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9月6日に寄せて
実を言うと、
前記事を書き終えた後から熱が出て、三日間寝込んでいた。
案の定、三男くんのコ○○がうつっちゃったのさ。
38度前後を行ったり来たり。
喉もいたくないし、咳も全くでない。病院行ったら陽性だけど軽症なので薬はなし。
よし!完璧に治して大分行くぞ!と全集中でウイルスと闘うべくしっかり寝てたら4日目には熱は下がったんだけど、寝すぎて背中が痛くなったわ。
というわけで、コ○○かかる前よりもしかして元気になっちゃったかもしれない私なのだ。
てへぺろ (うーん 古い)
静養中にこのインスタを見つけた。
オフィスキュー所属のお笑い芸人、というか今ではすっかりローカルバラエティーの顔になっている
河野真也君のインスタ。
5年前の 北海道胆振東部地震 の事が書いてある。
北海道全域がブラックアウトになった大きな地震だった。
河野くんの想いをちょっと長いがぜひ読んでいただきたい。
読んでいくと涙が出てきて、5年前の事が思い出された。
4月に東京へ行った次女がその地震の2日前に帰省していた。
今も勤めているフォトスタジオでその頃はまだアルバイトだった彼女は、
成人式には出席するけど振袖は着ないと宣言していた。
我が家には長女が来た振袖があったのだが、本人が拒否しているのを無理矢理着せる訳にもいかず、仕方ないと諦めていたのだが、
次女の職場の方々が
「振袖は自分のために着るんじゃないよ。
親孝行のために着るんだよ。
せめて写真に残して親御さんを喜ばせてあげなさい。」
と、説得してくださったらしい。
成人式には着ていかない(そこは曲げない)けど、振袖姿を写真に収めるために彼女は1週間帰省した。
いつもの美容院で髪をセットし着付けをしてもらい、町の小さな写真館で記念写真を撮り、親戚、地域の皆さんにご挨拶をして回った。
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ばあちゃんは自分で写メ撮ってた。
ほんとに嬉しそうに。
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その次の日、2018年9月6日の夜明け前、胆振東部地震が起こった。
大きな揺れで起きた私は子どもたちの名前を叫びながら、足元にいたてんちゃんを抱えた。
ベッドから降りられず、揺れが収まるのを待った。
落ち着いてから電気をつけた。
その時はついたのだが、一分もたたないうちに家じゅうの電気が消えた。
何の音もしなくなった。
すぐに復旧するだろうと軽く考えていた。
まさかその後3日間も電気のない生活をするとは誰も思いもしなかった。
電気の使えない3日間、さあ、君たちはどう生きるか?
少しの時間でいい、考えてみてほしい。
いつ復旧するかわからない状況では、情報を得るためのスマホはバッテリーの残量を気にしながら使わなければならない。モバイルバッテリーだって限りがある。
テレビはもちろんつかない。
そうなると、乾電池で聞けるラジオが頼りだ。
夫が野球中継を聞くのが好きで、ラジオはよく使っていたのですぐに役に立った。
いつものアナウンサーの声が聞こえた時は、なんだかほっとしたのを憶えている。
固定電話は使えない。
冷蔵庫も冷凍庫も食材はどんどん溶けていく。
洗濯機も回らない。
掃除機の代わりは箒。
ボイラーもつかないからお風呂も入れない。
トイレの便座は冷たい。
そして
ハナタレナックスの録画ができない!
9月だったから冷房も暖房も要らなかったけれど、もしも冬だったら?
我が家は薪ストーブなので大丈夫だから、ご近所さんの避難場所はうちだね、とみんなで笑った。
そして何より、照明がつかないのは本当に悲しかった。
暗くなるのが早い。
いつもちょっとでも暗くなるとすぐに照明をつけていたんだな。
薄暗いなかで過ごす時間は本当に心寂しい。
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電気がすぐにつく状況にないと分かってからは腹を据えた。
そうなると母という生き物は強い。
とりあえず、冷蔵庫の中のものを全部出した。
発泡スチロールの大きな箱がなぜか我が家には常備されているので、その中に突っ込む。
傷みやすいものから食べていくことに。
幸い水は出たし、ガスコンロもプロパンガスなので問題はなかった。
食品棚には粉類も調味料も米もまだある状態だった。
我が家には炊飯器はない。土鍋で炊いているのでこれも大丈夫だった。
夫が買い置きしていたジンギスカンでも焼こうかと庭で薪を起こす。
次女が帰ってくるからといろいろ買っておいた海鮮も焼いて食べた。
震源地からそう遠くはなかったが、地震の揺れによる被害はなかったので、わりとのんきに構えていたのだ。
しかし事態は深刻だった。主要都市への道は寸断されていて物資は全く入ってこなかったのだ。
我が家は何とかなってはいたものの、3日目にはやはり少し心配になって一番近くの生協にいってみると、
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買いたいものは何もなかった。
大手スーパーは電気がなくちゃ何の役にも立たなくなる。
コンビニも同じようなものだった。
流通が途絶えると、何も置かれていない棚だけの店だ。
いかに便利なことに慣れ過ぎていたのか、電気があることが当たり前になりすぎていたのかを実感した。
しかしだ、
地元の精肉店、豆腐屋、八百屋さんには商品があったのだ。
こういう時には地元の小売店の方が融通が利く。
そして優しい。
精肉店で半解凍になったお肉を、豆腐屋さんで電気を使わなくてもできるお豆腐を、八百屋さんで農家さんから直に届く野菜を買った。
人から人へと渡ってきたものには暖かさがあるような気がした。
お金を払って心からありがとうと伝えた。
そして電気がない、便利さがないなかで、いくらでもあったものは
時間だ。
ラジオだけが流れている日中、スマホをなるべく使わないようになると時間がとってもゆっくりになる。
端的に言うと、暇なのだ。
そこで
その頃一時的にぷーだった三男くんと次女ちゃんがやり始めたのが、どこかの引き出しから見つけてきた
UNO
これがね、おもしろくって、明るいうちはずっとやってたね。
あと、ロフトにしまっていた古い
人生ゲームとオセロ(リバーシっていうんだって今は)
これも時間かけてじっくりやったね。
みんなでやるボードゲームとカードゲームが一番楽しいんだ。
三日目の夕方、突然電気がついた。テレビも冷蔵庫も一斉に動き出した。
いつもなら全く気にも留めない小さなモーター音すらしっかりと聞こえた。
ああ、良かった。
と思わず声が漏れた。
日々の生活の中にある安心という気持ちは、電気によって守られていたんだなとわかった。
原発をあきらめない北電は好きではなかったが、この時ばかりは本当に感謝した。
大変だったけど、貴重な三日間を過ごし、停電の中で友達と会うこともできた次女が東京へ戻る日、新千歳空港まで車で送った。
滑走路は大丈夫だったのだが、空港内部はところどころ天井が落ちていたり、立ち入り禁止の場所があった。
いつもは人でいっぱいのロビーは、乗客はもしかしたら次女ちゃん一人なんでないの?って思うくらい閑散としていた。
お店はもちろんほとんど閉まっていたし、開けていたローソンも
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水とカップラーメンだけが並んでいた。
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5年前のこの日以来、我が家にはいたるところに懐中電灯が置いてある。
戸棚の奥にはろうそくを入れた箱がある。
ラジオはもう一つ買い足した。
カセットコンロは新しくした。
大容量のモバイルバッテリーを買った。
非常食は三日分しかないけど、乾麺類、粉類、缶詰、私は食べないけどカップラーメン類は多めに、あと乾電池もかなり買い置きしている。
車のガソリンは半分になる前に給油してなるべく満タンにしている。
備えあれば憂いなしというけれど、どんなに用心してたって自然には逆らえないし、これでいいという備えは難しい。
考える間もなく襲ってくる災害だってある。
人間の力など微塵も及ばないことは、これまで何度も何度も見て聞いて体験してきた。
理不尽すぎて悲しいのか悔しいのかわからなくなる自分がいた。
何か一つでも選択を変えていたら、あの場所にいたのは私かもしれない。
花に囲まれた写真に写っていたのは私だったかもしれない。
そう思うと、今こうして生きていることはなんてラッキーなことだろうと思うのだ。
この幸運を自覚して、私は私の残りの時間を自分らしく生きようと決めている。
やりたいことをやって、大切なことを大切にして、私だったかもしれない被災者と呼ばれる方たち、無念の思いのまま愛する者たちと別れなくてはならなかった方たちの分も、地球のことも環境のこともいっぱい考えて、出来ることを探してこれからも生きていこう。
熱に浮かされながら迎えた、9月6日に考えたこと。
長くなりました。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
したっけ
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