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原宿は渇きを満たさざる

HARAJUKU CULTURE

原宿、どこもかしこも
異国籍の方々が多い多い。
ひっさびさに来て驚いた。

原宿へ来たのは
半年ほど参加している
オンラインコミュニティのオフ会に
参加する為。

いやーー、しかし
ここに来ると
自動的に学生時代にタイムスリップしちゃう。

まず、原宿駅降りると
当時はテント村があって。


今は無きテント村

商標権とか肖像権、って知っているかい?と
店一軒ずつ尋ねて回りたいほどの
コピー品、芸能人の写真が
軒並み占めてた。(しかも大半盗撮)
無法地帯。

でも、そんな
裏ブロマイド的なものには
普段見れないオフショットとか
色んなのがあって(絶対盗撮だった)

クラスのみんなが
スケルトンの下敷きに
こぞってそこで集めたものを
入れて悦に入っていた。

大半の女子が
ジャニーズとかアイドルを入れている中
わたしは大好きな「岸谷五朗」さんを
デカデカと飾っていた。

馬鹿にしたいやつぁしてくれ
まぁ、お嬢さん方には
わかんねーだろーなぁ…

と、クラスの女子達を尻目に
ほくそ笑んでいた。
ローティーンにして
既にこじらせてますね。
(いいぞ!もっとやれ!笑)

調子に乗りたくもなる

当時はスーパーラバーズとか
身につけたりなんかすると
なんかちょっとだけ
最強になれた感じがして。
浮かれて友達と笑い転げてた。

共通のムカつく先生
共通のムカつく親の話
共通の好きなアーティスト
共通のカワイイ

共通の話題は尽きなくて
笑っても笑っても笑い足りなくて
苦しかった。 

楽しすぎて調子に乗っちゃって
もう、ただ「原宿」にいる「あたし」
ただ、それだけで嬉しくて楽しくて。


神宮橋には待ち合わせしている人たちや
(まだ携帯なんてない)
路上ライブ、
ビジュアル系のコスプレのお姉さんたち。

写真取らせてください〜、って言うと
みなさんそれぞれに
自分の決めポーズを持っているらしく
ジョジョ立ちみたいな構えをしてくれて。
それを「写ルンです」で撮影して。

うんうんうんうんうん。
あぁ〜〜懐かしや。

中学時代の楽しかったことがひさびさに
思い出されて、何とも言えない
気持ちで胸がいっぱいになりました。

嗚呼、平成は遠くになりにけり…。

お正月には、ラフォーレへ。


初売りに馳せ参じると
そこはまさに「戦場」で。

あちらこちらで
「今から全品50%オフでぇぇえす!!!!!」
などと拡張器を使って
叫びまくっている店員さんの声

それらがかき消される程の熱気の中で
自分の欲しい物をひっつかんで
カゴに入れて…

自分の体の横幅を超えるほどの
ショッピングバッグを
肩から下げて帰って…

そう、あの頃はたくさんたくさん
欲しい物があった。

でも手に入れても満たされないんだ。
手に入れるまでの瞬間までが最高潮で
手に入れた途端に渇いていく。

原宿、キラキラピカピカ

 
物という物が溢れていて。
オシャレな人がたくさんいて。
最低も最高もいっぱいあって。

刺激。刺激。刺激。
嫌なことを掻き消してくれるような
気がしてしまっていた。

あたしは、あれも欲しい
あたしは、これも欲しい
あたしは、お金が欲しい
あたしは、かわいくなりたい。
あたしは、かっこよくなりたい

「あたし」は何でも欲しがった。

だけど、本当に欲しい物は
手に入れられなかった。
単純に値段が高いから。
何もかも高い。

そこを、やっとこさ値段の高いものを
頑張って頑張って手に入れたとて
やはり、すぐさま渇いていく………。

なんなんだ?これは、って思っていた。
自分の欠落した何か。

欲求の奥では
怒りと悲しみと得体の知れない何かが
底なしに渇いていた。

本当に欲しい物は何?


わたしが本当の本当の本当に
欲しかったものは
「本当の自分」だった。

いや、これ今になれば、の話です。
当時はそんなこと思わなかった。
わからなかった。

今になると、思う。

当時の自分は
偽りの自分のままで
欲しい物を手に入れようとしていた。

とは言え、今だってそういうところ
全然まだある。
でも、その自分には気づいてる。

そして問うてる。
本当は何が欲しいのか。
何故、それが欲しい自分なのか。

本当に欲しい物がわからなかったから
満たされなかったんだ。

本当に欲しい物に
気がつけた瞬間、満たされる。

自分を知るだけで。
自分に気がつくだけで。

そして、その「自分」を
形成しているものは何なのか。

「いま」生きているのは「誰」なのか。

自分がわからないと…

「これが大好き」の数よりも
「これが大嫌い」の数のほうが
圧倒的に多くて。

何かを満たしたいから
何かを手に入れて
だけど何かが満たされなくて。
だからまた何かが欲しくなって。

自分の事がわからないまま
欲しい物を手に入れて
自分の事を知ろうとしないまま
また新たに欲しい物を手に入れて

気が付いたら手に入れたものに
合わせようとしだしている自分すらいて。
憧れたものに相応しい自分になろうとする。

もうめちゃくちゃ。 


本当に自分が言いたい言葉を言う
本当に自分が動きたい動きを動く
本当に自分が歩きたいように歩く

そんな風に
心と身体とが本当に一致している瞬間って
これまで生きてきた中で
どれだけあったのだろう。

自分は「本当には」歩けていなかった

話は変わって
以前、瞑想会に参加して
歩く瞑想をしたときのこと。

とにかく、すべての動作を
ゆっくりと行う。 
どんな動きや反応にも
「気づき」を入れていく。

(足を)持ち上げる
(足を)前に出す
(足を)下ろす

大まかにやると、そんな風に
実況中継していく、というやり方。

それはもうすでにやったことがあった。
何回も。何時間も。 

ただ、歩く。
無心になって歩く。 
歩くということに集中をする。

何も難しいことはない。 
だけど、こんな簡単なことが難しいのだ。

なんとなく出来てる気がしたり

自分で好んで参加したのに
こんなことやりたくないわ、もう…

帰ろうかな、腹立つ。と思ったり…


そして
ふいにその瞬間は訪れた。

あまりにも衝撃的で愕然とした。
涙が出てきた。

わたしは、これまで生きてきて
本当には歩けてすらなかったのだ、と
気づいてしまった。

ショックだった。

本当に自分の意識と動作と
反応とを捉えたり

自分というものを一致させて
歩いてきた、などという実感が
生きてきた中で全くなかったのだ。

自分は、本当の意味で
歩くことすらできていなんだ…

自分は歩いているつもりでいたけれど
本当には歩けてさえいなかった…

ということは

わたしが生きてきて、してきたことって?

歩けてすらいなかったのだから
本当に人と話せていた?

本当に話を聞けていた?

本当に触れたり触れられたりできていた?

本当に自分ができていたことってあったの?

本当に生きていたのか、わたしは。

その事に気づけたという
喜びというか、解放感というか
得体の知れない衝撃に
浸って、泣き崩れてしまいたかった。

周囲は黙々と歩く瞑想に励む人たち。
自分もその中にいて
まさに一挙手一投足に気を配り続けている
静かな空間だというのに

わたしは感情的にならざるを得ない
気づきに満たされてしまった。

それは、絶望した悲しさではない。

自分は闇にいたんだ!
と、気づいた途端に
光が差してきたような強烈な感覚。

いつまでもこの事を
考えていたい

この気づきを味わって
良い気持ちに浸っていたい

でも、その情動に
また気づきを入れて
淡々と、粛々と

(足を)持ち上げる
(足を)前に出す
(足を)下ろす

と、歩く瞑想をし続けると
その情動は通り過ぎていった。
 

このように、常に
自分の思考が飛び交っており
それを掴まえるのか、見送るのか
自分で決め続ける。気づき続ける。

それは「瞑想」という行為のみによらず。
常に、常に。
生きるってそういうことなんだ。


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