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最新人類学からみたハイエクの自由(新自由主義批判)

経済学者であり、哲人でもある、多くの人を魅了してやまないハイエクの主張を参考にしつつ、人類学の最新知見をもとに批判し、意欲的な議論をめざすメモを書きたい。

ハイエクは、20世紀を代表する経済学者で、フリードマンと並んで新自由主義のグルとされている。ケインズに代表される計画経済、国家による経済管理に反対した。
国家などによる市場の管理より、市場が本来持つチカラでの調整の方がうまくいくという考え方。その背景には、人間がいくら頑張っても、市場についての完全な知識(供給サイドの事情や需要サイドのニーズなど)を得ることはできないのであって、そこから非効率、ムダ、過剰が起きる。そういう考えたのがハイエクの特徴だ。こうした考え方は、現在の経済学にも影響を与えている。

彼は、経済や社会政策を考えるうえで、自由であることを重視したわけだが、彼の最大の特質は、自由を唱える経済学者でありつつ、その自由の本質を考察した初めての経済学者、哲人である点だ。
自由には、思想の自由や政治的発言の自由とか、あるいは経済的自由(貧困からの自由)、地位や身分で差別がないことなどの社会的自由など腑分けが可能だが、かれは、それら自由の中で一番重要なこと、本質を「強制がないこと」と考えた。また、同時に、集団での自由ではなく、個人の自由を最も重要なポイントと考えた。
政治的自由などは、国や社会の選択に関わるという点で集団的な自由と彼は考える。そして、それは必ずしも個人の自由とは一致しない。そうした集団的な自由よりは個人の自由を重要視した(「自由の条件」)。

20世紀の歴史を振り返ると、ハイエクのこうした指摘は、なかなか否定しづらい。ソ連や毛沢東の中国、ポルポトや現在の北朝鮮など、個人の自由をないがしろにした結果、あまりにおぞましい世の中をもたらたからである。

20世紀後半先進諸国の経済的な発展が阻害されだすと、主流だった計画経済的な考え方や大きな政府から方向転換し、「新自由主義」を標榜する動きが進んだ。
その一方で、貧富の差や社会的孤立や分断の問題が大きく浮上してきた。
ここで再び、強制なき自由という視点と、格差や分断の問題が対立してきている。

だが、こうした矛盾を前にしても、単純に計画経済へ戻るのか?と言われれば、おいそれとはいかない。計画経済か、新自由主義かという選択ではなく、別の観点が重要だ。

私は計画経済か、新自由主義かという社会体制の議論の前に、ハイエクに倣って、人間の本質という観点から考えてみたい。
格差や分断の問題を、個人の自由という観点から考察したハイエクに対して、私は、人間の種としての生存という性格から考察を挿し木したい。
昨今研究が大きく進んでいる、人類学の知見を援用して。

最新人類学が証明しつつある事柄の一つは、
「人間という種は、個としては生きづらい」という事実である。

人類学が示しているのは、仲間の援助が前提で人間は生き延びることができたのであり、それは種としての本質的な特徴だった。
例えば、チンパンジーなどの類人猿と比べて、ヒトの子は、未熟児として生まれる。それは、ヒトの骨盤が相対的に狭く、十分成長してからでは出産が無理だからである。チンパンジーの赤ちゃんは生後すぐから母親のカラダにしがみつくことで、母親と一緒に移動できるが、ヒトの赤ちゃんではそうはいかない。ヒトの場合、赤ちゃんを育てるには圧倒的な援助が必要で、それは母親一人では無理だ。どうしているかといえば、家族などの周りの支援で育つのである。
骨盤が狭くなったのは、ヒトが二足歩行するようになったからである。ヒトとしての進化が、こうした出産を余儀なくした。結果として相互の援助を前提とした生活スタイルへ進化したのだった。チンパンジーでも子どもを群れで助け合って暮らしているが、ヒトの子育ての助け合いとは比較にならない。
ヒトが相互の援助で生き延び、助け合いするのは子育てだけではない。
狩りに際して、ヒトは仲間と連携して行うが、勢子になったひとりは、狩り子の方角へ獲物を追い立てるが、ほかの類人猿にはこうした連携は決して見られない。ほかの類人猿も集団で狩ることはあっても、決してひとりひとりは、獲物を他人に譲ったりし、狩ることを放棄はしない。
協同で狩りを行う、協同で採集を行う、協同で子育てをする、協同で外敵から身を守る。こうした相互支援でヒトは生き延び、また、そのことが意思疎通を円滑にする言葉の発達や協同を導く思考能力、協同的な目標の発見と共有などを発達させたである(トマセロ「行為主体性の進化」)。

人類学のこうした知見は、ヒトは個人の自由だけでは本質として生きていけないことを示している。
個人の自由、その中でも強制がないことが自由の一方の本質であろう。同時に、周りの支援があって初めて生きていける人間のもう一つの本質である。

であるならば、ハイエクの姿勢に倣って、個人の自由の観点から構想する経済学ではなく、別の角度から経済学もあるえることになる。

同じくノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・センも自由について論考を発表しているが、かれは自由をひとつで措定するのではなく、複数形の諸自由と考える。ハイエクが排斥した「能力としての自由」に近い「ケイパビリティ」で計測することができる自由、空腹や栄養不足からの自由や読み書き・教育といった無知からの自由など多くの自由を措定して、生活・人生を豊かにする自由を提唱した。新自由主義は、こうした観点から再構築、ないし脱構築される必要があるだろう。

新自由主義が吹聴されるもうひとつの論点に、80年代以降のグローバルな成長を促したという点がある。
1960年代から1970年代に停滞傾向にあった。先進各国の経済が新しい成長の軌跡を描き出した。また先進諸国だけでなく、BRICSに代表される先進国以外の国の発展である。これも、必ずしも新自由主義の成果ゆえ、とは言えない。
端的に言えば、80年代以降先進資本主義国中心に経済的躍進が進み、先進国以外の国々、中国、ロシア、インドなどBRICS諸国などの発展を促したのは、経済の金融資本主義化とIT技術であり、新自由主義であるか、どうかはまずは無関係である。
実際、新自由主義でなくとも成長する事例として、フランス、イタリアがある。これらの国は、英米と比較して、社会や経済の共同的な色合いがまだ多く残されている。そして、こうした国の成長率は、90年代以降をとってみても、日本よりはるかに高い。
日本が参考にする事例は、英米以外にもあるのだった。
こうした点はまた別の稿で詳しくふれてみたい。

新自由主義を乗り越える方策、行き方はさまざまにありうると思う。

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