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愛憎は紙一重
先日、ある方から、相談を受けた。
長姉が認知症になり、「あなたが指輪を盗った」と責められたとのこと。
もちろん、 全く身に覚えはないのだが、どんなに無罪を主張しても、
「私は知っている。盗むところを見ていた」と確信を持って言いきられてしまう。
なぜか、指輪も出てこない。
あまりにも悲しいのだが、こういうとき、どうしたらいいのでしょうか、と。
認知症の脳の誤作動の一つに、大事なものを想定外の場所にしまいこみ、見つけ出せなくなって「盗られた」と思いこむというパターンがある。
脳が記憶を書き変えてしまうので、たとえ見つかったとしても、
「引っ込みがつかなくなった盗人が、こんなところに返してきた」と思うだけ。
残念だし、悲しいことだが、説得して納得させるのはほぼ不可能だ。
私は、思うところあって、「あなたは、ご兄弟姉妹の中で、最もお姉さんに可愛がられましたね」と声をかけた。
ご相談をされた方は、「はい、そうなんです。私は末っ子なので、長姉には本当に可愛がられました。だから、悲しいんです」と。
そうなのである。
悲しいことに、認知症の妄想攻撃を受けるのは、精神的に最も密着した人。
肉親の場合、最も愛された人に、その槌(つち)が下ろされることが多い。
だからこそ、この誤作動は、悲しいのだ。
心情的には理解しにくいことだが、脳の中では、
「好き」と「神経に触る、憎い」 は、実は、とても近い概念なのである。
どちらも、「強く、情動を刺激される対象」 に抱くとっさの感覚、
という意味で同じだからだ。
ということは、これらの反対概念 は、
情動を刺激されないこと=無関心に他ならない。
脳の感性領域において、「好き」の反対は「嫌い」なんかじゃなく、
「無関心」なのである。
「強く、情動を刺激される相手」を嫌うか好くかは、意味文脈に依存する。
だから、 ちょっとした出来事が「嫌い」と「好き」とを逆転させる。
「嫌い、嫌いも好きのうち」は、脳科学上も真実なのである。
逆もまた言える。
劇的に好きになった相手は、 劇的に嫌いになる可能性がある。
ゆっくりと好きになって信頼を紡(つむ)いだ相手は、なかなか信頼を失ったりしない。
好き嫌いの反転は、どうも、「絶対値」が同じのようなのだ。
だから、激しく恋に落ちたカップルは、けっこう危ない。
「ぴんとこないけど、いい人だから」と寄り添ったカップルが、あまり喧嘩もせずに長持ちすることは意外に多い。
これは、男女じゃなくても言えることだ。
強く意気投合したビジネスパートナーほど、うまくいかなくなったときの折り合いが難しい。
市場の強い反応を得た商品は、 あるときいきなり飽きられる。
だから、どんなことでも、立ち上がりのゆるやかさは歓迎すべきだと、感性の研究者として、私は常々思っている。
「発売と同時に大絶賛」なんて、(あったことないけど、あったとしたら)怖くてしかたがない。
とはいえ、波風がたたなすぎるのも、また問題だ。
以前、歌手のマドンナが、「無関心が何より怖い。スキャンダルの方がまだまし」と言っていた。
ラジオでご一緒させていただいた小堺一機さんは、
「かつて師匠に、芸人は、嫌われて一人前。強く嫌 う人がいないということは、しっかり好かれていないってことだから、と言われた」 とおっしゃっていた。
嫌われることを怖がって、空気を読んで中庸のことを言っていたら、
いてもいなくてもいい人になってしまう。
有名人じゃなくても、それは同じだと思う。
存在意義を失い、居場所を失うことになる。
営業の達人は、無関心な客より、いきなり否定を口にする客のほうが、先の目があることを知っている。
人生の達人は、嫌われることを恐れず、熱烈に好かれることを かえって警戒する。
普通は、嫌われることを忌み、熱烈に好かれることを望むものなのだが。
「好き」の反対は「無関心」、「嫌い」は意外に「好き」に近い。
そう知ったら、人間関係がよりタフにならないだろうか。
そういえば、小学生のとき、男の子たちは、好きな女子ほどいじめたものだった。
子どもは、その天才的な直感力で、無関心なら嫌われた方がまし、と知っているのかもしれない。
そんなわけで、脳のわずかな誤作動で、可愛くてしょうがない人に疑心暗鬼を抱くのは、当然のように起こりうる。
もしも、大事な人が認知症になり、ご自身が疑心暗鬼の対象になってしまったら、どうかそのことを思って欲しい。
これが、愛の証明であることを。
もちろん、認知症じゃなくても、同じである。
女性は、惚れた男にほどイラつき、真意を疑うもの。
妻に理不尽な対応を受けているということは、愛の証明に他ならない。
本当です。
黒川伊保子
『運がいいと言われる人の脳科学』新潮文庫 より
「可愛さ余って、憎さ百倍」という言葉があります。
可愛いという気持ちが強ければ強いほど、いったん憎しみの感情がわいたときの気持ちは半端ないということ。
まさに、「愛憎(あいぞう)は紙一重」です。
『ある100歳のおばあちゃんの言葉です。
「お金もいらない。
着物もいらない。
命だってもういらない。
でもお願い。
優しい言葉をかけてほしい」
100年生きてきて、最後に彼女が欲しかったものは優しい言葉だったのです。』
(高野登・志賀内康弘
「また、あなたと仕事したい!」と言われる人の習慣 青春出版社 より)
マザーテレサは、こう言いました。
「愛の反対は憎しみではなく、無関心である」
「この世の最大の不幸は、貧しさや病ではありません。誰からも自分は必要とされていないと感じることです。」
好きの反対は無関心。
無関心は存在の否定です。
無関心ではなく…
誰かに必要とされる生き方が幸せなのです❣️