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自由になるためには

つい先日、修羅場という修羅場を
潜ってきた方のお話を聞く機会があって。

銃口を向けられたことって
わたしは、これまで生きてきた中で
そんな経験はないんですけど、

そのお話をしてくださった方は
とある事件に遭って
自分の家族、ひとりひとりに向かって
誰から撃ってやろうかと凄まれたときに

わたしから撃てよ!!!と言い放った
その隙に、家族を逃がしたのだそうで。

その家族が
通報をしてくれて、事なきを得た、と。

いや…
そんな映画の世界っていうか
リアルにそんなことあるんだっていう
エピソードの連続で
わたしは口が開いたまま話聴いていた。

詳細を伏せているので
ちょっと、何が何だか感満載ですが
ここに綴っておきたい事というのは
このストーリーの詳細ではなくて

この心境になる状況、生き方。
生き様、なんですよね。

こうやって文章にすると
とても淡白になってしまうけれど
こんなことどうするんだろう
自分の身に起きたら。

撃たないで!という消極的な気概と
真反対のそれって

なんか…何とも言い表し難い
気合いというか何かしら出てるんだよね。
凄みというか。

その、語ってくださった方から
なんか漂っているんですよね
存在から、その何かが。  

そしてそれは何なんだろうそれは、って。 

その方は恐らく
暴力に対してそれを上回る暴力で
抵抗しようとしたのではなくて

その、やれるもんならやってみろ、な
凄みで相手を圧したようだった。

いや、いやいやいや、
違うんだよな…

そのお話を聴く限りでは
相手に向かって
やれるもんならやってみろ、という
言葉を言ったらしいんですけど

その方の醸すものって
好戦的な態度のそれではないんですよね。

やれるもんならやってみろ、の
言葉の中にある想いって
「あなたの好きにするが良い」
だと思うんです。

そして
「わたしはわたしの好きにする、わたしは生きる。」
という意思表明のような。

いずれにしても、なんなんでしょう。
自分も相手も、何に対しても
コントロールしてやろうという
窮屈さがない。

そして、やっぱりそういう人って姿勢からして
シャンとしてるんだよね。

佇まいからしてもう、漂うもの、空気感…
自分の生き様を貫くんだという
そういう一筋の「何か」が通っているというか。

そうそう。
何でも受け止めてやるんだ、っていう
包容力と、すべてをいなすような… 
その方ご自身の発する何かはとても穏やかで。

うーん。なんだろう。
なんなんだろう。あの漂うものって。

相対している人物の行動を見ていないんだろうな。

相手に翻弄されないで
何か、見据えているものがあるんだろうな。
そういう人特有の、あの醸し出す何か。

あれは一体何なんだろう。



その話以外にも
家族の軋轢に翻弄されながら屈せず、
生き抜いてきたエピソードを語ってくれた。

その方は、特段武勇伝を
語るといった感じでもなく
ちょっと、その場の話の流れで
そういった話をポロリと話してくれて。

何にしても、自分のことを信じていて
どのように生きたい自分でいたいかという…
その方の発する何かが伝わってくる。

そういう、ただならない何かが漂っていて
何なんだろうこれは…と
言葉にならない何かを肌身に感じていたんだけど

要するに、被害者じゃないんですよね。
意識が。この方って。

あらゆるピンチというかトラブルに
見舞われても、
ご自身を被害者として捉えていない。

ただただ、その時にできる最善を
尽くしているんだろうなぁって。

つまり、その瞬間瞬間を
感じて、考えて、動いている。
できることをできる限りやっている。

人智を尽くして天命を待つ、的な。

だから、何が起きたかと出来事に
対処する人生いうよりも

自分はこうやって生きるんだ、という
バチッと、自分のすべてが一致した
想いや行動、発するものがあって
出来事に対して常に最善を尽くす、というか…

…なんて、分析しちゃったりしてさ。
飲みの席なのに。

わたしってオタク気質というか
図らずも、めちゃくちゃ分析してしまう、
しすぎてしまう性分なので

そういったお話をたまたまチラッと、
聴く場だったんだけど
もう、そういったことを
感じまくって心が動かされてしまって

ボロボロ泣き出してしまって
本当に困ったし、恥ずかしかった。

そういう自分をまだ
どう取り扱って良いのかわからない。
もう良い歳なのに。困る。困ってます。本当に。

でも、こういう熱い展開が
大好きだから感動しちゃうし
もう仕方ないんだと諦めてます。


とにかくその方に
会えて良かった、生きてきてくださって
本当にありがとうってハグさせてもらって。

それしかできなかった。
それが自分のできることすべてだった。
恥ずかしいけど!

全部、ありがとうって想いを伝えた。
言葉にならないものも。

ここで、ハグをするという
行動に出られた自分というのは
正直、すごく嬉しかったんですよね。

いつもはそのように感じていても
どうやってそれを伝えたら良いのかわからなくて
伝えようがなくて困っていた。

泣くのを堪えるとか、
後にその想いを歌にするとか、
どうしようもない想いを
どうにか何かに変えるしかなくて
悶々とする、みたいな。

だけど、もう
伝えたくて、渡したくて、
自然とハグをしてしまう自分になっていて。

これも、合気道の稽古に
参加させていただいていて
人に触れるということに

喜びとか、自然な循環のようなものを感じて
身体で表すということが
自分に馴染んでくれていた結果だったように
思うんですよね。

 



このご時世で、
色々が色々あって

みんなでお食事したり、
ワイワイ集まるということができず
数年会えなかった人達、
一同に会する機会があったんです。

いつもなら自分から近づいて話すのを
臆してしまう場面で
自分から近づいていって
話しかけたり、握手したり、ハグしたり
できたんです。

言うなれば、人と接するのが
怖かったり恥ずかしかったり
逃げ出したくなったり
自分の中で葛藤してしまって
会話を楽しむどころではなかったんですけどね。
それまでは。

だけど、自分の中の壁が無くなっていた
そのことが嬉しくて。 

人と触れるのってこんなに嬉しいんだ、
楽しいんだ、幸せなことなんだ、って
教えてもらった気がしました。



わたしの文章は
推敲したものではないし、表現が整っておらず
稚拙であることが
なんだか恥ずかしいなと思っていたけれど

内観の心の動きそのものを
綴っているのが伝わってくるよ、
それが良いよ、と言ってくれる人もいて。

その言葉にとても救われたと言うか
この自分のままでいいんだな、って
思えたんですよね。

多分、自分でもそう思いたかったけど
自信がなくて、確信として
そのようには思えなかったところに
優しく手を置いてもらったような感じがして。

そのような流れに至るのだって
自分が、いま現在の自分そのままを
表現できているからであって。

自分が自分のままで
表現できるという、このこと自体が
本当に有難いことなんだよね。

この自分でいられるということも
自分ひとりではなくて
たくさんの人達と出逢ってこられたり

命を繋いできてくれた両親や
そのまた親やそのまた親、、と
数え切れない数千、数万の命があって。

理想に適った自分ではないけれど
この現在の自分で良しとしています。
納得、しています。




そんなこんなで
人と肌身で触れ合うこともだし
言葉のやり取りで触れ合うことも

何にしても
自分の中の「前提」であった
「人が怖い」とか
「人を不快にさせてしまうであろう自分が絶対に許せない」
といった信念が消えていたことは

実際に人と触れた時の
自分の言動によって気付けたことだった。

人との間にある障壁は
人と触れ合うことでしか触ることができない。

そして、その障壁は
自分でしか築き上げることができないし
壊すこともできない。

人と触れ合ったときに
その障壁があるのかないのか、
そして必要なのか不要なのか
気づくことができた。

正直なところ、その障壁は
完全には崩れ去ったりはしていないと思う。

だけど、それを超えるほどの
人と触れ合いたい、とか伝えたいとか
コミュニケーションを楽しみたいという
想いが勝るようになったのは確か。

だから、この障壁を取り除こうとか
躍起になるようなことを
しないでいいんだろうなぁと
楽観的に捉えています。

スッ、と自然にハグできる人が
羨ましいなぁとか憧れることはあるけれど

障壁がありながらも
それを越えた先のコミュニケーションを
楽しむということ、
これもまた一興なのでは、と。



冒頭の話の、種明かししちゃうと
飲み屋さんに、パートナーと
パートナーの父、つまり義父。
3人で行ったんです。

カラオケタイムになり騒がしい中
耳打ちしながらママさんとだけ
二人で話していて

ママさんの生い立ちとか
互いに重なるところがあり

さくらちゃんも
わたしと似てるのね、なんて。

ママさんとあれこれを分かち合っていて
つい、その時に
「お父さん(義父)が、俺をお前の本当のお父さんだと思えよと言ってくれたんです」
なんて言いながら、自分号泣wwwwwwww

もう、目の前にいた
お父さんの手ぇ握りしめて
本当に大好きなんです、本当に良い人なんです、
お父さん!!!!
もう本当に感謝しかないんです!!!とか
力説しだしてる自分がいて。

いつも思ってたけど言えなかったこと
勢い任せにダァァアっと口走っちゃって
お父さんも、この手を握り返してくれて
ママさんも菩薩みたいな顔して微笑んでいて。

その全体を見て
パートナーも、嬉しそうにしていた。
なんかすごい光景。

こういう経験をさせてくれるんだよね
彼は。いつも。
さくらは人と触れなさい、って。

わたしが嫌がることでも
わたしの本質の為には必要なことだから、なんて
何か遠くを見据えて。
わたしを人と触れ合う場に行くように仕向ける。

それが、これまでは
修行のような苦行のような
だけど、やると何かを乗り越えられて
人との壁がその都度崩れていって。



で、飲み屋さんには
わたしたちだけじゃなくて
若い人たちのグループもいて。

店内はカラオケで騒がしいから
わたしたちの昭和なノリというか
泣き笑い、抱擁、そしてお酒を交わす、
みたいな状況も
うまいことかき消されていた。
と、思う。きっと。たぶん。
いや、そうであってください…恥ずかしいから…。


はじめてのことだったんだけど
わたしとパートナーで歌ったら
もう、みんなで超盛り上がってくれて
みんなでハイタッチとか握手とか
ワイワイしちゃって。

そういうノリってはじめてだったんだけど
すごい楽しかった。

みんなで騒いで、歌って、笑って、泣いて。
全員と握手。握手。握手。

宴もたけなわ、というか
普段20時には就寝するという
我々であったが、
0時に義母が迎えに来てくれて
その席をあとにした。

このお母さんが…
本当に仏なんですよ…

自分は控えていて、みんなが
楽しんだり喜んだりしてるのを見たくて
準備したり、駆け回ったりできてしまう方で。

そんなお母さんと、
豪快でビッグラブなお父さんの
息子なんだなぁ、彼はつくづく…と
帰省するたびに思う。思わされる。

そんな彼らにどれだけ支えてもらってきたか。
わたしは。

それを思い起こして
感動して泣いてる場合じゃない。
浸り続けてる場合じゃない。

動いて、最善を尽くす、
行動をしたい。

すごいパワーをもらった。




そんなこんなでお店を後にして
車に乗り、振り返ってみたら
彼らのうちの一人の誰かが
店の外に出て、こちらに向かって
見えなくなるまで
手を振って見送ってくれた。

田舎だから街頭もなく
真っ暗で誰だかわからなかった。

ただ、その黒い影が手を振る姿に
手を振り返して

人と打ち解けたりすることって
こんなに楽しいんだ、って教えてもらった。


その次の日は、パートナーの
親族たちとバーベキューして
わたしたちの歌でまた盛り上がってくれて。

やっぱり…生でライブやるのも
いいよなぁって思えた。思わせてもらった。

前述した通り、数年ぶりの再会に
喜びを表現した、表現ができたということが
嬉しくてたまらなかった、という訳なんです。



ここまで読んでくださる方、
本当ありがとうございます。

追記したら5000文字超えちゃったよもう。
ありがとう、本当に。

こんなに長文を読んでくれた
そんなあなたに、わたしが
いま伝えたいことは

あなたの好きなこととか
感じたこととか
なんでもいいから

立派な形でなくてもいいから
表現してみてほしいなぁと思うんです。

見てくださいよこのわたしの
取り止めのない文章。

本当にただ自分の心の中のことを
ただ言葉にしているだけで
洗練のせの字もないですけど、いいんです。
これで。

そして、これを良いと
思ってくれる人もいる。
思ってくれない人もいる。

それでも
自分を、想いを、言葉で表現したい。

その気持ちを自由にさせられる、
そんな場所です。ここは。

そんな場所へ
何のご縁か、こうして訪ねて来てくれて
お付き合いしてくれてありがとう。

そして、あなたも
自分を自由にさせてあげてほしいです。

言葉を用いて表現してみたり、
声でもいいし、
身体で、絵で、歌で、踊りで、スポーツで…
とにかくなんでもいいから。

本来、自分は自由であったと思い出せることを
意識的にやってみてほしいなぁと
心から伝えたいです。

わたしも意識的にやりたいと
思っている人です。
少しずつ、やっています。

気づいたらその「少しずつ」が
積み上がっていて、増えていました。

あなたもやっていてくれたら
すごく、すごく、嬉しい。です。

自分という存在は
本来自由であった、と思い出せる瞬間を
増やしていきたいですよね。

やがて、その瞬間ばかりが
続く人生になっていく、それを見たい。

















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