青春小説|『タイムリープ忘年会』
『タイムリープ忘年会』
作:元樹伸
第一話 忘年会の誘い
年の暮れになって、久しぶりに高校時代の友人から電話があった。年末に部活OBの忘年会があるという。平成元年の今年は、成人したばかりの後輩たちも参加してくれるらしい。
「つまりは松田も来るってことだ」
幹事を務める同期の真関くんが、電話口で含みのある言い方をした。
「へぇ」
動揺していることを勘ぐられたくなくて、気に留めないそぶりで相槌を打ってみせた。けれど僕の気持ちはすでに過去へとタイムスリップしていて、すっと前から好きだった彼女との思い出が蘇っていた。
今から六年前。高校生になった僕は、二学期の途中から科学研究部に入部した。
「科学研は実験室の薬品が使い放題なんだ。それを使って俺と一緒に世界を征服しようじゃないか」
真関くんはそんな謳い文句で誘ってくれたけど、僕は科学研に入部しても世界を征服するつもりはなかった。ただ当時在籍していた写真部が肌に合わなかったので、新しい身の置き場所が必要だと思っていたのである。
科学研に入ってからは、放課後に部室でアルコール砲を作って過ごすのが日課になった。ちなみにアルコール砲とは、気化したエタノールの爆発力を使って紙コップの弾を飛ばす装置のことだ。
「なるほど、これで世界を征服するわけだな」
真関くんはこの研究を見て満足そうに頷いていた。無論、紙コップの弾で世界征服は無理だ。だけど砲筒の大きさや使う薬品のバランスで威力が変わるので、僕は少しでも強い武器を作りたくて、毎日研究を重ねていた。
来る日も実験と改良の繰り返し。周りからは地味な作業に見えていただろう。それでもカメラを片手に「モデルになってよ」と女子をナンパする一味だった頃に比べれば、今の方が健全で楽しい毎日を送っていた。
ところが二年生になると、自分を取り巻く小さくて平和な世界に大きな変化が起きた。なんとそれまで男子部員だけだった科学研に、新入生の女子が入ってきたのである。おそらく彼女たちは、新入生歓迎会で登壇した真関くんの端正な顔立ちに吸い寄せられたに違いなかった。
そんな新入部員たちの中でも、一年二組の松田さんはひときわ目立つ存在に見えた。彼女は肩まである髪の毛を茶色に染めていて、いつも攻撃的な猫のような目つきをしていた。不用意に近づくと引っかかれそうなので、僕は普段から彼女と距離を置くようにしていた。
そもそも、僕は昔から異性と関わるのが苦手だった。だからといって過去に酷い振られ方をしたとか、トラウマがあるわけじゃない。ただの自意識過剰な性格で、女子を前にすると極度に緊張してしまうのだ。だから女子部員は僕の心をかき乱す脅威でしかなく、最初からいない方がましだと感じていた。つまりは独りよがり。言いかえれば完全にやさぐれていたのである。
第二話 松田さんとアルコール砲
アルコール砲を作り続けて一年が過ぎ、威力のない紙コップの弾では物足りなくなった僕は、二年生になったタイミングでコルク弾に手を出した。弾の素材を紙からコルクに変えれば威力が上がる。さらに砲身を細くして、飛距離も伸びるように設計図を書き直した。かくして研究は進化を遂げ、最強のアルコール砲が完成する日も近いように思えた。
その日の放課後。部室の化学実験室には僕と松田さんの二人しかいなかった。他の部員たちも近寄りがたいと感じているのか、彼女はひとりで部室にいることが多かった。それまで僕は松田さんと話したことがなかったから、彼女が本当に怖い人なのかどうかは知らなかった。ただ真関くんによれば松田さんは自分の茶色い髪について、これは生まれつきなのだと学校に嘘の説明をしているらしかった。
視界の外にいる彼女を気にしながらアルコール砲を改良していると、暇そうにしていた松田さんが立ち上がってこちらに近づいてきた。
「先輩、何してるんです?」
猫のような目を細めて松田さんが僕に聞いた。いくら他に相手がいないとはいえ、こんな冴えない先輩に話しかけるなんて変わった子だと思った。
「い、いや、別に何も……」
相変わらず女子に耐性がないので、僕はしどろもどろになって目が泳いだ。
「でもそれって、アルコールで弾を飛ばす奴ですよね?」
「あれ……これが何だかわかるの?」
驚いて思わず聞き返した。彼女が入部したのは真関くん目当てで、科学になんかこれっぽっちも興味がないと思っていたからだ。
「私も自由研究で作りましたから。これってもう完成してるんです?」
話が少し逸れるけど、松田さんは「ですか?」の「か」を発音しない話し方をする。僕は不覚にも、この舌っ足らずな感じがとても可愛いと思ってしまった。
「まぁ大体は……今はコルク弾がまっすぐ飛ぶように改良してるけど」
「コルクを飛ばすんです? 私が作った時は紙コップでした」
松田さんがコルク弾の話に乗ってくれたので嬉しかった。これまで僕の研究成果に興味を持ってくれたのは、真関くんを除けば彼女だけだった。
「威力が物足りなくて、紙コップは一学期で卒業したんだ」
だんだん楽しくなってきて、自然と饒舌になった。さらにいつもと違って、噛まずに話せていたので、自分でも驚いていた。
「コルクは当たったら痛そうです」
「人にむけて撃っちゃダメだけどね」
「ふふっ、たしかに」
松田さんが笑う姿をはじめて見た。学校の不良と付き合っていそうな危ない感じの子だと思っていたのに、彼女はとても笑顔が素敵な人だった。
「先輩、これ撃ってみてもいいです?」
松田さんに頼まれて、エタノールと酸素を注入したアルコール砲を渡した。彼女は誰もいない空間に砲口をむけると、僕の合図でコルク弾を撃ち出した。ところが弾は想定の軌道を外れ、部室の壁に深々とめり込んだ。
「おう、まいがっと……」
松田さんがはっきりとした日本語口調の英語で、天に助けを求めた。
「学校の壁って、こんなに脆いんだ……」
彼女のおかげで新しい発見はできたけど、僕が先生に怒られる未来を避ける術は、どこにも見つかりそうになかった。
職員室で先生に絞られて部室に戻ると、松田さんが僕にむかって深々と頭を下げた。
「先輩、さっきは本当にすみませんでした!」
「松田さんのせいじゃないよ。未完成品を渡したのが悪かったんだ」
女の子との会話が盛り上がって浮かれたあげくの顛末。おかげでアルコール砲の研究は禁止されてしまったけど、自業自得なので仕方なかった。
「先輩が研究を続けられるように、私が先生に頼んできます!」
松田さんが息巻いて出て行こうとしたので、慌てて引きとめた。
「ありがとう。でもいいんだ。もともと暇つぶしで始めた研究だし」
「だけどこのままじゃ……撃ったのは先輩じゃないのに」
あの後、僕は恰好を付けたくて、顧問の先生に自分で撃ったと嘘をついて松田さんを庇った。絵に描いたような下心から出た行動なのに、こうして気を遣われてしまうと彼女を騙したみたいで心が痛んだ。
それからというもの、笑顔と話し方が魅力的な松田さんは僕に懐いてくれるようになった。けれど僕ごときがそんな彼女を好きになったところで、その先にハッピーエンドが待っているとは思えなかった。
そもそも松田さんは真関くんに惹かれてここに来たのだ。魔が差して彼女に告白なんかをしてしまって、拒絶されるのはとても耐えられない。大体にしてこんな卑屈な考え方しかできない自分が、こんなに魅力的な松田さんと釣り合うわけがなかった。
第三話 タイムリープ
アルコール砲の研究が禁止されて以来、部室で本を読んで過ごす時間が多くなった。
夕暮れの化学実験室。僕がその時に読んでいたのは、ヤングアダルトむけのジュブナイル小説。特殊な能力を身につけた主人公が何度も同じ時間をやり直し、恋人の命を救おうとするサイエンス・フィクションだ。
「先輩、読書ですか?」
顔を上げると目の前に松田さんがいた。彼女は夕焼けが映える窓を背に佇んでいて、その姿はとても幻想的に見えた。
「どんな本を読んでるんです?」
ふいに松田さんが本を覗き込み、彼女の顔が目前に近づいてきた。僕は恥ずかしさのあまり逃げ腰になり、立ち上がったとたんに椅子が傾いてひっくり返った。
「ひどい。避けなくてもいいじゃないですか」
当たり前だけど、松田さんは気を悪くしたみたいだった。
「ごめん。でも急に近づいてくるものだから」
「もういいです、帰りますから」
彼女が恨めしそうに言ったので、僕は反射的に叫んだ。
「こ、これはSF小説なんだ!」
慌ててブックカバーを外し、タイトルを彼女の方にむけた。松田さんは本を受け取ると、裏表紙の解説を読みながら言った。
「これってもしかして、タイムリープのお話です?」
タイムリープとは、自分の意識だけが過去に遡って当時の身体に乗り移り、同じ時間を繰り返すような現象を指す。いわゆるSF用語だ。
「そんな言葉、よく知ってたね」
「だって私、科学研ですよ?」
たしかに松田さんは昔、アルコール砲を作った経験があって、僕の研究にも興味を示してくれた。今に思えば、彼女が科学研に入ったのは真関くんが目的ではなかったのかもしれない。
「私も読みたいです。あとで貸してもらってもいいですか?」
「いいよ、もう少しで読み終わるから」
結局、高校三年間でこんなに自分を構ってくれた子は松田さんだけだった。なのに僕は振られるのが怖くて、彼女への好意を打ち明けることすらできないまま高校を卒業した。
受験に失敗した僕は一浪の末に大学を諦めると、写真の専門学校に通い始めた。一年を無駄にしたので当然だけど、同じ教室で勉強する学生のほとんどは年下だ。去年まで後輩だった人たちが同級生になる違和感。聞けば真関くんは大学で彼女を作ったらしい。松田さんは現役で女子大に合格したという。でも自分には恋人どころか同期の新しい友だちすらいない。それが現実だった。
「今年の忘年会はいつやるの?」
本当は居酒屋にいるだけで気分が悪くなるほどお酒が苦手だった。だけど松田さんと再会すれば、あの楽しかった時代にタイムリープできるような気がした。だから僕は、忘年会に参加する意思を彼に伝えて電話を切った。
第四話 妄想と現実
淡い期待を抱いて迎えた忘年会の当日。炭火が香る小さな居酒屋の戸を潜ると、かつての部員たちがお酒を酌み交わしながら、想い出話に花を咲かせていた。
「おう、こっちこっち」
奥のカウンター席にいた真関くんが僕を見つけて呼んだ。彼は読者モデルのようなおしゃれな恰好で、いかにも現役の大学生という雰囲気を醸し出していた。
「会うの二年ぶりだよな、元気だった?」
真関くんは手際よくウーロン茶を注文してから、僕を隣の席に座らせた。
「今は元気だけど、ここに三十分もいたら気分が悪くなると思うよ」
「ははっ、君は相変わらず面白いな」
「いや、冗談で言ってるわけじゃないんだ」
店内を見渡したけど松田さんの姿はどこにもなかった。できればこの雰囲気に酔ってしまう前に再会して、これまで秘めていた想いを彼女に伝えたかった。
「松田さんは?」
「そろそろ来るだろ。忘年会を一緒にやろうって言い出したのは彼女だしな」
「えっ、そうなの?」
「恰好良くなった俺に会いたくなったんじゃないか?」
恋人がいる人の台詞じゃないと思いつつも、昔から彼の飄々とした冗談は嫌いじゃなかった。
ガラガラガラ。
その時、戸が開いて誰かが入ってきた。髪をソバージュにして赤い眼鏡をかけていたけど、紛れもなく松田さんだった。
OBたちから上がる歓声。ジャケットを脱いだ松田さんは白いシャツとデニムを着こなしていて、高校時代とはまったく印象が違っていた。
嘘だろ。僕は今日、この子を相手に告白しようとしていたのか。
すぐに恐れ多いと思い直した。もし街中でこんなにかっこいい女性と出くわしたなら、間違いなく萎縮して目を逸らしてしまうだろう。
「先輩方、お久しぶりです」
松田さんはこちらにむかって小さく手を挙げると、みんなに挨拶をしながら僕の隣に来てスッと腰を下ろした。背後では、彼女のために席を空けていた部員たちの落胆する声が聞こえた。
「遅れちゃってすみません。バイトの引き継ぎがなかなか来なくて」
「もう来られないのかと思って、すごく心配してたんだ」
再会できた安堵感からか、思わず本音が口を突いた。
「へぇ、すごく心配してくれてたんですか?」
松田さんはこちらを見ずに軽く受け流すと、メニューを見るまでもなく生ビールを注文した。それに彼女は昔と違って、疑問の「か?」をちゃんと発音していた。
三年という歳月は、こんなにも人を変えるものなのか。僕は愕然としていた。つまり今の松田さんは高校時代とは別人。だとしたら期待していたタイムリープは早くも失敗に終わったといえた。
そこに鍋が運ばれてきて、テーブルのカセットコンロに火がついた。
「あと十分くらいでお召し上がり頂けますので」
店員さんが鍋の準備をして去った後、僕たちは松田さんの中ジョッキが来るのを待ってから三人で乾杯した。
「先輩ってお酒飲まない人なんですか?」
僕がウーロン茶をお代わりする姿を見て、松田さんが聞いた。
「じつは全然飲めないんだ」
高校時代はずっとアルコール砲を作っていたのに、今思えば皮肉な話だ。
「だから去年は来なかったんだよな。なら何で今年は参加したんだ?」
真関くんが水割りを飲みながら、わかりやすく話を振ってきた。
「それは……」
松田さんがジョッキを手にこっちを見ていた。高校を卒業してからずっと待ち望んでいた瞬間。告白するなら今だった。
でも彼女に振られれば絶望するし、笑い者になる。短い葛藤の末、僕は真関くんがくれた絶好のチャンスをたった一言で台無しにした。
「そりゃあ……みんなと会いたかったから」
これでタイムリープも松田さんへの告白も失敗。あとはここで気分が悪くなるのを待つくらいしか、今の僕に残された道はなかった。
第五話 後悔
「そっか……」
真関くんが呟いてグラスを口に運んだ。
「でもお店に入ってきた時、一瞬松田さんだって気づかなかったよ」
いたたまれなくなって僕は話題を変えた。
「あ、この眼鏡のせいですか?」
眼鏡もそうだけど、今日の松田さんは全身リニューアルで、とても洗練された女性になっていた。
「それって伊達眼鏡なの?」
「いいえ、ちゃんと度が入ってますよ」
聞けば視力は高校時代から良くなかったらしい。それで人を見る時に目を細める癖がついて、周りから目つきが悪いと思われていたのだという。
「先輩は去年から写真の学校に行ってるんですよね」
松田さんは、僕が一浪して専門学校に進んだことを知っていた。
「まいったな、そこまで知ってるんじゃ近況報告は必要ないかも」
隠すつもりはなかったけど、聞かれなければ答えないつもりだった。
「すみません、真関先輩から電話で聞いちゃったんです」
「俺は聞かれたから答えたんだ」
「だって気になるじゃないですか」
それで僕の現状を知った彼女はどう思ったのか。気にはなるけど、知りたくなかった。
沸騰した土鍋から蒸気が上がって、重そうな蓋がカタカタと音を立てた。
「そろそろ良さそうですね」
松田さんは慣れた手つきで鍋蓋を外して火を弱めると、煮えた具材を取りわけてくれた。
「お熱いうちにどうぞ」
「ごめん……ありがとう」
「ふふっ、何で謝るんですか?」
自分でもよくわからなかった。松田さんがくれた小皿の中にはエノキに白菜、鶏肉が入っていた。湯気が立ちのぼる食べ物を前にして、頭の中に過去の記憶が押し寄せていた。
これまでの僕は後悔ばかりの人生だった。高校時代は居心地が悪いからと好きだった写真をやめた。科学研でも一年続けたアルコール砲の研究を断念し、好きな子への告白すらできなかった。何もかもが中途半端。あげくには大学を諦めたことで、今は目の前にいる真関くんや松田さんに強い引け目を感じている。自分が情けなくて目頭が熱くなった。
「先輩、泣いているんですか?」
松田さんが驚いて僕の顔を覗き込んだ。
「おいおい、飲んでないのに酔ったのか?」
真関くんがさりげなくうしろに立って、みんなから見えないように気を遣ってくれた。僕は「ちょっとゴメン」と告げてトイレに逃げ込み、洗面台の鏡を睨みながら気持ちが落ち着くのを待つことにした。
「……最悪だ」
いい年をして、告白できないどころか好きな子の前で泣き出すなんて。こんなことなら忘年会になんか来るんじゃなかった。
呼吸を整えてトイレから出た。松田さんと真関くんが真ん中の席を空けたまま楽しそうにしゃべっていた。二人とも自分の望む道を進んでいる。僕がいなければ彼らにとってあの席は不要な空間だ。だったら自分はこのまま消えてしまった方が良いのかもしれなかった。
最終話 雪の降る町
お会計の後、盛り上がった勢いで二次会のカラオケへと繰り出すことになった。でも僕は「気分が悪いから」と伝えて先に帰ることにした。松田さんに再会して興奮していたのか、居酒屋の雰囲気に負けることはなかった。でもこれ以上は彼女たちといても惨めな気分になるだけだと思った。
外に出ると、暖冬なのに雪がちらついていた。僕はカラオケにむかうみんなを見送って、店の前にあるベンチに腰かけた。
「虚しい……」
真っ黒な空を見上げて呟いた。小説の世界ならまた同じ時間をやり直せるけど、残念ながら僕の人生は世知辛い現実だった。
「先輩、大丈夫ですか?」
見ると松田さんが立っていた。ジャケットを羽織り、襟元にふわふわのマフラーを巻いた彼女は、暗闇の中でも白く輝いて見えた。
「こんな所にいたら風邪引いちゃいますよ?」
松田さんはしゃがんで視線の高さをこちらに合わせると、僕の手をぎゅっと握った。
「ほら、こんなに手が冷たい」
「ちょ、ちょっと……」
好きな人の体温を感じて僕は戸惑った。こんな甘酸っぱい感情は高校以来だ。道を行くほろ酔いの人たちがこちらを見て、「雪なのにお熱いねぇ」と冷やかした。
「それより松田さんはカラオケ行かないの?」
「気分の悪い先輩を放置して行って、楽しいと思います?」
松田さんが少し拗ねるような表情で頬を少しだけ膨らませた。彼女の優しさが心に響いて、また目頭が熱くなった。
「っていうか、知ってました? この髪の色、本当に地毛なんですよ」
松田さんは僕から手を離すと急に話を変えて、自分の髪の毛を摘まんだ。
「え、そうだったの?」
「当時から誤解されてたんですよね。なのに意地を張って眼鏡もかけず、髪も黒くしなかったから、みんなにすごく怖がられて」
しゃがんでいた松田さんが立ち上がり、僕の隣に腰を下ろした。
「だけど先輩はそんな私に優しくしてくれました。あの時はすごくうれしかったな。先輩、ありがとうございました」
でも現実は、彼女に感謝されるようなことは何もしていない。ただ無理に恰好をつけようとして、ひとりで先生に怒られたくらいだ。
「松田さん、僕こそ君には感謝しているんだ。恥ずかしい話だけど僕は昔から女の子という存在が苦手だった。だけど君はそんな奴に話しかけてくれて。アルコール砲にも興味を持ってくれたよね。だから君のおかげで高校生活が楽しかったんだ」
「私が研究をダメにしちゃったのに?」
彼女が申し訳なさそうに言ったけど、僕は頷いた。
「もし今からあの日にタイムリープしたとしても、僕はやっぱり君にアルコール砲を渡すと思う。これまでこんな先輩を慕ってくれてありがとう」
これが素直な気持ちだった。告白の言葉ではないけれど、彼女への感謝を伝えられたので、僕はそれだけで満足だった。
「じゃあお互いさまですね」
そう言って松田さんが微笑んだ。それから彼女は「あ、タイムリープといえば」と何かを思い出したように、鞄から一冊の本を取り出した。
「これを先輩に返そうと思って」
彼女が手にしていたのは、高校時代に貸した小説だった。
「そっか、貸してたんだっけ。わざわざ持ってきてくれたの?」
「このお話、最後は主人公がヒロインを救うために、永遠の別れを選択するんですね」
「うん、彼女を助けるには他に方法がなかったからね」
「でも私はこの結末、あまり好きじゃありません。だって物語の主人公とヒロインには幸せになって欲しいじゃないですか」
「まぁ……たしかにそうかもね」
「ずっとお借りしていたのに、こんな感想ですみません」
「いや、素直な感想が聞けて良かったよ」
僕が本を懐にしまうと、松田さんはその様子を見守ってから口を開いた。
「じゃあ先輩……もう一度だけ素直に聞いてみてもいいです?」
それは昔から大好きだったあの舌っ足らずな話し方。まるで高校時代の松田さんがここに戻ってきたみたいだった。
「も、もちろんいいけど……何を?」
「何でお酒弱いのに、今日はわざわざ来てくれたんですか?」
松田さんが潤んだ瞳でまっすぐこちらを見て聞いた。だから僕は、正直に答えた。
「松田さんに会いたかったんだ。僕はずっと、君のことが好きだったから」
物語の最後はハッピーエンドが良いと松田さんは言った。でも僕と彼女の物語はこの先、どうなっていくのだろう。
暗闇を纏った冷たい雪が本格的に舞い始めた。だけど今は松田さんと一緒だったから、平成最初の年の冬は少しも寒くはなかった。
おわり
最後まで読んで頂きまして、ありがとうございました。
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