高校生日記⑤疑問
確か「半分、青い」で「どっち?どっちどっち?」みたいなくだりがあった。それを「なんで?なんでなんで?」ともじって疑問が出た時に遊んでいます。何の報告だよこれ。
疑問
疑問が止まらない。しょうもないことだが、どうしても止まらない。
ここに今、思ってるしょうもない疑問をちょっと書いてみる。
・なぜパンツはパツパツが良くてユルユルではいけないのか。ちんこが変な方向曲がるじゃないか。ちんこに自由を!!
・棒アイスをフェラみたいにしゃぶりながら食うって至高の食べ方なのになぜできないのか。
・なんで蓋についたヨーグルトとかアイスを舐めちゃいけないのか。もったいなんじゃん。
・笑い方って何が正しいのか。
・なんで教師ってこんなに無能が多いのか。
・というか、教師に限らず、人間てなんでこんな使えないのばかりなのか。
・高校生のくせして長財布使ってるってどうなのだろうか。
・夜中の3時まで起きることってなにがいけないのか。
などなど。
私は最初、このようなことに一切の疑問を持ってない人がいること、そしてそんな人が結構多いということにそこそこな衝撃を受けた。単純に驚いた。それ自体にも疑問を持った。それらに疑問を持たない人はそのことについて尋ねると揃って「そんなものだからね」と答える。「そんなものだから」と世の中を消化できるなんてあんまりにも羨ましい。
しかし、私も生まれたときから疑問づくしの人間ではなかった。
初めて小1頃に作文を書き出したとき、先生たちは「『ぼくは』『わたしは』から書き出してね」としきりに言う。私はそれに従順に従っていた。そのため、小3の頃だったと思う。隣かなんかの女子が作文に「わたしは」からではなく、「このまえの」みたいな言葉から始まっていた。それを注意した。「『わたしは』からじゃないとだめだよ!先生も言ってたよ!」すると彼女は「別にいいじゃん。変わらないもん。」と答える。「そりゃそうだ」と普通に納得した。だって、日本語として間違えてないんだもん。
俺が覚えている限りの初めて疑問を持つ人に打ち負かされた瞬間だった。そこからわたしもおかしなことにあーだこーだ思うようになる。
それと同時に作文はいろいろ試したが、結局「ぼくは」「わたしは」から始めたほうが書きやすいことがわかった。試すという味も知った。
ただ、今思うと意外と疑問を持つということに対する才能はあったのかもしれない。小さい頃、おもちゃとして使っていた「ポーポー」となる汽車を乗らずによくひっくり返して「なんでこう音がなるのか」をすごい気にしていた記憶がある。落ちていた変な形のどんぐりがどこから落ちてきたのかを、どんぐり拾いなのに一人上ばっかり見て探すこともよくあった。「ピーピー」となるアヒルがなぜそう鳴くのか知りたくなったのか、あの白い中身を出して、なんでかはわからないが、鼻に入れてしまったらしく、息をするたびに「ピーピー」鳴り、両親が笑ってなにもできなかったこともあるそう。
その潜在的だった才能を開花させた小三の彼女に対して私はどういう感情でいるのが正解だろう。
疑問を意識して感じるようになってから。そして試すという味を知ってから。キョロキョロする落ち着きの無さとどうでもいいことによく気づき気にしてしまう性分、また、昔のしょうもないことをなんとなく覚えていていることも相まって、ふとした瞬間に「あれ?」となってしまう。で、その頻度が高い上にそれを解決しようと結構頑張ってしまう。それがなかなか面倒なのである。気になってすぐ調べてみたり、誰かに聞いてみたり、こうやって文章を書いて整理したり。日常生活においての行事が異常に多くなってしまう。また、多くないと不安になる性格にまでなってしまった。疲れるのだ。
ただ、悪い面ばかりでもない。表現者にとって疑問を持つことは非常に大事という人もいて、音楽をやりたい私にしてみれば少しの勇気になる。また、疑問がある一種のモチベーションになる。「なんで?」を解決するために勉強しようと思えるし。というか、それがだいたいの勉強する私にとっての立派な理由だ。受験のためだと結構すぐパンクしてしまう。だから、1年半も受験に対するモチベーションを保てる気がしないのだ。飽き性だし。
そして疲れる以外の悪い点もいくらでもある。まず、ある問題・疑問に固執ししゃう。なんで?を解決できない限り次のステップに行けないし、頭に残るのはモヤモヤだけで公式や解き方なんかはもうすっからかんである。両親にも「諦めが悪い」よく言われる。あと、素直になれない。教師とかに教えてもらった「こうやるといい」を試さないのだ(人を信じられなくなる。よく間違えるから。)。公演とかで引っ張ってくるデータを信じられないのだ(操作を疑ってしまう。)。ディズニーランドとかを楽しめないのだ(どうやって動いているのか、レールが下に走っているのか、どういうふうに案内をしているのか。裏方のほうが何故か気になってしまう。)。
このまえ、進路説明会とかいうマジでしょうもない講演会があったのだが、そこで講師(塾から来たらしい)の野郎がこう言ってた。「茨城県の生徒さんは素直な方が多いです。素直のほうが成績が伸びますからね。茨城県には成績が伸びる土台がちゃんとあるんですよ。」俺は確かに伸びにくいだろうなー。と最後の方、半分ほどしか開いていない目を擦りながら思った。まあ、素直な方が人間として扱いやすいし、塾講師としては楽なんだろうな。んで、なんども言って申し訳ないけど、やっぱり日本教育のゴールってここだよな。扱いやすい人間をたくさん作る(扱いやすい人間は果たしてニンゲンなのかはわからない)。
しかし、素直じゃないけど、なにも疑問を持たず生きている、不思議なやつもいる。私の友達に素直そうなやつで、なにもイライラしないやつがいる。しかし、彼は「素直ではない」のではないかと感じている。ただ、なにもわかっていなさそうだし、わかろうとしてもいなさそうなのだ。だから、疑問なんか彼の口から聞いたことなんて一度もない。それが俺からするとすごく面白くて仲良くしているのだが、周りの奴らはその面白さを理解してくれない。
素直な人、わかろうとしない人。どちらも疑問漬けの人間からするとうらやましい。
疑問を持つとイライラしやすくなるんじゃないかなとも思う。心をパンクしやすくなるんじゃないかなと思う。だから定期的にいろんなところに疑問と考察とそれに対するイライラをぶん投げなきゃいけない。精神的に疲れるぞー。
なんにも生み出してない人間がここまで偉そうに語っていいのかわからない。許されてるのは若林さんみたいにいろいろなことを生み出してきた人間だけ許されてるかもしれない。でも、こうすることで心の安静がそれなりに保たれるからやらせてくれ。
最後に。基本、人間は大体の人が最終的に疑問を持つようになるんじゃないかと思っている。しかし、持たないほうが絶対に楽だぞ。
2022年10月某日
現在
下世話な話もそれとなーく流していただければ幸いです。教師に無能が多いとか書いちゃダメだと思うけどね。まあ若気の至りってやつですよ。書いたの3年前ぐらいだけど。
この文章を読み直していても、疑問が生まれた。
塾講師が「茨城県の生徒は素直」っていうのはどういう根拠で来ているのだろうか。そういう時、だいたい「長年の経験」というが、それを別に分析したわけでもないだろうし、「長いこと塾講師やったという経験をもとにした感覚」か「長いこと塾講師をやってるというブランドを武器にテキトーなことを言ってる」ぐらいの意味合いでしかないと思ってる。それを「長年の経験」って略すのずるいよな。
別に経験を否定するわけじゃない。でも、それを根拠に生徒を机に向かわそうなんてバカじゃねえの?とは思う。そんなバカばかりじゃねえぞ、「俺は茨城県民だから伸びるぞー!!」って言って勉強始めるやつなっていないって。そもそも、「茨城県の生徒さんは素直」っていう括り方というかまとめ方が(なんというか)卑しい。何が茨城県だよ。愛知県行ったら違うのか?それ、川崎は危ない奴ばっかりっていう偏見と変わんねえんじゃねえか?
まだ、「若気の至り」を語れるほどの大人ではないことだけは確かだ。
疑問を持つ方がいいのか、持たない方がいいのかということに関しては正直正解はわからない。ただ、疑問を持たない友達から俺に対して「大変だね」と同情してもらうことはある一方、俺からその友達に「大変だね」と思うことはない。これは俺が単に強がってるだけかもしれないし、俺が「大変」というレッテルに少し憧れを持っているからかもしれない。でも、それだけでは説明しきれない「何か」があると勝手に思っている。
少なくとも、今疑問を持たない人に「疑問を持つべきだよ」なんてことは絶対に言えないし、通じないんじゃないかとも思う。
それでいいとも思う。どうせ誰にも通じない。
じゃあ、なんで書いてるかって言われたら、オナニーと答える以外ないだろうな。
夢が無えなあ。