短編小説|『漫才童子』
<紹介文>
時は平成。
今年十年目の若手芸人、久遠亜紀は人生の節目に立たされていた。
さらに彼女は同期の人気芸人コンビの二人の間で気持ちが揺れ動く。
仕事か恋愛か、それとも……彼女が選ぶ道は?
<登場人物>
久遠亜紀 物語の主人公
殿居 人気芸人コンビ、トノ&カシンのトノ
香椎 人気芸人コンビ、トノ&カシンのカシン。亜紀の同期
ヒロキ とつぜん亜紀の部屋に現れた、謎の少年
◇
◇
◇
ここから本編がはじまります
漫才童子
作:元樹伸
第1話 売れっ子と低空飛行芸人
私は久遠亜紀。今年で十年目のお笑い芸人だ。
一九七〇年代に火がついた漫才ブームに憧れて上京したけど、今はすでに二十一世紀。気づけば鳴かず飛ばずのベテラン若手になってしまった。
だからって諦めるのはまだ早いと思っている。年齢的にもまだまだ……うん、ギリギリセーフだ。でも時間と現実は想像しているより無慈悲だから、私が覚醒する日など待っていてくれないこともよく知っていた。
これまでの私は、小さな芸能プロダクションに所属しながら、三十種類以上のネタキャラを作って演じてきた。でも一度だってまともにウケた経験はない。だからテレビの仕事なんかもらえるはずもなく、今でも場末感漂う小劇場やストリップ小屋の前座をやっていた。
つい先日も舞台で「脱がねーなら引っ込め!」とお客さんにトイレ紙を投げつけられたっけ。でもそれをヒントに新キャラを生み出した私ってポジティブだ。トイレ紙を全身に巻きつけた「紙イラ女」。まあ自然に優しくないし、全然ウケなかったんだけどね。
「いい加減、諦めて田舎に帰ったら?」
故郷から遊びに来てくれた仲のいい友達が私に言った。彼女は六年前に結婚して出産もしていた。売れないのに今のような仕事をずっと続けている私は、一般的に見ても結婚願望が強い方じゃないと思う。だけどアイスを頬張りながらお母さんに甘える娘さんの姿を見ていると、何故か心の奥の方はぎゅっと締めつけられる想いがした。
このまま下積み生活から抜けだせずに、誰にも知られることがないまま、一人寂しく野たれ死んでいくのではないか。
そんな私の追い詰められた気持ちを察したのか、事務所のマネージャーが次のイベントで着る衣装の候補を提案してきた。それはバブル経済時代に流行ったイケイケのボディコンスーツ。身長がない私に似合うとは思えない、ズレまくりのお色気キャラだった。
「今までこういう路線ってなかったでしょ? 逆にこのズレた感じがウケるかもしれないかなって。もちろんジュラさんが気に入ればって話だけど」
相方でもない人間が芸人のネタに口を出してくるなんて。普通ならそう思って相手にしないところだけど、私と彼女はあまりにも付き合いが長かった。だから私は十年以上お世話になっている彼女への恩返しのつもりで、その提案を受け入れることにした。
今日は夜から「輪来の会」があったので、劇場がほど近い新宿一丁目の飲み屋に足を運んだ。
月に一度のペースで若手の芸人が飲んで騒ぐだけの集いだけど、私にとっては数少ない憩いの場だった。今日は同じ目標に向かって猛進している同志に会って癒されるんだ。
裏路地にある居酒屋が近づくと、店内から仲間たちの笑い声が聞こえた。
「おう、アッキー。やっと来たか」
店に着くと顔を真っ赤にした香椎が手招きして私を呼んだ。アッキーは私のあだ名。ちなみに芸名は白亜紀ジュラだ。
香椎のテーブルには空いたジョッキが並んでいて、すでにできあがっているように見えた。そして彼の隣には殿居くんの姿もあった。
二人とも、忙しいのに今月も参加しているんだ。
殿居くんは香椎とトノ&カシンというコンビを組んでいる。輪来の会の中でも一番の出世頭だ。トノこと殿居くんがボケ担当で、カシンである香椎はツッコミ担当。今やテレビでも舞台でもひっぱりだこの二人組だった。
私と同期の香椎も元々はピン芸人だったのに、運命って本当に分からない。
「こんな所で飲んでる暇あるんだね」
新キャラの件でやさぐれていた私は、シラフのうちから皮肉を飛ばした。
「絡むのはやっ。そんなのは飲んでからでしょ!」
香椎が笑いに変えてくれて場が盛り上がった。さすがは長い付き合いなだけはある。どうして私は彼と組まずに、ピンでいることにこだわってきたんだろう。
「まぁ姉さん、駆けつけ一杯!」
香椎の隣に座ると、殿居くんが私にジョッキを渡して言った。彼の笑顔はいつ見ても可愛かった。
「姉さんが新キャラデビューって聞いたので、お祝いに来ました」
後輩である殿居くんは私を姉さんと呼ぶ。私よりずっと若い彼は事務所に入ってすぐに香椎と組み、あっという間にスターダムに駆け上がった。いわばサラブレッド。同じ事務所なのに、雑種の私とは住んでいる世界が違って見えた。
「デビューって言っても、もう31回目なんですけど」
「じゃあ101回目のデビューを祝って姉さんにかんぱーい!」
「プロポーズじゃねぇし! 31回目だっていってるだろ!」
昔のテレビドラマをベースにボケる殿居くんに入れたツッコミをきっかけにみんながジョッキを掲げ、私は溜まった不満やストレスと一緒にビールを喉の奥へと流し込んだ。
楽しい時間はあっと言う間に過ぎて、カラオケが終わった頃にはとっくの昔に終電が終わっていた。タクシー代がもったいないので歩いて帰ろうとしていると、ほろ酔いの殿居くんに声を掛けられた。
「うち新丸子なんですけど、帰る方向一緒ですか?」
目黒方面だったので答えはイエス。そして泥酔していた私は不覚にも、後先を考えることなく彼と同じタクシーに乗りこんでいた。
第2話 ネバーランドからの使者
『トノ殿居&白亜紀ジュラ、一夜限りのコンビ結成か?』
頭の中で卑猥な雑誌の見出しが渦巻く。今はただの妄想だけど、もし週刊誌にでもすっぱ抜かれていたら大変なことになる。この事実が世間に知れたら、私はともかくとして、人気絶頂のトノ&カシンと事務所に多大な迷惑がかかるのは明白だった。
女遊びは芸の肥やしなんて言っている人もいるけど、二十一世紀の平成となっては時代錯誤。それも若手のイケメン芸人となれば風当りも強いことだろう。特に女性ファンの心証を害するので、女遊びなんて絶対にご法度だ。
さらに彼は芸人としては珍しく、爽やかで健全なイメージを売りにしていたから、この手のスキャンダルは致命的に思えた。
あの夜、いくら殿居くんと良い雰囲気になったからといって、私は軽率過ぎる行動をとってしまった。百歩、いや千歩譲って、彼は覚悟の上だったとしても、コンビの香椎にはどんなに詫びても償えない気がした。
殿居くんとは、あれから一度も会っていない。彼は売れっ子だからそんな暇はないし、私の方からも連絡しようとはしなかった。
白亜紀ジュラ、頭を冷やせ。あれは一度きりの過ちだったんだ。お互い本気じゃなかった。だって二人ともすごく酔っていたんだから。
それにしても、この件で会社に呼び出されたらどうしよう。
ここ数日はそんな考えにばかり囚われていて、ひとり怯えながらお金にならない仕事を続けていた。でも帰れば冷蔵庫の中にチーズケーキが待っている。だから私はそれだけを楽しみに、今日もパチンコ屋の営業をこなして家路を急いだ。
二階建ての安アパートに戻って電気をつけると、誰もいないはずの部屋に人影が浮かび上がった。
「殿居くん……?」
人影を目にして一瞬だけ見間違えたけど、鍵を渡していないので彼のはずがない。よく見ると、十代後半くらいの見知らぬ少年が、狭い六畳間の真ん中に立っていた。
いや、ちょっと待てよ。正確には立ってなどいない。彼の身体は床の畳から1メートルほど宙に浮いていた。
こいつ、ヤバ吉……。
手品師の強盗かもしれなかった。それとも宇宙人、はたまた物の怪のたぐいか。とにかく怪しさ全開なのに、不思議と怖くはなかった。
だから私はかろうじて、「あなたは誰?」と尋ねることができた。
「オレはヒロキ。よろしくね」
少年は初対面の私に対して、笑顔のまま浮くほど軽い自己紹介をした。
「そうじゃなくて、うちでなにをしているの? っていうか完全に浮いてるよね?」
「ああ、これね」
彼は羽根が付いているかのようにフワリと浮かび上がり、狭い部屋の中を器用に飛び回り始める。まるでその姿は、鳥かごから逃げ出した小鳥のようにも見えた。
「夢の国から来たって言ったら、信じてくれる?」
あなたのご出身は、ネバーランドですか?
新キャラのアイデア出しにばかり気を取られているうちに、ついに頭がおかしくなってしまったのだろうか。私は開いた口が塞がらなくて、夢なら覚めて欲しいと頬をつねった。
「うそ、痛いんですけど。あははは……」
この非現実的な状況についていけず、私はやけになって笑った。
「うん、亜紀は笑顔の方が断然良いよ。なんだか悩んでいるみたいだから、相談に乗ってあげようと思ってやって来たんだ」
彼は宙に浮いたまま胡坐をかいて言った。
わかったぞ。これはきっと私の妄想が作りだした幻影に違いない。
頭の中であらゆる可能性を探ったあげく、それが最終的にたどり着いた結論だった。
そしてその数分後。
私は殿居くんから連絡がないことを、ヒロキに愚痴っていた。まるで昔から知っている気のおけない友人のように。彼が妄想の産物だとすれば、なにも遠慮する必要なんてなかった。
ところが溜まっていたわだかまりをすべて吐き出すと、それまで黙っていたヒロキが口を開いて言った。
「そんなに好きなら、自分から連絡すればいいじゃん」
「な、なによ偉そうに! まだ子どものくせに!」
「まぁいいや……じゃあおやすみ」
子どもを相手にキレた大人げない私に呆れたのか、ヒロキはそのままス~ッと上昇して天井をすり抜け、その向こう側に姿を消してしまった。
「妄想にしては、ちょっとリアル過ぎるのよね……」
その場に座り込み、携帯電話を出して発信ボタンを押す。
私の家には、得体の知れないなにかがいる。
これが妄想じゃないなら、ヒロキの存在を公表してテレビ局に持ちこんだら高く売れる気がした。けれどそんなことをしたら、彼が二度と現れない可能性もあった。
またヒロキに会って話がしたい。そう思った私は携帯電話の電源を切ると、布団の上に放り投げた。
好きなら自分から連絡すればいい……か。
たしかに彼の言う通りだ。そんなことは分かっていた。あれは酔っていたからじゃない。私は前から殿居くんのことが好きだった。
だからどうしてこうなったのか、彼の気持ちが知りたかった。結果、「あれは遊びでした」と言われたとしても、仕方のない話だと納得するつもりだった。
その夜、私は布団の上で携帯を一時間以上睨みつけ、やっと『また一緒に飲みたいね』と殿居くんにメールを送信した。すぐに返信はなかったけど少しだけ気分が晴れて、私は久しぶりにぐっすり眠ることができた。
第3話 ソーシャルディスタンス
ヒロキはいつだって、気まぐれに姿を現す。
でも出てくる場所はアパートのリビングだけと、いつも相場が決まっている。お風呂やトイレには出没しない。そして着替えている時も礼儀を重んじる。どうやらお互いのプライベートはきちんと守るタイプのようだ。
なのに私が落ち込んだり話し相手が欲しい時は、タイミングよく現れて相手をしてくれる。つまり私にはとても都合のいい存在。見た目はすごくリアルだけど、やはり彼は私の妄想が生み出した架空のキャラクターなのかもしれない。
それよりも私が気にしていた当面の問題は、殿居くんからの返信が来ないことだった。仕事で忙しいとしてもメールくらいは打てる気がする。でもめんどくさい女だと思われたくなくて、こちらから連絡する気にはなれなかった。
メールを送ってから三日目の朝。待ちに待った着信がきた。
『すみません、テレビの企画で今朝まで携帯取り上げられてました』
そういえば先日、大した用もなくたまに連絡をくれる香椎が言っていた気がする。今度狭い部屋に閉じ込められて、どれだけ寝ないで耐えられるか競う番組に参加する予定だと。私からの連絡をスルーされていなかったことにホッとしていると、また殿居くんからメールが届いた。
『明日なら少し時間つくれます』
すぐに返信して会う時間を決めた。だけどその約束は当日になって、彼の仕事の都合で延期になった。その後も何度か約束を交わしたけど、それらすべてがことごとくキャンセルになった。売れっ子だから忙しいのは理解できる。だけど八回目の約束が果たされなかったその夜、それなら初めから約束しなければいいのにと思ってしまった。
「本当に会う気あるのかな?」
「なければ何度も約束しないと思うよ」とヒロキは私を慰めた。
わざわざ自由が丘まで行って買ったメロンパン。そんな自分へのご褒美を食べようと冷蔵庫に立った時、放置していた携帯電話が鳴った。慌てて発信者を見ると、やっぱり殿居くんだった。
「もしもし?」
昭和生まれの私は、電話に出ると今でもこう言ってしまう癖がある。
「姉さん、ドタキャンばっかですみません。だから今度、埋め合わせさせて下さい!」
忙しい隙間を縫って食事を奢ってくれるという。電話の向こうで彼が頭を下げている姿が想像できた。「でも無理しなくていいよ?」「いいえ、次こそは必ず!」と短い会話で約束をすると電話が切れた。
次こそ本当のホントだろうね?
そんな風に思いながらも、ドレッサー代わりのぶら下がり健康器から数年前に通販で購入した勝負服を手に取った。だいぶ前から着る機会のないワンピだったので、サイズ的に大丈夫か心配だった。着てみるとやっぱりきつかったので、私は出したばかりのメロンパンを冷蔵庫にしまった。
ダイエットを兼ねた半身浴中に事務所のマネージャーから電話があり、裸のまま出ると仕事の話だった。どうやらボディコンキャラのお披露目イベントが決まったらしい。話を聞いているうちにみるみる身体が冷えて、大きなくしゃみが出た。
「イベントは今週なので、体調管理お願いしますね」
「大丈夫です。バカは風邪を引きませんから」
ところがイベントの開催日当日は、殿居くんに会う日と重なっていた。無論、仕事を断る選択肢はあり得ないので、私は仕方なく彼に電話して事情を説明した。
「気にしないで。101回目のデビュー頑張ってくださいね」
「ありがとう……でも31回目だし」
殿居くんは優しかったけど、私達は別に付き合っているわけじゃない。だからこのままだと、今の関係が自然消滅するかもしれなかった。
「殿居くん、ちょっと待って」
「なんですか?」
「思ったんだけど、やっぱり食事はできるんじゃないかな?」
だから私は覚悟を決めて、そんな強気宣言を彼にむかってぶちかました。
決戦の日。例の仕事は午後8時に終わるので、殿居くんとは8時半に会う約束をしていた。なのにこんな日に限って、不運なトラブルはいたるところに潜んでいた。
まず舞台装置の故障でイベントの開始時間が遅れた。さらに私のキャラが想像以上にウケて、まぁそれは良かったのだけれど、とにかくそんなこんなでイベントの終了時間がかなり延びてしまっていた。
午後9時。私は幕が下りると同時に携帯に飛びついた。見ると殿居くんからの不在着信があった。『仕事おしてますか?』というメールも来ていたのですぐに電話したけど、電源が切れているか圏外で、いつまでたっても繋がらなかった。
怒って電源切っちゃったのかな?
考えていても仕方ないので約束の場所に向かった。タクシーに乗るも交通渋滞にはまったので地下鉄に乗り換えた。さらに遅れるのが目に見えた。
午後10時。二時間の遅刻で待ち合わせの喫茶店に到着した。でもそこに殿居くんの姿はなかった。焦っていて気づかなかったけど、携帯電話を確認すると私が地下鉄にいた時もメールが来ていた。
『すみません、これからラジオなので今日はもう行きます』
この日の殿居くんは深夜ラジオの仕事だった。そして彼の携帯電話が繋がらなかった理由はすぐに分かった。指定した喫茶店が地下なので電波が入らなかったのだ。
圏外だったのは彼がここで待っていた証拠。来たこともない喫茶店を待ち合わせ場所にした私って本当にバカだ。こんなことなら意地なんて張るんじゃなかった。
こうなった以上、今の私には家に帰ってテレビをつけるくらいしか、笑顔の殿居くんに会う方法は残されていなかった。
第4話 チャンス
殿居くんとのデートをすっぽかした日の深夜。大人買いしたコンビニのスイーツをやけ食いしてふて寝した私は、携帯の着信音で目が覚めた。
カーテンのすき間から太陽の光がさしている。壁の時計を見ると9時を過ぎていた。
殿居くんからの電話かと思って慌てて出たものの、かけてきたのは事務所のマネージャーだった。例の新キャラが好評だったので、今後は営業の仕事が増えそうだという嬉しい知らせだった。事務所としても、これからどんどん宣伝していく意向だと言われて、私は心の底から「ありがとうございます」と答えた。そしてマネージャーは電話を切る間際にこう付け加えた。
「大事な時期なんだから、くれぐれも芸人同士で派手にやらかさないようにしてくださいね」
ふいに忠告されて背筋が凍りついた。具体的な相手の名前は出なかったけど、マネージャーは私と殿居くんの関係について薄々勘づいているようだった。ただ事務所には呼び出されていないので、週刊誌に写真を押さえられたなどの危機的な状況ではなさそうだ。
無論、アイドルのような恋愛禁止契約をしていない限り、会社が芸人のプライベートを制限するなんてできない。でも事務所からさりげなくでも注意されれば、売れるために我慢する人がいるのも現実だ。これは繰り返しになるが、女遊びが芸の肥やしと言われた時代はとっくの昔に終わったのだ。
「気になるなら、連絡して彼の気持ちを聞いてみれば?」
愚痴ったヒロキに言われたけど、私は迷っていた。
このまま殿居くんとの距離を縮めれば、きっと彼の仕事にも影響が出るに違いない。それはつまり、今後のトノ&カシンに関わってくる問題だ。
会社にとって彼らは絶賛売り出し中の看板芸人。このタイミングでのゴシップやスキャンダルは避けたいはずだった。それも私のような売れない芸人のせいで問題が起これば、彼らも黙っていないだろう。
もちろん、こっちだってそんなことは望んでいない。最近まではお互いが本気なら問題ないと思っていたけど、私はここに来てよく分からなくなっていた。
間もなくして、事務所からの後押しのおかげもあり、私の仕事はうなぎ登りで増え始めた。白亜紀ジュラが演じるボディコンスーツ女は、どうやらこちらの想像を遥かに超えて、世間的に需要があるみたいだった。
この前もストリップ小屋の前座に行くと、客席からおひねりが飛んできた。いまだに私をストリッパーだと勘違いするお客さんもいるけれど、そこには自分が求められているという実感があった。なんにしても、「脱がないならひっこめ」と罵倒されてトイレ紙が飛んできた当時に比べれば、今の仕事は充実していた。
でも一方で、殿居くんとの関係については完全に足踏み状態。トノ&カシンは最近になってCDデビューも果たし、いよいよ芸人というよりもアイドルグループのような扱いを世間から受けるようになっていた。さらには事務所からのプレッシャーもあって、彼と連絡をとることすら躊躇われる日々が続いていた。
「世の中、なにが当たるか分からないもんだな。とにかくめでたいよ」
居酒屋のカウンターで、隣に居る香椎が日本酒を飲みながら私に言った。
「精一杯、頑張るよ。ここが正念場だもんね」
「じゃあ、とにかく売れてる姉さんにかんぱーい!」
すっかり酩酊した後輩が、今日三回目の乾杯の音頭をとった。だけどこの会に殿居くんの姿はない。その理由はおそらく、私のせいだった。
「それにしてもあいつ、なんで顔出さないかね」
升に零れた日本酒をコップに移しながら、香椎が忌々しそうにぼやいた。
「だって最近のトノ&カシンは、超多忙のイケメンアイドルコンビだからね。ってことはアンタ、イケメンじゃないからカシンの偽物でしょ?」
「偽物でもいいから、今日くらいはお祝いに駆けつけるべきだろ」
いたたまれなくなってボケてみせたけど、香椎は本気で怒っていて私の冗談を右から左へと受け流した。
その日の夜、殿居くんから電話がきた。
「今日はお祝いに行けなくてすみませんでした」
「別にいいよ。それよりこの前は本当にゴメンね」
私は今になってやっと、すっぽかした食事のことを謝った。
「それはいいんですけど……」
そう言う殿居くんの声は暗かった。聞けば彼にも事務所から注意喚起があったという。殿居くんは私と違ってまだ若い。それも今が一番大事な時だ。
「今は距離を置いた方がいいのかもね」
今まで一度もデートをしていない相手にむかって私は言った。でも心のどこかでは、「そうじゃないだろ」と彼がツッコんでくれることを期待していた。我ながら卑怯だと思った。
「姉さんの新キャラ、かなり好評みたいですね」
殿居くんはツッコむ代わりに話題を変えた。
「うん、だから私ももっと忙しくなるかも」
「お互い、今が勝負時なのかもしれません」
返す言葉も否定する根拠も見つからない。
だから私は彼の台詞を素直に受け止めることしかできなかった。
第5話 モテ期と代償
芸能事務所には沢山のファンレターが届く。殿居くんには若い子のファンが多く、彼への想いを綴った過激な内容の手紙もあるらしい。
『あなたと結婚して住む家を買ったので、一緒にローンを返しましょう』
そんなホラー映画のような文面もあるみたいだけど「でも気持ちは嬉しいですよ」と当人はあまり気にしていない様子。それよりも女子高生にモテていることにご満悦のようだ。
というのが相方香椎から聞いた情報だけど、最後の女子高生云々の下りはだいぶ怪しかった。
あれから殿居くんと私は距離を置いている。テレビ局で一緒になっても口は利かない。そう、私も最近はテレビのお仕事が頂けるようになっていた。
でもテレビってすごい。ゴールデンタイムのドラマにチョイ役で出ただけで、あっという間に名前が知れ渡る。ただこの時の私はまだ分かってなかった。有名になることで、どんなリスクが生まれるかっていうことを。
その日、私はトノ&カシンのラジオ番組にゲストで呼ばれていた。
出演するコーナーが終わったのは深夜。スタジオから自宅まではたいして距離がなかったのでタクシーチケットはもらえなかった。少しくらい売れてもこれが若手の現実。スタジオを出た私は歩いて帰ろうとして、近道になるひと気のない路地を選んだ。
そして、災難の種は暗がりに潜んでいた。
スタジオの近くだったので待ち伏せされていたのかもしれない。突然、後ろから羽交い絞めにされて口を塞がれた。細い腕だけど紛れもなく男の力だった。抵抗したら殺されるかもしれない。恐怖で身体が竦んだ。
「テレビなんかに出るなよ。君の良さが穢されるだろ」
彼は搾り出すように私の耳元で「テレビに出るな」を繰り返した。とにかく怖くて、タクシー代をケチった自分を呪った。
「おい、アッキーか?」
表通りから聞き覚えのある声がした。私を羽交い絞めにしていた男はそっちを見て懐からナイフを出すと、近づいてくる人影に突進して激しくぶつかった。それから男は「ひぃ!」と短い悲鳴を上げると、そのまま路地の奥へと姿を消した。
「アッキー……大丈夫か?」
刺されて倒れているのに私を心配して呼びかける人の影。そんな危篤な奴は、お人よしの香椎しかいなかった。
後日、私を襲った男は逮捕された。
この事件で香椎は左の腿に刺し傷をもらい、医師は三週間の入院と診断した。もし香椎が気づいていなければ、私は今頃どうなっていたのか。恐ろし過ぎて考えたくもなかった。
「こんなことになって本当にごめん……」
お見舞いに持ってきた林檎を剥きながら、私は言った。
「その林檎代は事務所に請求してやれよ。タクシーチケットをケチるからこんなことになったんだ」
「助けてくれて本当にありがとう、あの時は死ぬかと思ったよ」
当時の記憶がフラッシュバックして、目に涙が浮かんだ。
「会社にはタク券ケチるなって言っておいたから。もし出なかったら俺にチクってくれ。事務所辞めてやるって喚いてやるよ」
「ふふっ、そんなことされたら私もクビになるって」
怪我をしたのは香椎の方なのに、彼は私をいたわってくれた。
「ごめんね、人を笑わす仕事の私が泣いてちゃ話にならないよね」
「泣きたい時は泣いた方が健康にいいんだ。なんだったら俺の胸を貸してやるけど。1分につき10円でどうだ? それこそ出血大サービスだ」
「出血って……そんな冗談、笑えないよ。でもこの借りは利子をつけて返すからね」
「いや、利子はいらない」
香椎はそう言ってゆっくり起き上がると、泣きそうな私を抱き寄せた。
「俺が欲しいのは、利子なんかじゃないんだ」
声が出なかった。抵抗もできなかった。その時、病室のドアが開いて殿居くんの姿が見えた。
「香椎さん、とんだ目に……」
彼は香椎と私の姿を見て言葉を詰まらせた。それでも私がそのままでいると、何も言わずに病室から出て行った。
「いいのか、追わなくて」と香椎が呟いた。
「ごめん……ごめんなさい……」
私は泣いているのを見られたくなくて、彼の胸に顔をうずめたまま謝り続けた。
第6話 すゑひろがり
新キャラが好評の私は色々なテレビ番組に引っ張りだこで、最近は週に三時間しか眠れないような日々が続いていた。今日は三ヵ月ぶりの休日だったのでしつこく布団の中でうとうとしていると、枕元の携帯電話が鳴った。
結局、あれから殿居くんとはうまくいかなかった。病院で私に告白してくれた香椎の気持ちにも応えられなかった。だからそんな私にはお笑いしかないと思った。いや、昔からこの仕事こそが私の生きる道だったはずだ。
「亜紀、電話! 電話! 電話だよ!」
いつまでも出ないでいると、ヒロキが騒いで私を起こそうとした。
「言われなくても分かってるよ……」
「だったら早く出なよ!」
あまりにうるさいので、私は仕方なく電話に出た。
「もしもし……」
「どうも……あれからお元気でしたか?」
受話器から聞こえてきたのは、ずっと聞きたかった殿居くんの優しい声だった。
「ありがとう亜紀、電話に出てくれて」
ヒロキはほっとした様子でそう呟くと、そのまま天井に姿を消した。
私はその電話がきっかけで、久しぶりに殿居くんと会うことになった。
待ち合わせは前にすれ違った喫茶店。仲間芸人に「こっそり会うのにいいよ」と勧められた場所で、お店にはマスター以外に店員はいなかった。
「香椎さんが姉さんに振られたって言ってました。本当ですか?」
私が頷くと殿居くんはほっとした表情を見せたけど、すぐに神妙な顔つきになった。
「でもこれではっきりした。姉さんと距離を置いたのは間違いでした」
彼はそう告げてテーブルに置いていた私の手を握った。殿居くんは年下だけど、その手はとても大きくて温かくて、私の小さな手をしっかりと包み込んでいた。
そこに一皿のサンドイッチを運ばれてきて、マスターが「これはお店からのサービスです」と言って差し出した。そこですっかりお腹が空いていたことに気づいた私たちは、ありがたく二人でそのサンドイッチを頂くことにした。
この日を境に、私たちは正式な形で付き合い始めた。事務所にも交際を報告して、二人の関係は公式のものとなった。すぐに週刊誌が嗅ぎつけたけど世間の声は比較的応援ムードで、仕事の風向きが変わることなく、トノ&カシンも私も順風満帆に仕事を増やしていった。お互い寝る暇もないほど忙しかったけど、公私ともにすべてが順調といえた。
やがて私たちは、大々的に記者会見を開いて、結婚の報告を行うことになった。そこには殿居くんの相方である香椎の姿もあった。彼は公私ともに私たちを応援してくれた。私はこの先、彼に足を向けて眠ることは一生ないだろうと思った。
一方、所属事務所は早くも私と殿居くんのコラボを検討中で、今日も会議室では夫婦漫才と銘打った新コンビ結成企画が検討されていた。利用できるものはなんでも笑いにかえる。それが私たちの業界だった。
「はぁ……今日は大変だったよ」
仕事が片付いて家に着いた私は、さっそくヒロキに愚痴をこぼした。
彼はいつもどおりに話を聞いてくれたけど、こちらの気が済むと一呼吸置いてから、「ちょっと話があるんだけど」と口を開いた。
「じつは今日でお別れなんだ」
「お別れって、どういうこと?」
言っている意味が理解できずに聞き返す。
「もうここにはいられないんだ。今まで一緒にいてくれてありがとう。短い間だったけど楽しかったよ」
いつもの冗談かと思ったけど、ヒロキはその後も「なんちゃってね」とネタばらしをすることはなかった。
「ちょっと待ってよ、だったらこれから私の愚痴は誰が聞いてくれるの? 誰が落ち込んだ私を慰めてくれるのよ! っていうか……こんなのってさみし過ぎるじゃん!」
私が耳を真っ赤にして訴えると、ヒロキは寂しそうに微笑んだ。
「大丈夫だよ。だってこの先は殿居さんが一緒だろ?」
話しているそばからヒロキの身体が光に包まれ、ゆっくりとその体が透け始めていた。映画とかで見たことがあるお別れのシーン。認めたくなんかないけど、本当にその時がやってきたのだと、私は唇を噛みしめたまま理解した。
「もう会えないなんて……そんなの嫌だよ……」
ヒロキは妄想の産物かもしれないのに、私はボロボロと涙を流していた。
「大丈夫、また会えるさ」
「……え?」
「だってあの時、彼の電話に出てくれただろ。それでオレの目的は達成されたんだ」
その言葉を最後に光の粒がはじけ、ヒロキの身体は完全に消滅した。
それからどんなに名前を呼んでも、ヒロキが再び現れることはなかった。だから私は叱られた子どものように布団に潜り込み、一晩中泣き明かした。
あれから三年の月日が流れ……
産休に入った私の元に殿居くんが来て、和紙の便箋を見せた。
「子どもの名前を考えた。見てよ、ちゃんと墨で書いたんだ」
そこには「八喜」と書かれていた。
「えっと……なんて読むの?」
「すゑひろがりに喜ぶで、ヒロキだ」
その時に私は気づいたんだ。
「じゃああなたの中では、もう男の子だって決まっているのね」
「たしかに言われてみればそうだな。あれ、でもなんでだろう?」
彼はそう言って首を捻ったけど、私はその理由を知っていた。
「それはね……」
私と殿居くんを結び付けてくれたヒロキはこれから生まれてくる。
彼と再会できる日を楽しみに、私は自分のお腹に優しく手を当てた。
おわり
最後まで読んでいただきまして、ありがとうございました。