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【研究員インタビュー】「在野経由・博士行き」科学教育から拡がる研究の地平 - 下平剛司さん

下平 剛司(しもだいら  - つよし)

  • 総合研究大学院大学 統合進化科学コース 博士後期課程

  • 福岡大学 商学部シチズンサイエンス研究センター 研究員

 学部・修士課程では生物工学を専攻し、細胞の力学応答に関する観察実験研究をしていた。同時に、ボードゲームやマンガを題材とした教育・研究にも携わる。修了後は研究施設の事務職のかたわら、科学振興・教育に関する研究および社会活動に取り組む。現在は博士課程に在籍し、「"人"の生物らしさ」について教示行動の数理モデルを用いたアプローチから研究中。

手探りでの科学教育研究

大学での学部は工学部でしたが、元々中高生の頃から理科や数学の教育に強い関心がありました。教職に進むことを考えていた時期もあり、中学と高校の理科の教員免許も取得しました。そのうち、「教育という営み」それ自体に興味を持つようになり、修士課程では工学研究科の中でも生物と関連のある研究室に進学しました。科学教育に関する研究に取り組むようになったのは、修士課程を修了して、社会人になってからです。

科学教育の研究をやろうとしても、どのような研究ができるかは全く未知数でした。
教育系の研究でよくあるアプローチは、指導法の開発や教材作成、それを実践して分析するというものです。
ただ、このような研究を行うには、研究フィールドとなる拠点が必要です。しかし、科学教育という領域にも新参者であり、就職で引っ越しして周囲の学校などにツテがあるはずもない状況で、このような研究はできないなとなりました。
「フィールドがない状態で、どこまで何ができるだろう?」というのは、それなりの期間悩みましたね。

そんな中で、科学教育の先行研究を見たり勉強会 [1] に参加していると、マンガやテレビ番組などのメディアを科学教育の文脈で扱っている事例があまりないことに気づきました。マンガやテレビ番組といったメディアは、学校というフィールドがなくてもできる!と思ったので、まずはこれを研究テーマにしようと思いました。

アプローチについても試行錯誤でした。最初に取り組んだ研究ではマンガにおける科学的な事柄の扱われ方やジャンルによるマンガの捉えられ方について理論的な検討を行ったのですが、理論的な研究の経験はなかったので、手探りでの研究でした。
幸運だったのは、学部時代にボードゲームを題材とした研究に関わることがあり、その時の研究メンバーに社会学や哲学を専攻している方々がいて、会話を通して人文系の論理展開に接する機会がありました。当時の会話や研究メンバーの方々が書かれた論文・書籍を読みながら、手探りで研究を進めていったことを覚えています。

ちなみに、このマンガ研究の内容は、日本科学教育学会の若手研究会で発表 [2] しました。この研究会は若手研究者が集まっているからなのか、「科学教育」という研究分野の懐の広さなのか、ある種何をやっても許される、研究者として冒険できる場所だと思っています。非常に楽しんで関われています。

[1] Science Education Book Club in Japan( https://twitter.com/ScienceEducat10 )に参加していました。
この勉強会の取り組みについては、以下の論文に取り上げられています。
中村大輝, 雲財寛, 荒谷航平, 長沼祥太郎. (2024). オンライン研究コミュニティを基盤とした科学教育の新しい研究活動―若手研究者が取り組む対話と共創―. 科学教育研究, 48(2), 147-156.

[2] 下平剛司 (2022) 科学教育におけるマンガについての理論的検討―科学とフィクション、学習マンガと娯楽マンガの観点から―, 日本科学教育学会研究会研究報告, 37(4), pp.123-128.

在野だからこその「自由」がある

修士課程修了後はいろいろな事情を考慮して、一旦就職することにしました。でも心の中では「いつかは博士課程に行きたい」という思いがありました。また、科学教育に関わる研究活動も続けていきたいと考えていました。

在野で研究をすることに関しては、修士時代に読んだ『在野研究ビギナーズ』(荒木優太・編, 2019, 明石書店)から大きな影響を受けました。大学に属さずとも研究を続けるこんな道があるのかと、驚きました。在野研究について調べていくうちに、日本の在野研究者が置かれている状況や、大学に属さない人が教育されることを超えて科学の実践者となるシチズンサイエンスについても知りました。

在野で研究する中ではもちろん、文献のアクセスや時間のリソースが限られるなど制約・課題が多く存在します。でも良かったこともあって。それは「自由」だということです。

まずは「時間」の自由ですね。『在野研究ビギナーズ』に書かれていた「在野研究には明日がない。(中略)それでも、「あさって」ならばある」というような言葉が非常に印象に残っています。研究にいつでも没頭できる訳ではないぶん、限られた直近の数年間で成果を出さなければならないというプレッシャーから解放され、余裕のある豊かな心を持てた気がします。

それから「分野」の自由です。所属する研究科がないので分野の縛りにとらわれず、自分の心の赴くままに様々な分野にまたがった研究ができました。もちろんこれは、修士まである程度きちんと科学的な手続きについて学んだからこそ享受できた自由かもしれないとは思います。

自分の節操の無さも、シチズンサイエンスをするときに上手くハマったのかもしれません。「文系」「理系」で研究のやり方が違うと思われることは多いと思うのですが、自分にとってあまり大きな違いを感じたことはありませんでした。「問題設定」をして、理解のための「枠組みを設定」し、それが当てはまるかを「検証」して、最後に「結論」として主張や理論の修正を行う。これは結局、「説得のための型」をどのように構築していくかということであり、どの学問分野でも共通しているのではないかと思います。

修士課程と博士課程の間の期間として、ゆっくりと自分の研究と向き合うことができたのは非常によかったです。在野研究における「何もないことの苦しみ」も理解できたし、所属や研究施設があることのありがたみや価値も改めて感じました。同時に、既存の科学エコシステムに対しても課題意識を持つことできるようになりました。

昔の研究者のエピソードで「博士取った後の最初の任期ではあまり成果を求められず、自分の研究を固めるための期間があった」というような話を聞いたことがあるのですが、振り返ってみれば、自分にとってはまさにそのような貴重な期間だったように思います。

シチズンサイエンス研究の「土台作り」と「交通整理」を

研究センター長の森田さんとは、JAAS(日本科学振興協会)のコミュニティで知り合いました。2023年6月からCSRC研究員として活動しています。研究費の申請や学会発表の申し込みでは所属先があることが前提になっていたりしていて、所属を持たないことは研究をする上で実質的にも心理的にも大きなネックだったので、非常に助かっています。

実際に自分が在野の人間になった時に「シチズンサイエンス自体の研究をやらなければならない」というある種の使命感が湧いてきました。単に研究テーマとしてシチズンサイエンスを選ぶというよりも、アイデンティティから来る感覚ですね。資料論文として自分の経験や困難を書こうと思った動機も、この辺りにあります。

科学教育とシチズンサイエンスについて考えていくにあたっては、まずは議論の交通整理をする必要があると考えています。シチズンサイエンスや科学教育に関わっている様々な概念同士の関連を整理し、シチズンサイエンスのことをより話しやすい状態にしていきたいです。

現状シチズンサイエンスに関しては「アマチュア研究」「市民科学」といった複数の言葉・表現がありますし、形態としても私のようにライフワークになっているもの、趣味としての研究、市民運動に紐づいたものなど様々です。そういった様々なシチズンサイエンスの行為の中にある文化性や共同性を整理したり評価したりできるような枠組みが必要だし、それらの行為の拠り所になるような理論が必要だと思っています。
草の根的に小さなプロジェクトとしてシチズンサイエンスをやる分には今でもできますが、もっと大きな事業としてやろうとした時に行政・公共・企業に頼る必要がある場面も必ず出てくるはずです。例えば、行政がシチズンサイエンスの取り組みをやるとなった時には、その取り組みにお金をつける意味を、現場の公務員の方から上司や一般市民に説明できるような根拠が必要です。シチズンサイエンスの意義について納得してもらえるよう、説明する相手によって観点や理屈を使い分ける必要があるでしょう。そのような根拠となりうる理論や考え方・価値観を提示していきたいと思っています
多くのステークホルダーに納得してもらうための「カード」を持つことの重要性は、就職して組織の中で働いていると、強く感じることでもあります。在野を経験したからこそ実感できるようになった研究の論点かもしれません。

それから、シチズンサイエンスにおける概念を広げた上で、本人たちにもシチズンサイエンスや科学教育の観点で認識されていないけれども世の中に科学的な営みとして存在しているような活動について検討し直すことも重要です。
例えば、研究倫理を例に挙げてみようと思います。シチズンサイエンスのことを考えなければ、研究に携わる者が従うべき倫理観は、大学や研究所などの「公式な」科学的なコミュニティによって規定され、そこに属し、教育を受けることで身に付くものだと言えると思います。しかし、例えば科学的なコミュニティに属しているという意識も実態もないにも関わらず科学的な倫理観に従っている人たちがいるのではないか、ということは考えられないでしょうか。もちろん、倫理的でなくても他者に迷惑をかけるものでなければ良いのですが、自然環境の破壊や誹謗中傷、科学の「悪用」といった問題が起こるのならば、看過はできないでしょう。法律やマナーなど、科学によらない社会的な規範を設けるも大事ですが、「シチズンサイエンス」という大学や研究所の人だけでない市民も含めたコミュニティを前提とする科学的な営みの枠組みの中で倫理を考えることで、さまざまな人が安心して科学の営みに関われるようになっていくような土台を作ることができればと考えています。

シチズンサイエンスや在野研究者について整理していくことで、科学の裾野が広がっていけばとも思っています。科学教育を例にとってみますと、例えば科学教育の研究では学校で教職に就いている先生方や市民活動として行っている実験教室的なものが担っている役割は非常に大きいです。しかし、そういった方々が「本業」の傍ら科学教育に関わる研究を大学の研究者のようにバシバシとやっていくのは厳しいものがあります。でも、そういった人にもシチズンサイエンスの取り組みとして2年に1回くらい学会発表しようかなと思ってもらえること。普段の科学への接点が限定的な人でも科学コミュニティに居続けられるようにすること。たとえ離れてしまっても、いつかフラッとコミュニティに戻ってきてくれるようにすること。
科学という文化や営みを健全に持続させていくためには、シチズンサイエンスや科学教育の側にしっかりとした土台があることが重要であると思います。

【2023年度の活動】

  • 下平剛司 (2023). 科学教育の観点からシチズンサイエンスを捉える理論的枠組みの試行的検討. 日本科学教育学会年会論文集, 47(1), 口頭発表.

  • 下平剛司 (2023). 科学における倫理的振る舞いの定式化とその検討コミュニティ・アイデンティティ・規範を手がかりに. 日本科学教育学会研究会研究報告, 38(2), ポスター発表.

  • 舟橋友香, 新井しのぶ, 雲財寛, 岡部舞, 下平剛司, 田中秀志, 中村大輝 (2023). 馴染みのない研究方法論を学ぶ過程にみる科学教育研究者の変容に関する事例的考察. 日本科学教育学会研究会研究報告, 38(2), ポスター発表.

博士課程では「ヒトの進化」から教育を考えます

博士課程では「人間の行動の変化」について研究します。科学教育に興味があったのも、そもそも教育が人の行動を変えることだからだったりします。
ヒトという生物の営みを捉えるときに、社会的な文脈で何かを語ることはよくありますし、もちろん必要です。ただ、その中で「生き物としての人間らしさ」が軽視されていると感じることがあります。

例えばですが、ここ数十年のインターネットの台頭であらゆる情報がすぐ手に入るようになり、多くのラインナップと頻繁なマイナーチェンジを源泉としたビジネスモデルを通して消費のスパンが早くなり、SNSの登場で人間関係がライトに早く作れるようになりました。電車の中は「生産性を向上させよう!」「ビジネスについて学べ!」「流行はこれだ!」などと消費や行動を煽る吊り広告でいっぱいです。

「これって歪なのでは?」と思います。元々の人間の暮らしはそんなに早くなかったはずです。少なくとも、こんな大量の情報に接して対処することなんて、数世代前の人たちはなかったはずです。誰もが「ゆっくりする時間も大事だよ」など口では言っているものの、時間をゆっくりと使うことはだんだんと難しくなっています。これほど激動する環境の変化に生物としてのヒトがどれくらい適応できているのか、と言われるとかなり ”無理” をしている可能性はあるのではないでしょうか?もちろん、文化的な適応を果たしてるのであれば、それはそれでとても興味深い人間がもつ特徴でしょう。

1つ言えることは現代では人間の持つ「生物としてのヒトらしさ」がどのように社会の中に溶け込んでいるかが見えにくくなっているし、見過ごされているように感じています。「生物としてのヒトらしさ」を真剣に考えるような機会も余裕も、少ないと思います。

これは特に教育の分野でも同じだと思います。テストで良い点が取れるように、計算が速くできるように、たくさん記憶できるように。そういったことを目指す教育だし、それができると生徒も先生も評価される。果たしてこのような状況は人にとってどれくらい「自然」なことなのでしょうか。人間という生物種や人間の持つ社会形態に依存した「ヒトらしい」文化の結果である可能性もあるわけです。でも、それがどのくらい「自然」なのか「ヒトらしい」のかを考え、またその観点から教育について考える建設的な議論はとても少ないと思います。教育の話なので個人の意見・アイデアレベルの話はたくさんあるのですが、研究の知見として積み上がっているものとなるととても少ないでしょう。

博士課程では、数理モデルを用いて人間の生物的な特徴と教育について考える研究を行います。フィールドを持った調査はもちろん大切なのですが、すぐに適用できる範囲がその現象やフィールドに限定されてしまい、一般化したり統合的な仮説を得るには多くの分野や時代を超えた研究が必要となります。そういう意味で、数理モデルというアプローチはピッタリだと思います。

テーマとしては特に「教示行動」に注目します。一言で言えば「人ってなんでこんなに教えたがりなのか?」ということについて研究します。
教えるという行為は、例えば道具作りであれば(自分が作業した方が早いのに)わざわざ時間を使って行為をゆっくりやって見せたり他の人のために材料を用意したりと、自分一人で何かをやるよりも非常にコストがかかる行為です。自分の子供に対しての教育は血縁淘汰のメカニズムを考えればある程度理解できますが、人間は血縁のない見ず知らずの他人にも抵抗なく何かを教えることができますし、知っていることをわざわざ教えたがることすらあります。
そんな「教える」という行為が、人間の生物としての進化の中でどのように備えられてきたのかをこれから明らかにしていきたいです。

少し壮大な話になってしまいましたが、自分としてはせっかく博士課程に進むなら壮大なテーマで研究したいと思っていました。どうせやるなら研究の枠組みを自分で発展させていきたいですし、自分が面白いだけでなくてみんなからも面白がってもらえる研究をやりたいです。
抽象度の高い研究テーマではありますが、人間のアイデンティティや人類の起源を考えることに繋がる研究ですので、そのロマンみたいなところは多くの人と共有できればと思っています。

今後の抱負

進学先には「副論文」という制度があり、メインの研究(私の場合は数理モデルを用いた教示行動の進化)の他に、科学と社会に関する研究を行う必要があります。この副論文制度を使って、科学教育やシチズンサイエンスを引き続き研究していきたいです。同じ研究科には科学哲学や科学史を専門とする方もいらっしゃいます。そういった視点も入れて研究を発展させていきたいです。
博士課程で取り組む教示行動の研究と、シチズンサイエンスや科学教育の活動が、互いに理論の源泉とフィールドになり得るのではないかと考えています。特に、シチズンサイエンスの現場でうまくいかないことの理由を理論的に説明できたら、ということは考えていますね。

今、シチズンサイエンスを自分の研究領域として確立する必要性を強く感じています。科学教育もシチズンサイエンスも、今まさに大きな転換点にあります。シチズンサイエンスに関わる国際学会の名称変更や、コロナ禍による生活様式の多様化、さらにはアイデンティティに関する議論の活発化など、様々なアイデアや考え方が過渡期にあります。今だからこそ、この分野でインパクトのある研究ができるという実感があります。
取り組んでいる研究者が少なくて競争率が低いので、分野のトップランナーを目指せるかなというのもちょっとあります(笑)。シチズンサイエンスと科学教育と数理モデルをやっている人って、相当レアですよね(笑)

最近では、科学教育に関する本の読書会やイベントの運営をお手伝いする機会も増えてきました。これまでの科学教育のバックグラウンドが活きていると実感しています。今後も研究だけでなく、こうした実践的な活動にも積極的に関わっていきたいです。日本にはシチズンサイエンスのカンファレンスがないので、そういうカンファレンスができたらいいなと思ってます。