ぼくは君たちを憎まないことにした
※作品の内容および結末など核心に触れる記述が含まれています。未鑑賞の方はご注意ください。
この映画の原作はアントワーヌ・レリスによる同名書籍ですが、ノンフィクションですからそのままでは映画になりようがありません。原作にはない描写が悉く見事で、脚色のお手本のような作品ではないかと思いました。
mise-en-abyme
エレーヌ(カメリア・ジョルダーナ)は仕事の都合で、予定していたコルシカ島への家族旅行に行けなくなったと言います。アントワーヌ(ピエール・ドゥラドンシャン)は、せっかくの家族旅行なのだから仕事を断れないのかと食い下がりますが、エレーヌは、息子のメルヴィルと水入らずで行けばいいと素っ気ない。だったら行かない、全員でキャンセルしよう、と言うアントワーヌに、じゃあ、そうしましょう、と答えるエレーヌは、夫ではなく、駄々をこねている子供をあしらうかのようです。
もちろんこのような描写は原作にはありません。不幸に見舞われる家族を描くのに、まず幸せな家族を見せるのは常套手段ですが、ただ仲睦まじい描写をダラダラと見せるのではなく、むしろそこにちょっとした言い争いを持ってきて、しかも、これが今から語られるストーリーのミニチュア・バージョン、ミザナビーム(mise-en-abyme)になるよう演出されているのが見事です。
映画は、エレーヌを失ったアントワーヌとメルヴィルが、二人で生きていくまでを描きます。それをエレーヌが行けなくなったコルシカ島への家族旅行に、二人だけで行くことに変奏しているわけです。
アントワーヌは、エレーヌが行かないなら意味がないと旅行=これからの人生をキャンセルしようとするのですし、メルヴィルはその言い争いの間、お気に入りの人形=母親がないとアントワーヌを困らせます。そしてエレーヌの達観したような物言いは、あたかも半分あの世に足を踏み入れているかのようにも聞こえます。
赦しの行為は決して予見できない
ここに引用した古田徹也『謝罪論』では、加害者の謝罪によって、被害者が日常のコントロールを取り戻すことができるかもしれないとしています。
一方、アントワーヌがしたことは、加害者の謝罪なしに「ぼくは君たちを憎まないことにした」と宣言することで日常のコントロールを取り戻そうとする試みでした。
しかし、加害者の謝罪があったとしても難しい赦しが、「ぼくは君たちを憎まないことにした」とSNSにポストするだけで訪れるはずもありません。そもそも「赦そうと思いさえすれば赦せるわけではない」のです。
赦し得ぬものを赦すことは可能なのか?
なので映画は、自らの言葉に追いつかない感情を描いていきます。では、意志によってはもたらされない赦しは、いかにしてもたらされるか。いつの間にか訪れる僥倖を映画はどう描くのか。
アントワーヌの兄が彼の自宅を訪れると、荒れ放題の部屋にメルヴィルが一人きり。嫌な予感に駆られたアントワーヌの兄は、弟の名を呼んで探しますが返事がありません。鍵のかけられたドアを激しく叩きます。別の部屋から顔を出したアントワーヌは、ただエレーヌの服を選んでいただけだと嘯きます。子供をほったらかして引きこもっていてはダメだと激昂する兄。
エレーヌの埋葬を経て、アントワーヌは自分の発した言葉と感情との乖離に身動きがとれなくなり、シャワー中にいたずらをしたメルヴィルに思わず声を荒げてしまいます。
いなくなるメルヴィル。嫌な予感に駆られたアントワーヌは、メルヴィルの名前を呼んで探しますが返事はなく見当たりません。するとエレーヌの服をしまってあるキャビネットから物音がします。メルヴィルはそこに閉じこもっていたのでした。
もちろん原作にこのような描写はありません。
監督のキリアン・リートホーフは、アントワーヌとメルヴィルで同じフォルム(引きこもり)を繰り返しました。
そうすることで、観客とアントワーヌは、メルヴィルに(引きこもる)自分の姿を認めることができるのです。つまり、いつの間にか自分の外に出て、「かつての自分」をそこに見るというわけです。自分が執着するものから逃れるには、執着するものにカッコ閉じされた自分を「かつての自分」として客観視するしかありません。
赦しとまでは言わずとも、執着から自由になる映画的な解決はこれしかないと言っても過言ではないでしょう。
そして人生はつづく
現実がそうであるように、映画も赦しを描写するボキャブラリーに乏しい(説得力に乏しい)のです。
むしろ復讐を描く方が容易いのも現実と同じでしょう。復讐のようなカタルシスがないのも、映画としては弱いのかもしれません。
しかし、アントワーヌが言うように、彼らの憎しみに怒りで答えては同じ無知に屈することになります。映画と違って人生は続くのですから。
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