掌編小説|『パンと小麦粉』
作:元樹伸
僕は以前から同じクラスの佐波さんが好きだった。
彼女はいつも窓際の席で静かに本を読んでいて、僕はその姿を遠くから眺めているだけで胸が苦しくなった。
そんな彼女に異変が起きたのは今週に入ってからのこと。これまではお弁当を持参していた佐波さんが、何故か昼休みにあんパンばかりを食べるようになった。育ち盛りの十五才に起きた食生活の急変。彼女に何が起きているのか心配になった。
「購買のあんパンって人気ないけど、食べてみると美味しいよね」
佐波さんがあんパンを食べるようになって四日目。事情が知りたい僕はついに我慢できなくなり、食事中の彼女に話しかけた。
「え、うん……」と佐波さんが戸惑いながら答えた。彼女が驚くのは無理もない。これまでの僕たちはほとんど口を利いたことがなく、こんな風に会話をするのは初めてだったからだ。
「だけど佐波さんって普段はお弁当じゃなかったっけ?」
「それがお母さんたち旅行に行ってて。その間はお弁当がないの」
彼女は突然話しかけて来た僕を訝しむ様子もなく、素直に理由を教えてくれた。さらに昼休みの購買部で起こる惣菜パン争奪戦が苦手で、いつも最後に余るあんパンしか買えないのだという。
僕もお昼にはやきそばパンを買いに行くので、その辺の事情は知っている。たしかに購買部のパン争奪戦は熾烈を極めていて、佐波さんが参戦するには荷が重いように思えた。
そもそも昼休みに入荷される総菜パンは、買いに来る生徒の数に対して供給量が足りていない。特に人気商品は早い者勝ちなので、欲しい生徒は命懸けだ。授業が終わると同時に購買部へダッシュし、店に殺到する生徒たちを押しのけつつ栄冠を勝ち取るしかない。
ところが佐波さんはクラスでも一二を争うほど小柄で、教室の座席も出入口のドアとは反対側にあり不利な条件が揃っている。知る限り彼女は好戦的なタイプではなく、むしろ控えめで大人しい性格に見えた。
この三日間、佐波さんは昼休みになると教室から出て行って、その二十分後には自分の席で黙々とあんパンを咀嚼していた。でもそれがやむを得ない事情だとわかった以上、僕は少しでも役に立ちたくて、佐波さんにある提案を持ちかけた。
「じゃあ明日は、僕が佐波さんのパンを買ってこようか?」
「べ、別にいいよ」
予想はしていたけど、佐波さんが遠慮した。でも僕は諦めなかった。
「どうせ自分のも買うからついでだよ。毎日あんパンじゃ飽きるだろ?」
「それはそうだけど……」
しつこいと嫌われるので、これで拒否されたら引き下がるつもりだった。
だけど佐波さんは少し思案してから「じゃあ、明日だけ……」と言ってくれたので、僕は心の中でガッツポーズを決めた。
「わかった。それで何を買ってくればいい?」
「前から食べてみたいと思っていたのは、グラタンコロッケパンかな」
グラタンコロッケパン。通称グラコロパンと言えば、本校で大人気のお総菜パンだ。ホットドック用のコッペパンに濃厚なソースがかかったサクサクのグラタンコロッケがサンドされている。毎日六個しか店頭に並ばないので、普段は先着六名の生徒に買われてしまう幻のパンだ。
ちなみに僕たち一年生の教室は二年生、三年生の教室よりも購買から離れた場所にある。だから終業と同時に教室を出たとしても、上級生の猛者たちを出し抜くのは非常に難しい。
「了解、任せといて」
それでも僕は彼女に大見得を切り、明日の惣菜パン争奪戦に向けて英気を養うことにした。
そして翌日。
終業のチャイムと同時に教室を飛び出し、購買部へと駆けだした。しかし着いた頃には売り切れていて、店の人いわく、グラコロパンはいつも同じ生徒たちが買っていくらしい。
六個のうち五個は二年生と三年生が買い占め、残りのひとつは一年生の男子が買っているというのだ。その一年生の名は山田太郎。彼は陸上部に所属する短距離走のエースで、全国大会に出場するほどの有名人だった。
挑戦二日目。
昨日の失態を謝ったら佐波さんに「心配してくれてありがとう。でも自分で何とかするから大丈夫だよ」と言われた。
それでも今日こそライバルを出し抜いてやろうと、僕は終業の号令も待たずに教室を抜け出した。ところが廊下に出ると、手前の教室から山田太郎がほぼ同時に現れて、購買部に向かって猛然と走り出した。すぐ追いかけたものの陸上部のエースに敵うわけもなく、僕はその日もグラコロパン争奪戦に完敗した。
運命の三日目。
廊下に躍り出るとすでに彼の背中が見えていた。そこで僕はルートを変更して近道となる非常階段を使うことにした。しかし実際に降りてみると階段は螺旋を描いていて、思うようにスピードが上がらなかった。
このままじゃ負ける。
そう思った僕は強引に手すりを乗り越え、後先も考えずに二階から一番下まで一気に飛び降りていた。
着地の衝撃で足が痺れたものの、その後も走り続けて何とか購買にたどり着いた。ところが陸上部のエースはすでに到着していて、僕の目の前でグラコロパンを購入したところだった。
「くそっ」
三日連続で惨敗した自分が情けなかった。そこにお店の人が来て言った。
「はいこれ、いつもの焼きそばパン。今日は惜しかったね」
お金を払ってパンを受け取ると、あまりの悔しさで目頭が熱くなった。
トボトボと教室に戻り、自分の席に座って天井を見上げた。まだ足が痛かったけど、そんなことはどうでも良かった。
「雪原くん」
見ると、机の横に佐波さんが立っていた。
「佐波さん?」
「今日はね、早起きしてお弁当を作ってきたの」
可愛らしいランチボックスを差し出して、彼女が言った。
「そっか、毎日パンじゃ栄養が偏るもんね」
思えば佐波さんと約束をしたのは三日前のこと。なのに彼女が、いつまでもそれを待ちわびているわけがなかった。
「それでね、もしよかったら……そのパンとこのお弁当、交換してくれないかな?」
「えっ?」
彼女の思いがけない申し出に、僕は驚きを隠せなかった。
「でもこれ、グラコロパンじゃないけど……」
「わかってる。あなたが好きな焼きそばパンでしょ?」
交換したお弁当の中には卵焼きにブロッコリー、それに焼き魚と揚げナスの煮物が入っていた。黒ごまを振った白飯の真ん中にはカリカリの梅干しが乗っていて、彼女のお弁当はどこを取っても完璧な仕上がりに見えた。
「本当にこんな豪華なお弁当と交換しちゃっていいの? 焼きそばパンの材料なんて、パンも焼きそばも小麦粉で炭水化物オンリーなのに」
「それよりも私のために頑張ってくれてありがとう。昨日も今日も、雪原くんが昼休みに教室から駆け出していくの、ちゃんと見てたよ」
佐波さんはそう言うと、嬉しそうに焼きそばパンを頬張った。
僕はそんな大好きな彼女を見ているだけで、これまでの苦労がすべて報われた気がしていた。
おわり
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。