掌編小説|『傘子さん』
作:元樹伸
千晶が通う小学校の通り道には、朝子さんがいます。
朝子さんは黄色い旗を手に、いつも横断歩道を渡る千晶たちの安全を守ってくれていました。
でも彼女はいつもしかめ面で、小学生たちから怖がられていました。
それに彼女は晴れた日でも赤くて小さな傘を腰にぶら下げていたので、みんなからは朝子さんではなく、傘子さんと呼ばれていたのです。
「今日も傘子さんがいるぞ」
「こら、悪ガキども!」
男の子たちが面白がってからかうと、傘子さんは顔を傘みたいに真っ赤にして怒ります。今まで彼女の笑顔を見たことがない千晶も、傘子さんが怖くて苦手でした。
学校からの帰り道、千晶は路地の奥で段ボールに入れられた子犬を見つけました。子犬は千晶を親だと思ったのか、抱き上げると千晶の胸にすがりついてきます。
でも千晶のうちでは動物が飼えません。せめてミルクだけでもあげようと、千晶は子犬を段ボールに戻すと、急いで家に帰りました。
家に着くと、ずっと走ってきたので服は汗でびしょびしょ。冷蔵庫を開けると冷えた空気で汗が冷たくなって、千晶は寒さでブルッとふるえました。
するとそこにお母さんが現れて、出かけようとしている千晶に留守番をお願いしました。
「すぐ戻るからお願いね」
少しくらいなら戻るのが遅れても大丈夫よね。そう思った千晶は留守番を引き受けましたが、しばらくすると、細かい水の粒が窓の外をたたき始めました。
雨です。
五分もしないうちに、ポツリポツリはザーッという音に変わりました。このままでは、あの子犬がびしょ濡れになってしまいます。そこにちょうどお母さんが帰ってきました。
「すっかり降られちゃった、千晶、タオルをちょうだいな」
「はい、お母さん!」
千晶はお母さんにタオルを渡すと、自分でもう一枚持って、家を飛び出しました。
「自分で段ボールから出て、雨宿りしていれば良いんだけど……」
千晶は願いながら雨の中を急ぎました。
路地に戻ると段ボールの中から子犬の鳴き声が聞こえました。段ボールには赤い傘がさしかけられていて、子犬は雨に濡れずそこに居ました。
「誰が傘を置いていってくれたのかしら」
千晶はホッとして、持ってきたミルクを子犬に与えました。
「でもこのままじゃ、風邪引いちゃうよね」
千晶は子犬がかわいそうでがまんできずに、抱いて連れ帰りました。
千晶の家族が住むマンションでは、動物を飼うことが禁止されています。それでも千晶はお母さんに一生懸命頼んで、雨がやむまでの間だけでも、うちに置いてもらうことを許してもらいました。
それから子犬は、飼い主が見つかるまでの三日間、千晶の家にいました。
新しい飼い主はとても優しそうな人で、千晶もお母さんも安心しました。
次の月曜日。
今朝もいつもの横断歩道に、しかめ面の傘子さんがいました。
でも彼女の腰にぶら下がっていた傘はうすい青色でした。それに気づいた千晶は、子犬と出会った路地での出来事を思い出しました。
赤い傘。
「もしかしてあの傘は、傘子さんの?」
千晶はおそるおそる傘子さんに近づいて声をかけました。
「あの……」
「なんだい?」
あいかわらず傘子さんはしかめ面のまま。それでも千晶は勇気をふりしぼって話しかけました。
「この前、子犬に赤い傘を貸してくれませんでしたか?」
「ああ、あのことか」
やっぱりあの赤い傘は、傘子さんのものでした。
「あの、ありがとうございました」
「なんでアンタに礼を言われるんだか」
「あの子、優しい人に飼ってもらえることになりました」
その時、赤信号が青に変わりました。
「そりゃよかった。ほら、はやく渡りな」
旗をふる傘子さんの腰で、青い傘が小さく踊るように跳ねました。
「はいっ」
そして傘子さんは最後まで笑顔になりませんでしたが、その声が千晶にはとても優しく聞こえました。
おわり
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。