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ある会津藩士の壮絶な記録
ある明治人の記録(柴五郎の遺書):中公新書
戊辰戦争時に会津藩上士の子で、戦乱で母などの家族を失い、その後も辛酸を舐め尽くす中で、元上役や後援者の引き立てで陸軍幼年学校に入り、その後陸軍大将までなった、柴五郎という武人の幼少期からの大人になるまでの半生録である。
この本の特性は、柴五郎個人の目線で、実際に自分や家族が遭遇した筆舌しがたい凄惨な出来事と、その中でギリギリのところで自暴自棄にならず、常に克己心を持って己を律し自ら時代を切り拓く姿であり、それを可能にした会津武士の教育を印象的な短いフレーズで書き切っている点だ。
武士の本懐を語る時に、町民や農民がやや等閑にされていたり、女性差別のところはあるが、なんといっても明治人の遺言であるから、そこは寛恕して読んだ。
印象的な場面を二つ挙げると、
一つ目は、会津戦争時のエピソード。
父や兄たちが戦場にある中、元服前で家に男として一人留まった五郎は薩軍らが城下町に突入する直前、親戚の家へ嘘の理由で追いやられる。家には祖母、母、姉と妹(7歳)が残っていたが、その後全員が城には登らず、家で自刃したことを知らされる。五郎は即座に理由を悟る。日頃の母の言動からみて、次のようだったろうと。
「男らは少しでも生きのびて、お家(会津藩)の恥辱をはらすべし。おなごらは、無駄に兵糧を費消せず、辱めを受ける前に自刃すすべし」
7歳の妹すら自分が持つ短刀で死んだという。
もうひとつは、戦後、生き残った藩士たちは下北半島の農作不毛の地に藩ごと移住させられる(斗南藩)のだが、移住先で食事すらままならないなか、飢餓のふちを家族ともどもさまよう。五郎も父と二人で移住し、野草などを食べて冬を過ごすのだが、ある時、地元の猟師が殺して取り残した犬を見つけて、肉をさばき、鍋で煮て食べる。調味料もなく、わずかな塩だけの味付けで、空腹で食べるのだけれども、胃が受け付けず、もどしたところをすかさず、父に叱咤される。
「おのれは武士の子なるを忘れたか!戦場ならば、飯がなければ犬猫食らいても戦う。ここで餓死すれば、薩長に、餓死したるよと侮られる。ここは、戦場ぞ。家名の恥を注ぐまでは、戦場である」
父に厳しく言われて、五郎は犬を食い切ったという。
いずれも凄惨で激しいエピソードだが、そこから窺えるのは、幕末の争乱の中、幕府を支え国を守りながら、その後明治維新に至って、酷い処置を受けた会津藩士の恨みや悔恨ばかりではない。
心惹かれるのは、
こうした激しいエピソードだけではなく、当時の武士の家庭での教育である。身のこなしや振る舞いに厳しくしつけられる中にも、愛情あふれる母の思い出(五郎は何度も母親の温かい膝の上でいつくしまれたことを思い返す)。家事や子育てなどの細かいことを言わないだけでなく、家にいては仕事のことを一切語らず、寡黙でありながら、藩内で大きな責任を果たす父親。まだ若輩ながら、兄として弟たちの行く末や教育に心をかける兄たち。
そして、そうした父や母、兄たちの言動をみて、自ら考えて育つ五郎。会津藩には、「什の掟」という独特の藩士のこどもを育てるルール・集団があり、子どもたちは幼くして、質実、誠実、堅実を尊ぶことを学ぶ。また10歳になると藩校日新館に上がり、礼法や書学、武術のほか、天文などの学問を学ぶのだった。
幕末期に、島津藩と並ぶ最強の武士団だった会津藩の基盤はこのようにして築かれたのである。また常に学を重んじる読書階級たる武士の教えが、明治以降の近代化を大きくリードしたことがよくわかるのだった。
柴五郎氏の記録や什の掟を読みて、個人を軽んじる封建的な要素をあげつらうこともできる。ただ、そればかりではない、人生への覚悟と常に前向きに信じて生きる強さを学ぶこともできる。
そういう魅力がこの当時の会津藩士にはある。
今から半世紀も前に出版された本だが、今も読み継がれている、貴重な記録である。
ある明治人の記録ー会津人柴五郎の遺書:中公新書