洋子さんを結婚させたらどうかしら?」と提案する。「勇造と洋子を?」ここでサスペンス映画のような不穏な音楽がかかり「ええ。」「君は残酷なことを考えるな。勇造は頭が弱いんだぞ。」「残酷なのはどっちよ。洋子さんは行くところがないんでしょ。だったらそうするより他方法はないんじゃないの?」と容赦ない。夫婦はセックスすることで愛を築くものだと考えるさくら。その一方で伝統的な価値観に囚われない健造はセックスはゴミダメに欲望を捨てるような行為だと批判する。結婚生活によって「こうでなければいけない」という、さくらのしがみつくステレオタイプが次々と破壊され、その姿は終戦後の戦後民主主義へと移行し途方に暮れた国民の姿と重なる。敗戦から安保闘争に東京五輪、そして最後は昭和天皇の死。時代の移り変わりを目の当たりにして来た戦中派の2人。勇造に子供ができると、洋子と会うことを拒まれる健造。そして、母親が死に名家を復興させる長年の夢を実現することができず、ニヒリズムに陥る。個人主義の時代を生きようと必死にもがいて来たがその道を振り返ってみるとなにも残っておらず失意に暮れた健造は自殺する。
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