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【よどみの探究:第5回】人によって異なる「研究を究めたいレベル」をどう受け止め、意欲を高めるか?

運営に関わった高校生向けの科学ワークショップの現場から引き上げ、自宅に戻る電車の中に抱志はいた。
その電車で向かいの席にいた大学生らしき2人の会話が耳に入ってくる。

「……車といえば車のゲームの話なんだけど、この前『Velocity Unbound』のゲーム実況の動画見てたんだよ。市街地のコースでタイムアタックしてたんだけど、タイム出すためにマシンセッティングをどう最適化するかとか細かく解説してたし、0.01秒単位でタイミング見て操作してるとか説明してたし。どうやって0.01秒の差が見えるんだよって」
「まあ数字は適当なんじゃないの? でも『ガチ勢』は感覚が違うよね。俺は対戦で勝てるくらいには速く走りたいけどタイムはどうでもいいし、理解できない世界だな」
「それにあのセッティングと同じにして走っても、別の人が真似するのは多分無理でしょ」
「でもそういう設定にこだわるんじゃなくて、『縛りプレイ』とかやってる人ってどう思う? たとえば初期設定だけでステージクリアするとか」
「それはそれで凄いけど、『ガチ勢』とはまた違う方向で極めてる感じがするかな」

抱志が電車を降り、駅から自転車で夜道を走り家路に向かっていた最中だった。
「……ゲームの話をしてたあの子たちの話も何か気になるけど、この前の落語の講演会からずっと思い残してたことも思い出しちゃったな。整理しなきゃ」
2つの「振り返り」が一気に始まってしまったようだ。
自宅に着くなり、抱志はノートPCを開き、「振り返り」の中身をまとめ始めた。


市民の研究活動へのプロジェクト参画について、大きく分けると次の3つの段階があると思われる。

  1. つまみ食い的に、ルーティーン的な活動に参画する

  2. ある程度ルーティーンから逸脱するような活動に、ある程度の本気度で参画する

  3. プロジェクトの根幹に関わりそうな活動に、強い本気度で参画する

ただ問題は、1.の参加者はずっと1.のままであろうという前提で、活動の本気度を高め、参加者の成長を促すしくみがうまく設計できていないことにあるのではないか。そしてその成長の方向は必ずしも職業研究者と同じ方向とは限らないので、各市民それぞれが望む成長の方向性も考える必要があるのではないか。
ゲームのプレイヤーをみれば2.や3.に相当する「ガチ勢」側もいるが、たまたまそのゲームで本気度が高いだけでほかのゲームでは非「ガチ勢」側かもしれない。そして多くの非「ガチ勢」側のプレイヤーがゲームの価値を支えているし、いつか本気を見せる時が来る可能性もある。さらに「縛りプレイ」を模索する人は、ゲームとの独自の関わり方を通して新たな価値を自ら見いだそうとする人とみることもできるだろう。このような「いまは本気度が高くないものの関心を持っている人」や「研究活動との独自の関わり方をしようとする人」の視点で改めて研究活動の市民参加を見直すことも有用ではないか。
また、2.や3.のような本気度の高い参加者の関わり方や学び方についても考える余地がある。先日の落語家・悠楽亭晶麟(ゆうらくていしょうりん)の講演会の話によれば、昔は師匠宅に住み込みで稽古をつけてもらう弟子も多かったが、晶麟自身もそうだったように師匠宅に通って稽古する通い弟子が現在では主流だという。住み込み弟子をしていた兄弟子たちから住み込みだからこそ知ることができる師匠の「濃い」考えを伝えられたこともある一方で、何の意味があるのかわからなかった雑用も多くメリットばかりではない。漫才などジャンルの違う演芸になれば、芸能事務所が主催する学校で「合理的に」学ぶ事例も増えている。ただ、どこかで「濃い」考えを知る機会は何らかの形でつくる必要はあるとも感じているという話であった。
研究活動への市民の関わり方や学び方は、学校での学び方とも、住み込み弟子としての学び方とも大きく異なることは明らかである。そこで、たとえばゲームのプレイヤーのコミュニティなどのあり方の考察を通して、市民の学び方のモデルのようなものは示す必要があるだろう。ただ、その際に学校での「合理的な」学び方や徒弟制の「濃い」考えの学びの中にもヒントが潜んでいる可能性はあるので無視できるわけでもないと考える。
もっといえば、市民と職業研究者という現状はっきり分かれたポジションについても、本気度という視点からこのポジションの間にグラデーションが生まれるかもしれない。そう考えると、さまざまな立場の人々がコアにいるような研究活動のプロジェクトや、研究を「複業」的に捉えて活動に関わろうとする人々が登場することが期待される。


2つの「振り返り」をまとめる中で、抱志は自分自身が研究を「複業」のひとつとして捉えていることに気づくとともに、自分のようにある程度器用に複数の仕事のマネジメントができる人がどれほどいるのだろうとも気づいた。
「いまは自分のことで手一杯だけど、将来は『複業』できる人を増やす活動にも関わったほうがいいのかもしれないな」
未来の自分と研究活動の像が見えたところで区切りをつけ、抱志はようやく眠りの準備を始めた。

より深く知るための文献ガイド

今日野川抱志が「振り返った」世界に興味を持った方へ、関連する文献を紹介します。

超一流になるのは才能か努力か?
心理学・認知科学の用語であるスキルを究める認知過程を熟達と呼びます。熟達研究はこの本のように「超一流」レベルまで究められる人の学習について、そうでない人の違いと比べながら分析がなされますが、著者も断っているように熟達のレベルが明確に定義できる分野が研究対象になることがほとんどです。この本から得られる知見も重要である一方、熟達のレベルが明確でない場合や熟達する対象となるスキルの模索という問題が残ります。この残された問題こそ研究活動への市民参加に大きく関わる可能性があります。

実践知
さまざまな職業の人々の現場で、どのように自身の仕事に熟達してゆくかを追った研究をまとめています。「本業」の仕事の熟達という観点からすると、関わり方の本気度が異なる研究活動への市民参加における市民の場合、どのような形で、そしてどの方向に熟達しうるかという問いから議論が必要です。それでも、市民の探究的な学びのモデルの大枠としてこのような形がありうるという位置づけで捉えられるでしょう。

習得への情熱
競技チェスの元世界王者が武道を究めてこちらでも世界を制したという著者が、自身を振り返ってエビデンスとともに熟達に必要な学びは何かを考察した本です。基本的に本気度のきわめて高い学習者の視点ではありますが、たとえばシンプルな動きや状況から本質を見いだす学びは、今回の内容でいえば「極限まで操作の条件を制約するなどした『縛りプレイ』から新たなゲームの面白さを見つける」ような試みともつながる面があるなど、市民の探究的な学びへのヒントは多数あると考えます。

体はゆく
その人にとって未知の領域の身体運動について、テクノロジーも活用しつつ熟達してゆく過程をさまざまな分野で追っています。テクノロジーの活用による熟達というとつい「誰でも同じようにできるようになること」とイメージしがちですが、むしろ人がテクノロジーを介して自分の身体や環境と向き合う中で、「その人ならではの『できる』」を模索することが熟達の本質であると指摘しています。市民の探究的な学びにおいて、「その人ならではの『できる』」をどう生かせるでしょうか。

マイクロトレンド
いわゆる「平均的な」習慣や生活様式ではなく、「勉強はできるが学校に通わない人」「極力医者にかからないで治療手段を探る人」「睡眠時間を極限まで削る人」など「極端な」習慣や生活様式のもとで生きる人々に着目して分析した本です。「平均的な」側からは一見奇異に感じる、その習慣や生活様式にある種の合理性が潜んでいる可能性があります。熟達とは異なる観点ですが、このような切り口は今回問いたい「その人ならでは」の視点を考えるヒントになりえます。

著者プロフィール

橋口 七(はしぐち なな)
研究の新たな可能性を模索する「研究の研究家」。「研究者」ではなく「研究家」を名乗るのは、研究をある種アマチュア的な視点で捉えることが大事と考えるからでもある。
既存の研究の枠組み、価値観、評価体系や研究に関わる人のキャリア形成に違和感を持つ中でシチズンサイエンスと出会い、研究者の立ち回り方、市民の研究への関わり方の可能性を開拓する必要性を痛感する。知ること、学ぶこと、探究することへの自覚と価値を掘り起こすための表現活動とその反響を通して「研究の研究」を進めている。
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